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テンシ  作者: 白龍
10/16

堕天使

夜雨は、苦しんだ。

苦しみには慣れていると、心の中で思い込んでいた。

だが、それも甘かった。

こんな小さな油断すら、許されなかった。




…レイが、階段から転がるように落ちてくるのが見える。

恐らく部屋のドアが開いていたのだろう。自由が利きづらい人形の足で、懸命にここまで走ってきて、転がってでも階段を降りてきたのだ。

それほどまでに、今の夜雨は…危険な状態だった。


いや、正確に言うと、危険なのは夜雨ではない。



[世界]だ。



夜雨は喉を押さえる。

涎と汗が止まらない。口が閉じられない。

壁に全身を叩きつけ、意味もなく自身の身体に苦痛を与えていく。


何より…涙が。

止まらない。


悲しみが止まらない。

怒りが止まらない。

憎しみが止まらない。




…この期に及んでまで、誰も傷つけたくないという良心が、止まらない。



必死に天井を見上げ、血管の浮き出た手で口を押さえ、自分の中に[それ]を押し留めようとする。


しかし、このボロボロな体では…あまりに無駄な足掻き。

自分一人ではどうにもならない。


今更、彼女はココロの中で叫ぶ。


(助けて…!!)






…それは、飛び出した。



夜雨の口から飛び出したそれは…。


黒い腕だった。



「ぎゃああああ!!!」

父親は背中を壁にぶつけた。


「お、とう…さ…!助け…」


「来るな…化け物!!お前なんか、お前なんか夜雨じゃない!!夜雨を返せ…!!俺の娘を、返せ!!」



それを聞いた時。






夜雨の中で、ついに何かが、切れた。








何故この男は。





今になって。








自分を娘と呼んだ?




ふざけるな。





ふざけるな。





ふざけるな。











ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。








ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな。












こ ろ し て や る。















「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!あ゛がああああああっ!!う゛あああああああああ!!!!!!!!」



何もかもが、夜雨という器から飛び出した。


黒い腕が、一気に飛び出していく。

腕だけではない。夜雨の全身が、一瞬にして無数の黒い触手で突き破られた。

残された夜雨の目は、尚も涙が溢れ続けている。



「あ……」


父親は、目の前で広がり続ける黒い怪物に、悲鳴を上げる余裕すら無くしていた。


触手が、彼目掛けて飛んでいく。



「ぎゃああああ!!!!!」

彼の腕、腹、足を、鋭利な触手が貫いた。


血が、白い壁を彩る。


人生史上最大の激痛。人生史上最大の恐怖。


「よ、さ、め…許してくれ…頼、むっ…」

黒い触手に包まれ、操り人形のごとくぶら下がる夜雨。

彼女に、父親は訴えかける。

「お前をっ…、本当は愛してたんだよ…!お、俺は少し…疲れてただけなんだ…昔から愛情表現が苦手でさっ…た、頼む、落ち着け、落ち着…」



ウ ル サ イ。





触手の一部から、更なる触手が飛び出した。



…握り拳を握った腕、屈強な足。



…父親には、見覚えがある形をしていた。


そして、何となく察した。


自分が何をされるのか。




これは…今まで夜雨に叩きつけていた、自分の手足だ!


「夜雨っ…お、俺は、お前の父親で良かった…愛してるよ」


そんな偽りの遺言に、黙らされる訳が無い。



涙が、強くなる。



…拳が、父親の顔面を殴る。

真正面から叩き込まれた拳により、鼻血を吹き出させる。

「がっ」

重々しく、短い悲鳴。

次に叩き込まれたのは、足。

彼の脇腹を凄まじい勢いで蹴り飛ばし、内臓を瞬時に破る。

口からぶちまけられる血液。苦痛に屈んだところへ、足は更に彼の背中を踏みつけ、床に押し付ける。

そこからは…まさしく憎悪の殴打。


頬を殴り、唇を殴り、目を殴る。

その顔を。憎らしい顔を。都合よく、思ってもない愛を語りだす顔を。



殴り殴り殴り殴り…。




…見る影もなく。






…皮の繊維が崩れに崩れ、歯、噛み切られた舌、大量の血、血、血。

赤みから僅かに露出した脳みそと頭蓋骨。

それすらも殴り続けた。



…父と思っていた男の姿は、無くなった。

醜い死体に、触手が群がり、少しずつ融合し…取り込んでいく。


触手の根元の夜雨は、呻いた。


「ア……」


悲しみ、憎しみ。

何もかもが抑えられない。





触手は更に伸び、更に分裂し…彼女が暮らしてきた家を、破壊していく。

少しずつ、削り取るようにして砕いていき…触手は瓦礫を取り込み、更なる増殖の糧とする。





「夜雨っ…!!」

夜雨の目が、ほんの僅かに…声のした方向へと向けられた。



潤む視界の中、僅かに見える青色。




…あの子は、誰だっただろう?





だが、これだけは確かだ。





ここから、逃さなければ。




(に、げ、て…)



触手が一層激しさを増し、本格的に家を破壊していく。

そのうち一本の触手が、その小さな者に迫り…。




叩き飛ばした。



「…夜雨ぇぇぇぇぇぇっ」






ついに夜雨は、堕ちたのだ。






人はそれを…。






堕天使と呼ぶ。

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