悪魔
声が聞こえる。
(苦しい…!苦しいよ、レイ!お願い…助けて…助けて!)
夜雨が泣いて、助けを求めてる。
ようやく弱みを見せてくれたというのに…。
手が届かない位置にまで、彼女は行ってしまった。
もう頭を撫でる事も、抱きしめてあげる事もできない。
「あれほどの堕天使を見たのは…いつ以来でしょうか」
…レイは今、仮面の男と共に、あるビルの屋上に立っていた。
ベンチに座るレイは、まだ頭がぼんやりとしている。
あの時、夜雨に叩きつけられ、家から放り出された。
意識を失いかけた時、あの仮面の男が姿を現し、レイを抱えて触手から逃げていた光景が、記憶の中をうっすら漂っていた。
気絶している間に、現時点では安全と思しきこの場へと避難させてもらったのだ。
「あまりにも穢れを蓄積させた事で、理性を失ってますね。かつて彼女を虐げた者達に限らず、無関係な人々まで巻き込んでいる。これまで搾取され続けた分、全てを取り返そうとしているのでしょう。このまま地球そのものを飲み込むまで、彼女は止まらないでしょうね」
淡々と語る彼に、レイの手が震える。
夜雨が…戻らぬ存在となった。その怒りや悲しみをぶつけるように、彼女は男に怒鳴る。
「…他人事みたいに言わないでよ!!あんた、こうなる事分かってたんじゃないの!?夜雨を助けてあげられる方法も、知ってたんじゃないの!?」
八つ当たりである事は分かってる。
が、半分は本心だ。いつまでも仮面を外さないこの男に、レイははっきりしない苛立ちを密かに募らせてきたのだ。
男はしばらくフェンス越しに遠方を見つめていたようだが…。
やがて、レイを見る。
「…やはり、天界から地上へ落ちる際の衝撃波は、半人前の神の使いでは耐えきれないようですね」
「…は?」
底知れない男だとは分かっていたが、とうとう理解が及ばない事を言い出した。
「いや、何の話?なに?神の使い?」
「…レイさん」
これまで夜雨へと向けていた体を、レイの方へ向ける。
「貴女…。夜雨さんの事ばかり気にしていたようですが、自分の事について考えた事はあるのですか? 」
「何で突然私の話…?それに質問してるのは私の方よ?」
レイは、上手く立てない事も忘れてベンチから飛び降りた。案の定バランスを崩し、前のめりに転ぶ。
顔を上げると…男の仮面が、レイを見下ろしていた。
…何となく彼の姿を見続けてきたが、ここまで不気味で、得体のしれぬ風貌をしていたとは。
男はしゃがみこみ、できる限りレイと目線をあわせた。
雨音が、二人の耳から無くなっていく。
「レイさん」
一瞬の静寂。
彼は告げた。
レイの正体を。
「あなたは、神の使いなんです」
「…神の使い?」
理解する時間を与えている暇はないとばかりに、彼は情報を畳み掛けてくる。
…ただし、今度は自分の情報を。
「あっ」
レイが声をあげる。
…男は、仮面を掴む。
…彼の素顔が、明かされる。
「うわっ!!」
水たまりの上にひっくり返るレイ。
怯えに満ちた目で、男の顔を見やる。
…無数の黒い紋章が、血管のごとく張り巡らされた顔。
見開かれ、飛び出さんばかりの目。口は耳元まで裂け、その広い面積の中にびっしりと牙が並んでいる。
まさしく怪物。
どこか美しさを感じさせる遠方の堕天使とは異なり、男の素顔はただただ…恐ろしい。
「…私は、悪魔です」
「悪…魔?」
悪魔。
心世界に蔓延る、人間の悪意の集合体。
これまで何度も夜雨が戦い続けた邪悪な存在。
「…っ!!」
敵うはずもないのに、両手を上げて身構えるレイ。
雨に濡れた体に、更なる寒気がつきまとう。
…だが、レイは勘違いしていた。
男は、全くと言っていいほど殺意を出さない。ギョロリと、眼球だけがレイを見下ろす。
「本当に忘れたようですね。我々の役割を」
男は、襲ってくるどころか自ら離れ…再び、遠くを見る。
足元に置かれた仮面に、雨水が溜まり…あっという間に溢れ出す。
「貴女がたが戦ってきたのは、人間の悪意という名の魔物です。悪魔という呼び名も、あなた方が勝手に付けていたものでしょう?私は、人間達の神話に伝えられる、本当の悪魔なのです」
男は左手をひらつかせ、レイの意識をこちらに向けさせるように語り続ける。
「監視役である我々悪魔とは別に、地上へ送り出され、不幸な人間を選抜、天使としての力を与えて、心世界での孤独な戦いへと出向かせ、その中で得る達成感や幸福感、反対に損失感や更なる悲しみ…その人物の感情を通じて人間という種そのものを調査する存在。それこそが神の使い、すなわちあなたなのです」
頭が追いつかない。
が…。
確かに、レイの中に記憶は残っていた。
そして、霞んでいたその景色が、脳裏に蘇ってくる。
自分は、つい最近、天界にて誕生し…地上へ送り出された。
あの時、人間の調査を行う神の使いが不足していた。
まだ右も左も分からぬ状態だったのに、彼女は地上へと落とされた。当時のレイ…光の塊が地上へと落ちていく様はとても静かであり、陽光に溶け込むように、ひっそりとしたものだった。
光の塊である彼女は、ゆったりと空中を舞い、そこらにいる人間達をしばらくの間観察していた。
狙うは、様々な感情を発する、できる限り不幸な人間。
神より与えられた本能が、そんな人間を探して地上を旅する。
そして、出会ったのだ。
とある家。
その窓から、外をぼんやりと覗き込む一人の幼い少女に。
頬には湿布が貼られており、目は虚ろ。
なのに、口角が上がっていて、明らかに無理が見え透いている笑顔を見せていた。
神の使いに感情はない。不幸な人間に無慈悲に張り付き、その生き様を観察するだけだ。
だが、その時の神の使い…後にレイと名乗るそれは、未熟だった。
人間界の大気に触れた事で中途半端に芽生えた感情が、疼いてしまったのだ。
この幼い少女…今にも消えてしまいそうな、小さな命。
日之影夜雨への興味が。
その時だった。
レイという…人形が誕生したのは。
光の塊は、[あるもの]をベースにその姿を作り上げた。
そのあるものとは…ターゲットとしたその少女、夜雨の思考の一部、あるイメージだ。
当時から大人に殴られ続けていた夜雨の、淀んだ心の中にあった、自分の理想の姿。
それは…あまりに無邪気なものだった。
もっと綺麗で、長くて、白みがかった灰色の髪。
自分の好きな青色のドレス。
リボンを沢山つけて、可愛い笑顔の、メルヘンチックな女の子になりたい。
そして、美味しいお菓子を毎日食べて悲しみや痛みとは無縁の、陽気で明るい子になりたい。
…その理想は、あくまで理想で止まっていた。
無駄な妄想だ。
こんな自分に、作り笑いしかできないような自分が、そんな可愛い女の子になれる訳が無い。
理想の姿など、たかが人形なのだ。
人形。
「…あっ」
レイは、自身の姿を改めて見る。
青いドレスに、灰色の髪。
夜雨の…理想の姿。
夜雨が本来ありたかった、いわば写し身。
…男は、ため息をついた。
「…神の使いは、人間に天使の力を与え、心世界へと誘導し、戦わせる事が役割です。その人間に情を持ち、理想の姿を自身へ反映させるなど…未熟者も良い所です」
未熟者。神という果てしない存在に使われていながら、人間一人の妄想を無邪気に、無意識に投影してしまった自分。
…救いようのない、単純極まりない思考だった。
だが、レイは言い返した。
「…あんた、よく他人の事を言えるわね」
「…私の言動に何か不満でも?私は人間を監視し続けるのが役割の、無慈悲な悪魔ですよ。必要最低限の干渉だけを行なってね…」
レイは男に歩み寄り、その足を軽く小突く。
今までになく、安定した足取りだった。
「…極限まで干渉しないんなら、何故、夜雨に涙を流すように警告してたの?」
男が、黙る。
はじめてだ。レイの言葉で彼が言葉を失うなど。
「…無慈悲な悪魔さん?あなた、夜雨が限界になる前に涙を流させて、少しでも悲しみを吐き出させてあげようとしていたんでしょ」
男の顔が、人間味を帯びたようにも見えた。
大きな目が細められ…虚しそうに、閉じる。
…雨が振り続ける。
「…ええ。私も、悪魔失格ですよ」




