11 一番の武器
既に夜も深まる時間だったが、アニエスは完璧に身支度を整えた状態で出迎えてくれた。
「うふふ、待ってたわ。私の調香師さん♡」
アニエスに熱烈なハグをされ、ミュゼは疲労も相まって今にも昇天しそうな顔をしていた。
アシルはふらふらのミュゼからアニエスを引き剥がし、さっさと本題へと移る。
「依頼した香水ができたそうだ。試してくれ」
「えぇ、わかったわ」
アニエスが挑戦的な笑みを浮かべる。
果たして彼女の難解な要望に応えるものができたのかどうか、アシルはミュゼに視線をやった。
「ミュゼ、香水の用意を」
「はい。お待ちください」
ミュゼが持参した鞄を開き、香水瓶を取り出す。
「アニエス様の要望通り、王妃様の愛用する香水――いわゆる『ア・ラ・レーヌ』に近い香りに仕上げております」
「ふふ、それは楽しみね! 私に合うかしら?」
言葉とは裏腹に、アニエスの言葉には試すようなニュアンスが含まれている。
彼女はまだ半信半疑なのだろう。
今まで何人もの調香師が匙を投げた難題を、ミュゼがやり遂げたのかどうかが。
ミュゼはそんなアニエスの態度にも動じることなく、香水瓶の蓋を開けた。
それだけでかぐわしい花々の香りが周囲に広がり、アニエスがうっとりと呟いた。
「素敵な香りね……」
その言葉に含まれた感心と少しの諦念に、アシルは何とも言えない気分になった。
アニエスは結界魔術を極めたからこそ、一般的な香水を受けつけなくなってしまった。
特に貴族の女性にとっての香水はマナーであり、共通の話題への糸口である。
香水が付けられないからといってアニエスが誰かに冷遇されているわけではないだろうが、それでも彼女なりに悔しい思いをしたこともあったのかもしれない。
「それでは、いきますね」
アニエスの手首に、ミュゼがそっと香水を振りかける。
前回と同じように、特製の香りを含んだ雫が一滴、瓶から落ち……。
そして、何事もなかったかのようにアニエスの肌へと付着した。
「あ、大丈夫そうですね。時間が経過すると香りも変化しますので、アニエス様の好みに合うかどうかご確認を――」
「ちょっ……ちょっと待って!」
普通に対応したミュゼを、慌ててアニエスが制す。
「どういうこと!? なんでこの香水は私の結界に弾かれないの!?」
「えっと……そのように配合しましたので……」
ミュゼは「依頼通りにしたのにどうして凄まれているのかわからない」といった顔をしている。
アシルは二人の間に割って入りながら、アニエスを諫める。
「どうしたアニエス。依頼通りの物ができたのなら問題ないだろう」
「あなたはことの重大性がわかっていないからそんなことを言えるのよ!」
アニエスはまるで未知の生き物でも見るような目でミュゼを見据え、おそるおそる問いかける。
「前にも言ったけど、今まで私の結界魔法に弾かれなかった香水はなかったわ。有名な調香師に専用の香水を作るように依頼をした。でも、誰もできなかったのよ!? それなのに、あなたはどうしてたった二週間で作り上げることができたの……!?」
アニエスの声色に滲んでいるのは、確かな畏怖の念だった。
名門魔術師の家系に生まれ、自らも凄腕の魔術師として向かうところ敵なしのように振舞っているアニエスの、始めて見る姿だった。
「まさか、あなたはすぐに完璧な配合を見つけられるような特殊能力を持っているの……!?」
そんなアニエスの言葉に、ミュゼはきょとん、と首をかしげながら答えた。
「いいえ、違います」
「なら、どうして……」
「そうですね……私も説明不足でした」
ミュゼはアニエスに向かってぺこりと頭を下げ、鞄から何かを取り出す。
よいしょ……とテーブルの上に置かれたそれは、いくつかの魔石が取り付けられた天球儀のような形をした謎の道具だった。
「これは、アニエス様の結界魔法を疑似的に再現する道具です」
ミュゼが魔石に手をかざすと、天球儀がオパールのような色の魔力に包まれる。
なるほど、確かにアニエスの結界魔法と似たもののようだ。
「まずは『ア・ラ・レーヌ』に近い香水を作り上げ、この装置で試しました。もちろん弾かれてしまったので、少しずつ配合を変えて結界に受け入れられるまで調香を繰り返しました。その成果が先ほどの香水です」
ミュゼがさらっと言ってのけた言葉に、アニエスは納得できないような顔をしている。
「……今までの調香師だって同じことをやっていたはずよ。何百通りもの配合を試したけど、一回もうまくいかなかったと泣いていた調香師もいたわ」
ミュゼは少し考えるそぶりを見せた後、にっこりと笑って言った。
「まぁ……その調香師さんはスケジュールが押していたのかもしれませんね。残念というか幸いというか私は他に仕事がなかったので、満足いくまで様々な配合を試すことができたんです」
唖然とするアニエスに、ミュゼは続ける。
「百通り試してダメなら千通り試せばいい。千通り試してダメなら一万通り試せばいい。私には時間と環境があったからできた、それだけのことです」
アシルは屋根裏部屋の工房に落ちていた無数のメモ用紙のことを思い出し、ぞくりとした。
ミュゼは何でもないことのように言ってのけたが、ひたすら何千、何万通りもの、正解にたどり着けるかどうかもわからない作業を続けるなんて……正気の沙汰じゃない!
途方もない精神力が備わっていなければできないことだが――。
(彼女のあの態度……苦労を苦労とも思っていないのか)
ミュゼの表情からは、「アニエスが何にそんなに驚いているのかわからない」という困惑が伝わってくる。
彼女にとっては当然のことなのだろう。
常人なら早々と匙を投げるほどの地道な作業を続けることを、まったく困難だとは思っていないのだ。
「ふっ……ふふっ! あなたって本当に……」
アニエスが声をあげて笑う。
その表情からは、呆れと賞賛の念が見て取れた。
「そんな、砂漠でダイヤモンドを探すような途方もない作業、普通の人ならできないわよ!」
「そうでしょうか? 時間と環境、それにある程度の調香知識さえあれば誰にでもできることかと思いますが」
「それに加えて、馬鹿みたいな忍耐力もね」
アニエスが付け加えた言葉に、ミュゼはきょとん、と目を丸くした。
「忍耐力、ですか?」
「えぇ、覚えておくといいわ。あなたの苦労を苦労とも思わないその根気……。きっとそれこそが、あなたの一番の武器になるわ」
アニエスはそっと己の手首に鼻先を近づけ、うっとりと微笑んだ。
「香りが変わったわ。まるで夜の花園にいるみたい……」
「はい、時間が経つと最初は埋もれていたルナフィオーレが目立って香るようになり――」
アシルは嬉々としてアニエスに香水の説明をするミュゼを見つめた。
偶然拾った、学園時代の同級生。
彼女の支援を始めたのはほんの気まぐれで、結果が出せなければいつでも打ち切るつもりでいたが――。
(俺が見つけたのは、案外大物だったのかもしれないな)
どうしても、そんな気がしてならなかったのだ。




