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9 魔術師の依頼

 馬車を降りたミュゼは、緊張しながら眼前の建物を見上げた。


「ここは……」


 アシルに連れてこられたのは、貴族街にあるきらびやかな屋敷だった。

 瑞花名鑑に名を連ねている時点でわかっていたことだが、やはり今回の相手は上流貴族のようだ。


「ヴァレンシエール伯爵家。聞いたことはあるか」

「はい。結界魔法に長けた家系だと……」

「それだけ知っていれば十分だ」


 緊張のあまり固まるミュゼを置いて、アシルはすたすたと屋敷の中へと進んでいく。

 ミュゼも置いていかれないように慌ててその後を追った。

 果たして、通された応接間で待ち構えていたのは――。


「まぁアシル! 久しぶりね!!」


 弾むような明るい声で出迎えてくれたのは、ミュゼが驚くほど美しい女性だった。

 年の頃はミュゼやアシルよりも少し上だろうか。

 蜂蜜を溶かしたような黄金色の髪に、紫水晶と見まがうような美しくきらめく瞳。

 男女問わず見る者が思わずため息を漏らしてしまいそうなほど、起伏に富んだ曲線美を描くプロポーション。

 まさに絵に描いたような、理想の美女がそこにはいた。

 女性はタタっとこちらへ駆けてくると、勢いよくアシルに抱き着いた。

 アシルもため息をつきながらも、渋々と言った様子で抱擁を返している。


(もしかしてアシル様の恋人? だったら失礼のないようにしないと)


 そんなことを考えミュゼは背筋を正したが、ミュゼの思考を読んだかのようにアシルが言う。


「こいつはヴァレンシエール伯爵の娘のアニエス。俺にとっては母方の親戚筋にあたる」

「まぁ! この私を捕まえて『こいつ』だなんて失礼ね! その不遜極まりない態度は相変わらずだわ!」


 アシルの言葉を聞いた途端に女性はぷりぷりと怒り出す。

 確かに二人の間にはある種の気安さはあれど、ミュゼが想像したような男女の仲ではなさそうだった。


「それで、こちらが手紙に書いてあった調香師さんなのかしら?」

「はい、ミュゼ・オレオールと申します」


 アニエスの視線がこちらを向いたので、ミュゼは慌てて名乗った。


「ふふっ、よろしくね!」

「むぎゅっ」


 アニエスが目の前までやって来たかと思うと、次の瞬間ミュゼは熱烈な抱擁を受けていた。

 まるで柔らかなクッションに包まれるような心地に、一瞬意識が飛びそうになってしまう。


「初対面の相手を圧殺するな。はしたないぞ」


 ミュゼが固まっていることに気づいたのか、アシルはべりっとアニエスを引き剥がした。

 新鮮な空気を吸い込み、ミュゼは何とか落ち着きを取り戻す。


(なんというか、情熱的な方なのね……)


 アシルに諫められたアニエスは不満そうに口をとがらせていたが、すぐにミュゼの方へと向き直った。


「あらためまして、私はアニエス・ヴァレンシエール。魔導院所属の紫玉魔術師よ」


 魔導院は宮廷直属の魔術研究機関だ。

 所属する魔術師の中でも階級があり、「紫玉」など宝石の名前を冠する者はかなりの実力者だと聞いたことがある。

 アニエスはただの(という言い方は失礼だが)美女ではない。美しい薔薇に棘があるように、その魅力的な容姿の裏側に並々ならぬ実力を秘めた魔術師なのだ。


「今日あなたをここへ呼んだのは、私のために特別な香水を作ってほしいからよ」

「……はい。どのような香水をご所望なのでしょうか」

「うーん、私に合うものなら何でもいいわ」

「えっ!?」


 あまりに抽象的な言葉に、ミュゼは絶句してしまった。

 アシルの口ぶりでは推薦状を書いてもらうまでにかなりの苦労がありそうだったが、「合うものなら何でもいい」とは……。

 困惑するミュゼの心中を察したのか、アシルが横から口を挟んできただろう。


「サンプルをいくつか持ってきただろう。試してみればわかる」

「そうですね。では……」


 ミュゼは持参した鞄を開いた。

 新たにアトリエを構えてから作った、いくつもの試作香水だ。


「好みの香りのイメージなどはございますか?」

「そうね……王妃様がいつも爽やかな花の香りの香水をつけていらっしゃるの。ああいう感じでお願い」

「承知いたしました」


 ミュゼは香水の中から、アニエスの好みに合いそうなものを選んだ。


「つけてくださる?」


 アニエスが流し目でそう頼んできた。

 ミュゼはいろんな意味でドキドキしながらも、彼女の白い手首へと香水を振りかける。

 花の香りを含んだ雫が、彼女の肌へと触れる直前――。


「えっ!?」


 肌へ落ちるかと思われた香水は、ジュッと音を立てて蒸発してしまったのだ。

 あたりにはかぐわしい花の香りとは程遠い、焦げたようなにおいが立ち込めた。


「……はぁ、やっぱりダメね」


 アニエスが落胆したようにため息をつく。

 その様子を横から見ていたアシルが口を開いた。


「アニエスの専門は結界魔術。有事の際だけではなく、普段から防護結界を張っている」

「なるほど……香水を外部からの攻撃だと認識して弾いてしまうのですね」


 ミュゼはやっとアニエスが「私に合うものなら何でもいい」と口にした理由が分かった。

 市販の物ではそもそも彼女に合う香水、彼女の結界が弾いてしまわない香水に巡り合えないのだろう。


「こういうことよ。巷で売っている物はだいたい試したし、何名もの調香師に私に合うものを調香するように頼んだけど、誰も作れなかったわ。……あなたはどうかしら?」


 挑むようにそう口にしたアニエスに、ミュゼはごくりと息をのむ。

 ……どうやらこの依頼、思ったよりも簡単にはいかなさそうだ。


「……他の物も試してみてよいでしょうか」

「えぇ、構わないわ」


 ミュゼは再び鞄の中からいくつもの試作香水を取り出した。

 これは長期戦になる。そんな予感がした。



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