89 餌付け
新浜だより
日本野鳥の会東京支部(現在は日本野鳥の会東京)支部報「ユリカモメ」 2000年2月号掲載
89 餌付け
裏口のドアを開けて階段の踊り場に出たとたんに、対岸の導流堤にいたセグロカモメが何羽も、けたたましい声を上げて舞い上がった。警戒ではなくて、餌を期待している時の行動だ。50m以上も距離があるはずだが、「あっ、餌をくれる人だ」と認めている。
「ショーです。出演料です。ギャラなしだとなかなか来てくれません」
保護と何のかかわりもなく、単なる人間の都合で続けているカモメの餌付け。当初から規範としているのは、餌の量を増やさないこと。しかしながら、どんなものかな、やってよいことなのかな、という悩みは、同じく自然や鳥の保護から少々はずれている野鳥病院の比ではない。
目の前で傷つき、死にかけている鳥を助けたい、という人の気持を大事にすることは、わが観察舎にとっては最も大切な業務のひとつ、^と考えている。どうかすると、これこそわが観察舎の存在価値のひとつ、くらいに重視している。他者の存在を認め、尊重することは環境への配慮の基本だし、自分以外の生きものの痛みを思うことも、人間としての基本と思っている。
ではなにゆえに悩みが生じるのか。何となれば、野鳥病院の維持管理にはわれらがスタッフやボランティアを含め、年間約1万2千時間という作業時間全体(2名の正規職員と市役所や県庁の担当者の負担時間はこれには含めていない)の半分近く、5千時間以上が食われているからだ。6月から8月の入院ラッシュ時には、朝7時半から夜10時過ぎという長い給餌時間が3名の常勤スタッフにのしかかる。なんとかならないか、という声は、内部スタッフを気遣う周囲の担当者からむしろ強くなってしまうのだ。
それでも野鳥病院;傷病鳥救護については、こなすべき仕事、納得のゆく業務、という断固たる姿勢がとれる。いくら患者さんたちが自然界から見れば落ちこぼれであり、淘汰されるべき存在であるといっても、電線衝突、交通事故、建物衝突、猫等々、鳥たちの災難のほとんどは人間が原因だ。3分の1前後は回復して放すことができるし、野外に戻せなくても、禽舎内でそれなりに元気に暮らしている鳥もいる。りくつぬきでやりがいがある基本路線と思う。
さて、餌付けのほうはどうか。こちらはいいわけしかできない。すぐ目の前で野生の鳥を見るのは、来られた方にとっても、それどころか長年鳥を仕事としている私たちにとってもインパクトが強く、大事な体験になるといういいわけだ。しかし、人が与える餌に集まる種類は限られており、カラスやドバトは論外としても、パンをやればユリカモメやオナガガモが増える。越冬地での飢餓による死亡率がわずかでも下がれば個体数がふえて、カモメ類では繁殖地で他の鳥の卵やヒナへ被害を与える可能性もある。まあ、ろくなことはない。
いいわけや反省はさておき、今冬は餌場へのオナガガモの進出が著しい。カラスやハトにとられないようにわざと水面に投げているパンにどっと集まりはじめたのが11月末。12月なかばには岸の餌場にぞろぞろ上がってくるようになった。百羽ではきかない。パンの袋を持って餌場に下りて行くと、それっとばかりに寄ってきて、ちぎって投げる間もあらばこそ、水からかけあがってパンに群がる。その迫力にはドバトやカラスも太刀打ちできない。大きなセグロカモメは、本命の魚のアラが出てくるまで遠巻きに見守っていて、パンをやり終えてアラを容器にあけると、翼開長130センチの大迫力で、あっという間に平らげてしまう。
餌となるパンやアラを無料で確保したり、準備すること。周辺の草や木に手を入れて開けた環境を作り、水面から楽に上がれるように斜面の傾斜をゆるやかにすること。安心できる餌場環境を整えるには、それなりの工夫も努力もある。何せ、ショーなのですからね。しかしながら、給餌者や鳥の動きを操って、しっかり見世物にしよう、というところまでは、さすがに恥ずかしくてできない。まだまだ割り切りが足りないなあ。そこまで割り切る覚悟は、実のところ、ないのだけれど。




