暴走
ビルが立ち並ぶ都市。
列車が、線路を辿っていく。
仕事疲れの人々が、揺れる吊り革を握りしめながら、重い体を列車の揺れに委ねている。
人形のごとく、一人たりとも動かず、言葉も発さない。毎日毎日、人間社会とはこんなものだ。
一人のサラリーマンが、窓の外からぼんやりと遠くの景色を見つめていた。
ネオンが輝き、豆粒のような人々の影がそれぞれの目的の為に歩を進めている。
夜勤だったり、帰宅だったり。
それぞれの人生を、同じ大地の上で歩む。
幸せだろうと不幸せだろうと、平等に。
「…ん?」
眠たげな眼に、一筋の光が映る。
ポツ、ポツと窓を叩き始めたのは、雨粒だ。
一粒、二粒…瞬き一つ重ねる度、それらは数を増やしていき、やがて、無数の光の群れへと変化する。
「嘘でしょ、雨ー?」と、若々しいOLの声が耳に飛び込んでくる。
かなりの豪雨だ。
天気予報を信じた人々から、少しずつ声が漏れ始めた。静寂によって乾燥しきっていた車内が、雨によって人間らしい感情の潤いを帯び始めていた。
列車は雨の中を進んでいく。
この雨だと、駅で待っている乗客も多くなるだろう。更に混み合う事が予想され、人々の憂鬱心はますます強まった。
だが今日の仕事は終わり。一日の試練は、これで最後だろう。
「…」
先程のサラリーマンだけが、何かに気づいていた。
少なくとも、その時に[予感]を感じているのは、彼一人だけだった。
「あれ…何だ?」
誰に聞く訳でもない独り言が漏れる。
雨が窓を覆う中でも分かる。
闇の中、遠方に見える…黒い塊。
建物よりも…大きい。
そして、その質感はどこか生物的だ。
彼は、察しのいい男だった。
その黒い塊が…この世では到底あり得ない存在である事に、本能で気付いたのだ。
鳥肌がたつ。全身が震え始め、血の気が引く。
「…やばい」
背中に、誰かの肩がぶつかる。
瞬時に発達した彼の感覚が、あるものを予知した。
死だ。
…列車の床から、異音が聞こえてきたかと思うと。
黒い何かが、鉄を突き破って飛び出してきた。
世界の終わりは、あまりにも唐突に…訪れた。
夜闇に降り注ぐ雨。
侵食する黒い触手。
建物をなぎ倒し、逃げ惑う人々を押しつぶす。
飛び散った血肉が雨とぶつかりあい、輝く赤い雫と化して大地を濡らす。
その大地すら、触手が押しつぶし、コンクリートに張り付き、侵食していく。
「なんだ…!!」
「世界の終わりだ…!!」
「助けて!!助けてええええ!!!」
崩れ落ちる瓦礫は、人間と接触するなりその肉を抉り取り、内臓を滑らせていく。
瓦礫から逃れたほとんどの人は、あまりに非現実的な光景に心臓が過剰に脈打ち、逃走の為に足先へと血液が集中、脳は判断力を失い、壁や電柱にぶつかり、走る自動車に轢き飛ばされる。
触手からは時々、小型の触手が生え、人々を拘束し、顔面を貫く、殴打で首を叩き落とす、鼻や耳を引きちぎる…。
その攻撃には、とてつもない憎悪が込められていた。あまりに肥大化し、最早矛先がどこに向いているかも忘れてしまった、理性なき憎悪。
あまりに唐突な出来事だった為、少しばかり遠方の家々は、気づいていなかった。
「あはははは!!」
高い笑い声と共に部屋を転がり回る女、結月。
視線の先は、例の写真。
SNSでこの投稿は大炎上。
日之影夜雨という人間を完全に知らぬまま、嘘の情報に騙され、彼女を叩く多くの声が、文字となって画面に刻まれている。
「良い気味だわぁ〜。うわ、このコメント、『日之影夜雨は変態』だってさぁ!…あ?『結構可愛い』?ざけんなっ!」
怒ったり笑ったり、表情を目まぐるしく変化させるその様は、彼女の情緒不安定なまでの感情の浮き沈みを示していた。
普段陽気な分、少しでも苛ついた際のストレスに弱い。その捌け口こそが、夜雨だった。
何を言っても抵抗してこない、何をしても跳ね返らない、最高のサンドバッグ。
彼女なしの生活など、最早考えられない。
罪の意識など感じない。
だって、この程度の弄りでへこたれるようでは、社会でやっていけないから、だから夜雨を鍛えてやってるのだ。
(ほーんと、感謝してほしいわ。まあSNSに投稿したのはちょっとやり過ぎだった?ま、アタシがおもろいから良いんだけどさー)
しばらく、彼女はその投稿一つで盛り上がっていた。
どうせ明日には、また夜雨は登校してくるだろう。日常はいつも通り…。
「ん?」
聞き慣れない音が、窓の外から聞こえてきた。
何か、大きな物が崩れる音…。
「んだよ、うっせーな。こんな時間に工事か?」
窓の外を見やり、夜の街へ目を通す。
異変は、一瞬で視界に飛び込んできた。
「…は!?な、何だよ…これ!?」
街が、無数の黒いもので覆い尽くされ、人々の悲鳴がここまで聞こえてくる。
建物が崩壊し、煙をたて、煌めく雨がそれを幻想的な景色であるかのように錯覚させてくる。
その光景にも勿論驚いた。だが、それ以上のものが、全てを見下ろすような高さに鎮座していた。
触手達を束ねる存在が、聳えていた。
巨大な…女神のようなシルエット。
黒一色の、一糸纏わぬ肌、背中からは巨大な翼を生やしている。
あまりに壮観な姿で、目から流れた情報が、脳と繋がる回路の途中で渋滞している。
が、彼女の脳ではなく、心が悟った。
あの顔。あの髪。
夜雨だ。
目から流れている…涙。
それは頬から流れ落ちるなり、空気中に溶け込み、黒い霧を作り上げ、空へ昇って雨を降らせている。
この雨は…彼女の涙なのだ。
「よさっ…あ゛あ゛あ゛っ!!??」
とてつもない激痛が、背中を貫いた。
…結月を察知したのだろうか。
一瞬にして、触手が床を貫いてきた。
一本を認識するなり、更に他の方向から無数の触手が現れ、机やベッドを瞬時に破壊していく。
結月が気に入っているアイドルポスターも、朽ち果てるかのように触手に侵食され、取り込まれていく。
そして床が軋み…ついに崩壊。
「うがっ!!」
2階の高さから叩きつけられ、足が折れる。
結月は、瓦礫だらけになった地面に這いつくばりながら、変わり果てた自宅の姿を、目眩の中で見渡す。
「う…そ…」
…つい先程まで話していた両親が、全身を小型触手で貫かれている。
腕が無理やり引っ張られて千切れかけており、結月にはあまりにも刺激が強すぎる。
一気に情報が流れ、激痛の中、結月は発狂した。
「うあああああ!!!何だよこれは…!!夢だ!!悪い夢だうあああああ!!!!」
髪の毛を掻きむしり、意味もなく叫び散らす。
そして…あらぬ正義感が、唐突にこみ上げてきた。
遠方に聳える漆黒の巨影…夜雨を、血走った目で睨みつける。
「おい…夜雨ええええ!!!!てめえ…!!許さねえ…!!許さねえぞ!!!よくも私のパパとママ」
その威勢のいい声は…絶叫へと更新された。
「あがあああア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア!!!!!!」
細い触手が、結月の指に絡みつき、爪を引きはがす。
頬を貫き、口の中を横向きに貫通、右目を貫かれて潰される。
激痛が激痛を呼び、激痛の嵐に立たされる。
そして…触手は結月の口内へと強引に押し込まれ…体内へと入り込む。
溢れる異物感、飛び出しそうな眼球。
視界の隅に映る液晶に、僅かに映るあの加工画像。
そして、耳に聞こえるのは…。
シ ネ
内臓が、周囲に飛び散る。
「ア゛……」
腹を突き破られて尚、意識はしばらく残っていた。
涎を撒き散らし、血涙を流し…端正な顔立ちが崩れ…。
絶命した。
…結月と、その両親もまた、触手へと取り込まれていく。
…復讐は果たしたのに…。
苦しくて仕方ない。
憎しみが、悲しみが、どんどん強まってくる。
(私は、何をしているの?)
…ごめん。
ごめんなさい…結月。
雨は…ますます強まっていく。




