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10 できないとは言いたくないので

 ヴァレンシエール伯爵邸を出るころには、既に日が暮れかけていた。

 アシルはちらりと隣を歩くミュゼに視線をやる。

 あれからミュゼが持参した香水をすべて試したが、アニエスの結界はすべてを弾いてしまった。

 アニエスには「要望通りの香水ができたら再び連絡する」と伝えて、アトリエに帰ることにしたのだが……。


(さすがに無理難題だったか?)


 アニエスの結界魔法は精巧で緻密だ。

 彼女の結界に馴染むような香水……そんなものが、果たして人の手で作り出せるのか。

 今まで何人もの調香師が匙を投げた依頼を、ミュゼが完遂することができるのだろうか。

 ミュゼはじっと何かを考えこむように押し黙っている。


「この依頼、できそうか」


 アシルがそう問いかけると、ミュゼは顔を上げた。

 てっきり曇っているかと思ったその表情は、むしろどこかわくわくしているようにも見えた。


「そうですね……できないとは言いたくないので、やってみせます」


 言葉だけを聞けばただの虚勢にも思えるが、ミュゼの声色には確かな落ち着きが感じられた。

 彼女はこの困難な課題に少しも怯んでいない。

 ずっと静かだったのは、きっと頭の中でアニエスの要望に応えるようなレシピを考えていたのだろう。

 ならば、アシルがごちゃごちゃ言うことはない。


「前に言った通り経費はこちらで持つ。定期的にブリスに見に行かせるので、進展があったら教えてくれ」

「承知いたしました」


 花屋へと帰る道中も、ミュゼは少しも動揺した様子を見せなかった。

 線の細そうな見た目の割に、案外肝が据わっているものだとアシルが感心したほどだった。



「あれから、ミュゼの様子はどうだ?」

「花屋の主人のマリエットさんが心配するほど、寝食を忘れる勢いで香水作りに没頭しているようですね」

「アニエスの要望に応える香水はできそうか?」

「僕には何とも言えませんが……ミュゼさんが思い悩んでいる感じはしませんね」


 リヴェレット侯爵邸にて、アシルはミュゼの様子を見に行ったブリスから定期報告を受けていた。


「様々な香料を買い集めているようだな……」


 方々からの請求書に目を落とし、そこにずらっと並んだ香料の名前にアシルはそう呟いた。

 どちらかとうとアシルは博識な方だが、それでも見たことも聞いたこともないような名前の香料もある。

 どうやら調香師という職業は思ったよりも奥が深いようだ。


「これは……魔石か? 魔石を香水の材料にするのか?」

「いえ、ミュゼさんは魔石でなんらかの装置のようなものを作っていました。何の用途に使うものかはわかりませんが……」

「まぁ……様子を見るか。遊んでいるわけではないようだしな」


 今後もミュゼの支援を続けるかどうかは、アニエスの依頼に応えられるかどうかにかかっている。


(彼女が、証明してくれるのなら……)


 例えすべてを失っても、再び夢に向かって返り咲くことができると。

 どん底に落ちても、再び這い上がることができるのだと。

 ……夢を、諦めなくてもいいのだと。


(……そんなのは、ただの夢物語か)


 かつての苦い記憶が蘇り、アシルは重いため息をついた。



 アニエスの下を訪れてから二週間ほど経った頃。

 仕事を終えて屋敷に帰って来たアシルを待ち構えていたのは、ミュゼからの連絡だった。


「『ご所望の香水が完成しました』……か。思ったよりも早かったな」


 手紙……というよりも走り書きのメモの文字を読み、アシルは再び立ち上がる。


「ブリス、行くぞ」

「え、行くってミュゼさんのところにですか? もう遅いので明日の方がいいのでは……」

「こっちはしょっちゅうアニエスにせっつかれているんだ。一刻も早い方がいい」

「……アシル様、実はわくわくしてません?」


 ブリスの妄言を聞き流し、アシルはミュゼの下へ急ぐ。


「まぁまぁアシル様! アシル様からもミュゼさん休むように言ってくださいな。最近はろくに休みも取っていなくて――」

「この依頼が無事に終われば休めるだろう」


 到着するなりまくしたててきたマリエットをいなし、アシルはミュゼがいるであろう屋根裏のアトリエへ向かう。

 螺旋階段を上る途中、ふとアシルの頭にある考えがよぎった。

 長い間休まずに取り組んでいた香水が完成したのなら、今、彼女は泥のように眠っているのではないか?

 それこそ、繁忙期を乗り越えた王宮の役人がところかまわず死んだように眠っているように。


(眠っているのなら出直すか)


 ミュゼの部屋の前までたどり着き、アシルはそっと扉越しに耳を澄ます。

 聞こえてきたのは穏やかな寝息……ではなかった。


「ガーデニアは水蒸気蒸留法で……ハニーサックルとリンデンの相性は? いや、それよりもフェンネルは……」


 ぶつぶつと聞こえてくるのは、間違いなくミュゼの声だ。

 アシルは心なしか普段よりも強めに扉をノックし、声をかける。


「ミュゼ、少しいいか」

「アシル様!」


 バタバタと足音が聞こえたかと思うと、すぐに扉が開く。

 現れたミュゼは……確かに色濃く疲労が顔に出ていた。

 部屋の中には様々な道具や無数のメモ書きらしき紙が散らばりひどい有り様だが、彼女の花緑青の瞳はアシルに再起を誓った時と同じようにきらめいている。


「やっとできました! 二週間もかかってしまい誠に申し訳ございません! ですが、期待に添えるものができたと思います!」

「そうか、それはよかった。今からアニエスのところに行っても問題ないか?」

「えぇ、もちろん! 私も早く効果を試したいんです!」


 ミュゼはいつになく前向きにそう言った。


「……ミュゼさん、徹夜続きで変なテンションになってませんか?」

「まぁ、そうだとしても香水の出来に変わりはないだろう。駄目だったら駄目で再考は早い方がいい」


 ブリスと共に少々足取りが怪しいミュゼを見張りながら、再びヴァレンシエール伯爵家へ向かった


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