第九章
第九章
高鳴る胸をなでおろす。肺を満たす樟脳の匂いに、この時ばかりは安心感すら覚えた。
大丈夫。ここは――、現実だ。
壁の穴。そして万華鏡。
いま自分が見ていたのは、はたしてなんだったのだろう。どこまでが現実だったのか。一体、なにを見せたかったのだろう。
けれども修一はなにも知ることはないし、どうすることもできないのだ。それがもどかしかった。
「櫻子――」
もう一度つぶやく。自らの意志で、確認するように。その名を唇に乗せる。
それはなんの躊躇いもなく紡ぎだされ、闇の影に溶けていく。
しかし、妙に引っかかる。自分はこの名を知っているのではないか。本当は知っていたのではないか。そんな疑問が首をもたげた時。
――背後で物音がした。
ふり返るとそこには……まるで、修一の声に答えたかのように。
人形が転んでいた。
壁に立てかけておいたはずなのに、五十センチほど離れた所で倒れている。まるで、こちらに近づいてきたかのようではないか。あの少女のように。
人形が動くなど、――ありえない。
しかし、ありえないことが、ここではありえる。
修一はそっと手を伸ばす。引き寄せて検める。
やはり――、ただの人形だった。
動くこともない。しゃべることもない。悲しげな、冷たい表情をしている。
けれども、これがただの人形ではないこともまた、修一は知っていたのだ。
ずっしりと重く、それは修一の手のなかにいた。
――ふと。
奇妙な違和感を覚えた。
誰かに――
見られている気がする。
どっと冷汗が吹き出た。ぞくりとも、ぞわりとも違う、不快な嫌悪感が背筋を駆け抜けた。
修一はふり返ることができなかった。ふり返らなくとも知っていた。
あの穴から――、誰かが覗いている。
体中の毛穴が一斉に、背中に向かって開いていくような感覚だった。
それが正しい現実のものなのか、それとも奇妙な現実のものであるのか分からなかった。けれども、どちらでも同じことだ。
どちらも本当の現実であることに変わりはない。
ならば、それを確かめる手段はひとつしかない。
ふり向く。
壁の穴。
張り付く。
――目があった。
修一を認めると、それはそっと恍惚にゆがむ。
そして声は、何度も聞いたはずの響きでこう言った。
「 お に い さ ま 」
うれしそうに。うれしそうに。
「 見 つ け た 」
と。
怯えて目を逸らす修一の、そこを離れようとする修一の――その腕を誰かがつかんだ。
樟脳が強く香った。
ふり返るまでもなく、視線を落とすまでもなく。
少女が――
腕のなかにいた。
修一は悲鳴をあげた。
戦慄に駆られ、あわてて突き飛ばそうとする。逃げだそうとする。
すると少女は強い目で、強い力で袖をにぎるのだ。離さないのだ。
「何故」
少女は言う。
「何故また、わたくしから逃げようとなさるのです。何故、わたくしではいけないのです。こんなにも、こんなにも……」
そう言って少女は修一の首に、細く冷たい腕をからめてくる。
それはひんやりとしていたが、生身の娘の肌のように柔らかく、優しかった。懐かしかった。そうして彼女は、幸せそうに目を細めるのだった。
「ああ、おにいさま。お会いしとう御座いました。愛されとう御座いました。愛してくださいませ。愛してくださいませ」
汗ばむ首筋にかかる息は、噎せるほどに強く、確かに古い樟脳の匂いがしたのだ。
それが鼻の粘膜、口の粘膜を侵して滲み、脳髄にまで染み渡ってしまう頃には修一は、もはや身動きはおろか、思考することさえ忘れ、惚けたように身を投げだすだけの存在に成り下がってしまっていた。これから我が身がどうなるかも分からぬまま、考えられぬまま。
闇の中、少女の笑い声だけが聞こえた。歓喜と狂気の狭間に響きわたる、無邪気な声だった。それに応えるよう、修一の表情も無意識に笑みを形作る。
――狂った者の笑みだった。
真っ暗な狭い蔵の一室に、壁から洩れる細い一筋の光。その傍らで、壁に寄りかかって笑う男が一人。汗にまみれ、涙にまみれ、涎にまみれ。
力なく修一の手から、万華鏡が転げ落ちた。
それは机の角に当たって壊れ、放たれたように散乱した。はっと少女の顔に、哀しみが差すのが見えた。筒はからからと、乾いた音をたてて転がっていく。
その途端、呪縛から解き放たれたように、最後の理性が目を覚ます。
修一は力を振り絞ると、少女を突き飛ばした。軽い身体は悲鳴すらあげず、いとも容易く弾き飛んだ。そうして暗がりの中に、かき消えるようにして見えなくなってしまった。
荒い息の下、修一は疼きにも似た甘い痛みを感じた。視線を落とすと、左腕が痺れ、赤く腫れていた。少女がつかんでいた跡だった。
再び闇の先に目をやると、色とりどりの細かな千代紙に囲まれて、樟脳臭い人形が倒れている。
その傍ら――壁から差し込む鈍い光の中で、小さな三日月形の具が目に止まった。
本来ならば細かすぎて注意を引くこともない小さな小さなそれは、おもむろに拾いあげると、手のなかで鋭くも優しい痛みをもった。
――爪だった。
ちょうど爪切りの後に落ちたような、綺麗に割れた硬質な皮質。その大きさから子供か女性のものであろうと思われた。
万華鏡の中に入っていたのだろうか。
修一はそっと夢想する。修一が筒を回すたび、千々に乱れた千代紙に揉まれながら、鮮やかで華々しい鏡面世界のなかで、はたしてそれはなにを描いたのであろうかと。
そんな儚い夢も、いまとなっては知るよしもない。
突然。
激しく床板が打ち鳴らされた。
それはある一定のリズムをもっていて、修一の考えが正しければ、――そう、ノックのようにも聞こえた。
それも床下から。なにかが強く、連続的に叩いている。
修一の心臓も激しく鳴りだす。
日常生活において、ノックにどういう意味があるのか考える。利用する場合はおもに、注意を促すときであろう。
たとえば、
――どなたかいらっしゃいますか。
もしくは、
――入ってもよろしいですか。
ならば、
ノックされた相手としては、どんな反応をとるのが適切であろう。
やはり――
返事をして招き入れるべきなのだろうか。
このまま怯えていても、なんの解決にもならない。なぜホラー映画の主人公たちが、進んで恐ろしい目に遭いに行くのか、少しだけ分かった気がした。
否定するために確認したいのだ。
やはり気のせいだったと。
そんなこと、なにもなかったと。
この目で。
確かめたいのだ。
たとえそれが、予想通り予想に反したものであったとしても。
だから、再び手をかけた床板が難なく持ち上がっても、やはりそれは予想に反した予想通りであったと言わざるをえない。
ひんやりと湿った空気が無遠慮に入り込んできて、樟脳に満ちた世界を容赦なく掻き乱した。焦がれた解放の安堵感と、けれどもその一方で、それを恨めしく思う自分もまた、確かに存在していた。
耳の奥で、少女の笑い声が聞こえた気がしたのだ。
(もう俺は、とっくにどうにかなってしまっているのだ……)
そう思い込まなければ、本当に気が触れてしまったことだろう。
――目が。
暗い地面にびっしりと。
濡れて光る、無数の眼球が。
張り付くように。
窺うように。
じっと、修一を見つめていた。
そしてそれは恍惚にゆがみ、やはり何度も聞いたはずの声でこう言うのだ。
「おにいさま」
うれしそうに。とてもうれしそうに。
「見つけた」
と。
「はやく――、わたしを、見つけて」
けれども、さみしそうに。
「おにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまあいしてくださいませおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさまおにいさま」
修一は首を振った。そうして恐ろしい幻をふり払う。
(冷静になれ。もっと目を開いて見ろ。俺はなにを見ているのだ。これは――)
床下に敷かれた小石が、うっすらと夕方の光を反射していたのだ。
無数の眼球など影も形もない。情けなくて笑えてくる。
見たことか。これが疑心暗鬼だ。
気を取り直して床下を覗くと、懐かしい土の匂いが流れ込んでくる。もうすっかり西日が強くなっているようだった。
修一は意を決し、冷たい地面に降りていった。
やはり成長した身体では、子供の頃のようにはいかないようだ。蜘蛛の巣に顔を突っ込み、土台に頭を打ちつけ、服を土で汚しながら、それでも修一は這った。
そしてようやく、黄昏の光のなかに帰ってくることができたのである。
四肢を大きく伸ばし、何度も息を吸い込む。そのたびに、冷たい新鮮な空気が胸に満ちた。
思い出したように身体から樟脳が零れるが、それもじきに風にまぎれ薄れていくだろう。
中庭には、冬を迎えようとする桜の木がある。次の年の春、この木が花をつけるさまを、どのような気持ちで眺めるのであろう。
寂れた鯨幕が秋の風にはためいて、それが一層景色を物悲しいものにしていた。
ふり返ると、白壁の土蔵は相変わらず重厚なほどの堅牢さで、静かにその役目を遵守していた。
蔵の裏手は竹林になっていて、緩やかな傾斜がそのまま裏山につながっている。明るい時間でも、気味が悪くて近づきたくはないような場所だった。
やはりそこには人影もなく、不気味な竹林が夕闇にさざめくのみであった。
ふり返る。
壁には小指の先ほどの、小さな穴が開いている。
しばらく迷った後、修一はゆっくり顔を近づけていった。