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テンシ  作者: モノカク
13/16

触手と雨の進行速度は、とてつもないものだった。

街の建物を根こそぎ取り込み、後ろから押し流されるように前へ前へと突き進む。

増殖し、その分進行範囲が広がった触手により、人々は秒単位で潰され、貫かれていく。


冷たい雨は彼らの体力を奪い、消耗を早める。瓦礫は足をすくい取り、誰一人として逃れる事はできない。


黒い人影は、人々の血肉、感情、命、そして…人生。奪われていないものすらも奪い、更に広がっていく。

そして、流れ込む無数の感情は、更なる涙を生む。堕天使を含め、何もかもが不幸になっていく。





…瓦礫に押し潰され、頭から血を流した一人の男。


虐めを黙認し、自身の正義感を振りかざし続けた後藤は、そのツケが来た事にも気付かず、ただただ未知の恐怖に震えていた。

「ああ…助けてくれ…」

震える手を伸ばす。

彼が救済を求めていたのは…今まさに自分達へ膨大な殺意を向けている、堕天使その人。

天空に伸びるその姿は、神聖そのもの。

…女神と重なったのだろう。冷静な判断力を失っていた後藤は、目の前に散らばる眼鏡の破片で傷ついた両手を合わせて祈る。

「ど、どうか…我々をお助けください…。せめて天国へ、ワタクシどもを導いてください。お願いです、女神様…」

思いつく限りの祈りを捧げ、天空に聳えるソレへと呼びかけ続ける。



…ソレが、かつて自身に助けを求めてきた、儚い少女だった事など、知る由もない。




怒りを買ったのだろうか。

一本の触手が、彼の正面から突っ込んできた。


その触手は…わざと直撃せず、彼の右手を僅かに掠めた。

その硬さと勢いに、人間の体が耐えられるはずもなく…。

…後藤の右手首が切断された。

「ぎゃああああああ!!!!」

血が、信じられない勢いで広がっていく。

断面は、雨による低温で冷え固まり…出血が遅れていく。まさに、地獄の苦しみだ。

瓦礫に潰された事で身動きがとれない体。芋虫のごとく身を左右にくねらせ、激痛に耐え抜くしかない。

触手は、それ以上攻撃を仕掛けず、他の標的へと向かっていった。

これもまた、彼に相応しい復讐…。

[放置]である。


「あ゛……」

助けを求める言葉も出てこない。

彼は一人、瓦礫の海に取り残される。




薙ぎ払い、全てを破壊する。

腕や足、首が宙を舞う。

その中には、かつて自身の尊厳を踏みにじったあの男や、自身への虐めを黙認し続けてきたクラスメートも混じっているだろう。


意に反した復讐。言葉にできない程、過酷なものだった。


強まる雨のなか、レイは…両手をついて泣き叫んでいた。

「もう…もうやめて夜雨…!これ以上自分を追い詰めないで!!」

雨が強すぎて、仮面の男の素顔もよく見えない。彼がどんな表情を見せているのか、この状況に、何を感じているのか。

触手は、二人がいるビルにも到達しようとしていた。最早ここが取り込まれるのも時間の問題だ。



…男は、仮面を拾い上げ、再び装着した。

レイが、顔を上げる。

「…」

彼女の目線の先は…仮面の男の指。

そして、その指が差す先は…堕天使よりも更にその上空。

雨に遮断されたように見晴らしの悪い暗い夜空。

そこに…何か、輪のような物が見える。



「…あ、れは…」


レイは、あれを見た事がある。




…かつての記憶が巡ってくる。






父に殴られ、蹴られ、怒鳴られ…今と何ら変わらぬ暴力を受け続けていた頃の事だ。

いつ頃の事だったのか、そこまでは覚えていない。夜雨の姿は今と変わり無い。小柄で、弱々しい少女だった。


笑顔という呪いで自身を抑え込んできた夜雨だったが…そういえば彼女は一度、本当にただ一度、[挫折]を試みた事があったのだ。


椅子の上に立ち、天井からぶら下がるロープを、黒い目で見つめていた。

あの時の夜雨の顔は…全てに絶望し、悲しみに暮れた…あまりに人間らしい顔だった。


今まさに、彼女がロープに向かって身を落とそうとしたその時…。


「夜雨えええっ!!だめえっ!!」


助けたのは、レイだった。

渾身の力で椅子に体当たりを仕掛け、床に叩き落としたのだ。

「うっ!」

夜雨はバランスを崩し、床に直撃。

痛かったのだろう。絶望の顔は、痛みという[生]を実感した表情を見せていた。


レイは、息を切らしながら、その小さな手で夜雨の顔を叩いた。

父の暴力とは違う。

優しく、けれど鋭い芯も備えた、愛ある一撃。


「夜雨っ!あんたがここで死んだら…何もかも、負けた事になるのよ!!」

レイは純粋で、まっすぐ過ぎるくらいに優しくて。

夜雨には、あまりに眩しすぎた。彼女の太陽のような笑顔で叱られれば、それが真実であるかのように思えてしまう。

そしてレイもまた、夜雨を止めたい、助けたい、少しでも人生を楽しくしてほしい一心で…言ってしまったのだ。






「笑ってれば、何とかなるって!!」









「…レイ、ありがとう」

夜雨に抱きしめられたあの温かさ。







そして、今。




…空から吊るされた、その輪。


触手と同じ色、質感…間違いなく、堕天使の夜雨が作った物だ。



…あの時、どうするべきだったのか。


レイには分からない。



俯けば、目に映るのは濡れに濡れたコンクリート。


夜雨の相棒として得意げに接してきた自分が、途端に憎くなる。


(…馬鹿じゃないの、私)




…仮面の男が、レイに告げる。




「彼女が最後の力を振り絞って、自分の意志で作り上げた物があれでしょう」



それ以上は、語らない。

代わりに…あの無機質な仮面が、レイの方を向いてきた。


その仮面は、心に直接訴えかけるような…想像力を引き立てる、不思議な力があるようだった。

レイの冷え切った体に力が戻ってくる。



…そうだ。


無理に立ち向かわなくて良い。

もうこれ以上…苦しまなくて良い。


今できること。


日之影夜雨を、連れて行ってあげる事だ。





「…夜雨を、休ませてあげよう」



涙が、頬を伝った。



男は何も言わず…背中から紫色の翼を広げた。

両手を差し出し、膝をつく。

「覚悟は決まってますね?」

「うん。…決まってるじゃん。今度こそ…夜雨を一人にしない」




頬を拭う。






これが…私の最後の涙。



だから夜雨。







もう、泣かないで。






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