天死
堕天使。
崩壊。
涙。
挫折。
(もう…もう、無理。もう…)
暗闇の牢の中、夜雨は膝を抱きしめ、しゃがみこんでいた。
耳に飛び込む悲鳴。
制御不能の怒りと悲しみがもたらした破壊による被害者達。
(ごめんなさい…ごめんなさい…)
涙が止まらない。
結局、何もかも…自分は駄目な存在だった。
いじめられても抵抗できず、父にも意見できず。
そんな状況下でも勝手に自分を抑え込んで、勝手に負の感情を溜め込んで…今に至る。
もっと自分を出せていれば。もっと真正面から幸せを望んでいれば。
そんな簡単な事一つで良かったというのに。
つくづく、自分の弱さが身に沁みる。
自分は、天使などになれなかった。
人っ子一人、幸せにできないのだ。
(…生まれてこなければ、良かったのかな)
真実に気づいたように、夜雨は更に深く疼く待った。
幼少時代から愛を知らずに生きてきた。
それ故、孤独には慣れたつもりだった。
なのに、寂しい。
どうしようもない孤独感が、今になって濁流のごとく迫ってくる。
様々な感情が押し寄せ、喉がカラカラになるまで謝り、そして泣き続けてきた。
そして、忍耐に忍耐を重ねた末に行き着いたものがある。
それは罪悪感でも後悔でもなく。
孤独だ。
(…お父さん。お母さん)
呪縛を与え、拳を振りかざした存在に、彼女は語りかけた。
それは最早彼女の意思ではない。本能から来る、愛への渇望。
破壊され、奪われ、細く、冷たくなった彼女の心は…赤子同然だった。
頭を撫でてほしい。
抱きしめてほしい。
優しい誰かと、眠りたい。
もう天使なんて、いらない。
一人の人間として、愛してほしい。
(…夜雨!)
何かが真っ直ぐと、耳に飛び込む。
夜雨の顔が…僅かに上がる。
ああ、この声…。
最早瓦礫すら残っていない街の中心部。
堕天使の頭上に舞う、紫の翼。
仮面の男は、レイを抱えて、堕天使の周囲を飛んでいた。
雨が翼を突くように、激しさを増していた。このままいつまでも持ちこたえる事はできない…。
「くっ…!レイさん、まだ呼びかけ続けなさい!彼女を、彼女を連れて行くのです!」
レイは必死に呼びかける。
「夜雨っ!!夜雨ぇー!!」
目の前に聳える、美しき、破滅の影。
その周りを回り続ける自分達は、最早羽虫にも満たないちっぽけな存在だろう。
しかしレイは知っている。目の前の存在は、絶対的な存在なのではない。
レイの…たった一人の相棒。
今も尚、愛を求めて泣き続けている…本当は泣き虫で、どうしようもなく寂しがり屋な…一人の弱い少女。
とても弱く、とても儚く…しかし、必死に抱え続けてきた、誰よりも勇敢な人間なのだと。
堕天使の顔が、僅かに動く。反応を見せている。
「…夜雨さん」
仮面の男…悪魔までもが叫び始めた。
「夜雨さん!!聞こえているのでしょう!私達を見てください!」
堕天使は、じっとこちらを見つめている。
光のない、白一色の目が…不思議そうにこちらを眺めていた。
認識はしている。しかし、[日之影夜雨]はまだ出てきていない。
あと一歩…何かが足りない。
(…どうすれば夜雨さんを助けられる?どうすれば…)
悪魔の体力も、徐々に失われていく。
あと一歩なのだ。翼に全ての意思を込め、彼は無理やりにでも集中し続ける。
どうすれば…何が、引き金になる!?
「夜雨」
雨音の中。
優しく、柔らかい声がした。
「…!」
今の今まで叫んでいた…レイの声だ。
しかしその声には…一片の焦りも感じさせない。
腕の中で堕天使を見つめるその顔も…溶け込むような、優しい顔だった。
長い歴史の中、悪魔は様々な人間を観察してきた。
そしてこのレイの姿は、とある人間と重なった。
…母だ。
無条件に我が子を抱き寄せ、愛を注ぐ…赤子にとって、この世で輝かしく、温かな存在。
雨を晴らす、太陽…。
堕天使は、泣き止まない。
…しかし。
その涙が、変わっていた。
豪雨が少しずつ弱くなってきているのだ。優しく、撫でるような柔らかな雫へと、変化していく。
翼を突く槍の数々も、今では翼を支える優しい手のようだ。
…見えない天使が、寄り添って来たような感覚。
レイは、遥か下に見える崩れきった地上にも恐れず、両手を広げた。
「夜雨。おいで」
…巨大な翼が、小さな存在に反応した。
ゆっくり、優しく広げられ…。
日之影夜雨は、地上から離れ始めた。
その頃には、悪魔も…夜雨を見守り続けてきた仮面の男も、静かに、黙りこんでいた。
「一緒に寝ようね」
地上から離れた一人の少女は。
その身を、空へと委ねる。
数多の苦しみの渦から解き放たれ。
神の使いに手を引かれ。
晴れ渡りつつある朝焼けに照らされ、そして自身もその光の一部と化し。
極楽へと向かう。
「…おやすみ」
人はそれを…。
「夜雨」
天死。
そう呼ぶだろう。




