涙
触手と雨の進行速度は、とてつもないものだった。
街の建物を根こそぎ取り込み、後ろから押し流されるように前へ前へと突き進む。
増殖し、その分進行範囲が広がった触手により、人々は秒単位で潰され、貫かれていく。
冷たい雨は彼らの体力を奪い、消耗を早める。瓦礫は足をすくい取り、誰一人として逃れる事はできない。
黒い人影は、人々の血肉、感情、命、そして…人生。奪われていないものすらも奪い、更に広がっていく。
そして、流れ込む無数の感情は、更なる涙を生む。堕天使を含め、何もかもが不幸になっていく。
…瓦礫に押し潰され、頭から血を流した一人の男。
虐めを黙認し、自身の正義感を振りかざし続けた後藤は、そのツケが来た事にも気付かず、ただただ未知の恐怖に震えていた。
「ああ…助けてくれ…」
震える手を伸ばす。
彼が救済を求めていたのは…今まさに自分達へ膨大な殺意を向けている、堕天使その人。
天空に伸びるその姿は、神聖そのもの。
…女神と重なったのだろう。冷静な判断力を失っていた後藤は、目の前に散らばる眼鏡の破片で傷ついた両手を合わせて祈る。
「ど、どうか…我々をお助けください…。せめて天国へ、ワタクシどもを導いてください。お願いです、女神様…」
思いつく限りの祈りを捧げ、天空に聳えるソレへと呼びかけ続ける。
…ソレが、かつて自身に助けを求めてきた、儚い少女だった事など、知る由もない。
怒りを買ったのだろうか。
一本の触手が、彼の正面から突っ込んできた。
その触手は…わざと直撃せず、彼の右手を僅かに掠めた。
その硬さと勢いに、人間の体が耐えられるはずもなく…。
…後藤の右手首が切断された。
「ぎゃああああああ!!!!」
血が、信じられない勢いで広がっていく。
断面は、雨による低温で冷え固まり…出血が遅れていく。まさに、地獄の苦しみだ。
瓦礫に潰された事で身動きがとれない体。芋虫のごとく身を左右にくねらせ、激痛に耐え抜くしかない。
触手は、それ以上攻撃を仕掛けず、他の標的へと向かっていった。
これもまた、彼に相応しい復讐…。
[放置]である。
「あ゛……」
助けを求める言葉も出てこない。
彼は一人、瓦礫の海に取り残される。
薙ぎ払い、全てを破壊する。
腕や足、首が宙を舞う。
その中には、かつて自身の尊厳を踏みにじったあの男や、自身への虐めを黙認し続けてきたクラスメートも混じっているだろう。
意に反した復讐。言葉にできない程、過酷なものだった。
強まる雨のなか、レイは…両手をついて泣き叫んでいた。
「もう…もうやめて夜雨…!これ以上自分を追い詰めないで!!」
雨が強すぎて、仮面の男の素顔もよく見えない。彼がどんな表情を見せているのか、この状況に、何を感じているのか。
触手は、二人がいるビルにも到達しようとしていた。最早ここが取り込まれるのも時間の問題だ。
…男は、仮面を拾い上げ、再び装着した。
レイが、顔を上げる。
「…」
彼女の目線の先は…仮面の男の指。
そして、その指が差す先は…堕天使よりも更にその上空。
雨に遮断されたように見晴らしの悪い暗い夜空。
そこに…何か、輪のような物が見える。
「…あ、れは…」
レイは、あれを見た事がある。
…かつての記憶が巡ってくる。
父に殴られ、蹴られ、怒鳴られ…今と何ら変わらぬ暴力を受け続けていた頃の事だ。
いつ頃の事だったのか、そこまでは覚えていない。夜雨の姿は今と変わり無い。小柄で、弱々しい少女だった。
笑顔という呪いで自身を抑え込んできた夜雨だったが…そういえば彼女は一度、本当にただ一度、[挫折]を試みた事があったのだ。
椅子の上に立ち、天井からぶら下がるロープを、黒い目で見つめていた。
あの時の夜雨の顔は…全てに絶望し、悲しみに暮れた…あまりに人間らしい顔だった。
今まさに、彼女がロープに向かって身を落とそうとしたその時…。
「夜雨えええっ!!だめえっ!!」
助けたのは、レイだった。
渾身の力で椅子に体当たりを仕掛け、床に叩き落としたのだ。
「うっ!」
夜雨はバランスを崩し、床に直撃。
痛かったのだろう。絶望の顔は、痛みという[生]を実感した表情を見せていた。
レイは、息を切らしながら、その小さな手で夜雨の顔を叩いた。
父の暴力とは違う。
優しく、けれど鋭い芯も備えた、愛ある一撃。
「夜雨っ!あんたがここで死んだら…何もかも、負けた事になるのよ!!」
レイは純粋で、まっすぐ過ぎるくらいに優しくて。
夜雨には、あまりに眩しすぎた。彼女の太陽のような笑顔で叱られれば、それが真実であるかのように思えてしまう。
そしてレイもまた、夜雨を止めたい、助けたい、少しでも人生を楽しくしてほしい一心で…言ってしまったのだ。
「笑ってれば、何とかなるって!!」
「…レイ、ありがとう」
夜雨に抱きしめられたあの温かさ。
そして、今。
…空から吊るされた、その輪。
触手と同じ色、質感…間違いなく、堕天使の夜雨が作った物だ。
…あの時、どうするべきだったのか。
レイには分からない。
俯けば、目に映るのは濡れに濡れたコンクリート。
夜雨の相棒として得意げに接してきた自分が、途端に憎くなる。
(…馬鹿じゃないの、私)
…仮面の男が、レイに告げる。
「彼女が最後の力を振り絞って、自分の意志で作り上げた物があれでしょう」
それ以上は、語らない。
代わりに…あの無機質な仮面が、レイの方を向いてきた。
その仮面は、心に直接訴えかけるような…想像力を引き立てる、不思議な力があるようだった。
レイの冷え切った体に力が戻ってくる。
…そうだ。
無理に立ち向かわなくて良い。
もうこれ以上…苦しまなくて良い。
今できること。
日之影夜雨を、連れて行ってあげる事だ。
「…夜雨を、休ませてあげよう」
涙が、頬を伝った。
男は何も言わず…背中から紫色の翼を広げた。
両手を差し出し、膝をつく。
「覚悟は決まってますね?」
「うん。…決まってるじゃん。今度こそ…夜雨を一人にしない」
頬を拭う。
これが…私の最後の涙。
だから夜雨。
もう、泣かないで。




