8 新たな仕事
ミュゼはあらためて作業台へ向き直ると、素早くいくつかの香料瓶を手に取った。
「ここからはちょっと細かい作業になるので説明は割愛させていただきますね」
そういうや否や、彼女は次々と香料を香水に混ぜ始めた。
「霧晶花とエルダリアローズを調和させるにはフローラル・コンコルドと夜光露を加えて……」
彼女はぶつぶつと何事が呟きながら、目にもとまらぬ速さで香料を加えていく。
ニネットはミュゼの変貌にぽかんと口を開け、アシルも目を見張った。
(先ほどとはまるで別人だな……)
ものすごい集中力で調香を進めていくミュゼの姿は、まるで神や精霊から天啓を受けたかのようにも見えた。
「蜜果月生まれの加護を引き出すにはエコーベリーとカロリア・オレンジで……あっ、タンジェリンも手に入ったんだっけ」
ミュゼの動きはとどまることを知らず、むしろどんどんと加速していく。
なるほど……これは確かにブリスが「腕前はよくわからないが手さばきは見事だ」と言うのもわかる。
「もう少しベルガモットを強めて……〇〇〇が※※※で△△△はどうかな……」
もはやアシルはミュゼが何を言っているのかよくわからなかった。
今はとにかく、完成を待つしかなさそうだ。
……どのくらい時間が経ったのだろうか。
「……よし、できました!」
ミュゼは額の汗をぬぐい、明るい声を上げた。
振り返った彼女は、ぽかんと硬直しているニネットと難しい顔をしているアシルを見て、不思議そうに首をかしげる。
「あれ……どうかしましたか?」
「いや、大丈夫だ。完成品を見せてもらおうか」
「はい。……あ、最初はニネットに見てもらっていいですか? 今回のお客様なので」
「……そうだな。構わない」
アシルは彼女の調香師としての姿勢に感心した。
たとえ目の前にいるのが自身の支援者かつ侯爵家の人間でも、彼女は依頼主である平民の少女を優先したいというのだ。
もちろんアシルは反対するつもりはなかった。
むしろ彼女がアシルにペコペコ媚びを売るような人間なら、ここで失望していただろう。
彼女は作業机から一本のリボンを取り出すと、そこにできたばかりの香水を染み込ませる。
「さぁニネット、どうぞ」
名前を呼ばれはっとした少女は、ミュゼの手からリボンを受け取るとそっと鼻先へ近づけた。
次の瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。
「すごい……! 香りが喧嘩してない!!」
ニネットは興奮した様子でふんふんと鼻を鳴らす。
頬は紅潮し、あどけない瞳はきらきらと輝いていた。
「霧晶花の香りもする! エルダリアローズの大人っぽい香りも! すごぉい!!」
ミュゼは幼い少女の嬉しそうな様子にくすりと笑うと、同じく香水を染み込ませたリボンをアシルに手渡した。
「お客様にはご満足いただけたようなので、アシル様もどうぞ」
「あぁ」
アシルはそっと嗅いでみた。
そして、その見事に調和した香りに驚く。
(先ほどとはまるで別物だな)
みずみずしく爽やか、優美で可憐。
幼い少女の天真爛漫な愛らしさ、そしてエレガントな大人の女性への成長の可能性。
そんなイメージが、はっきりとこの香水から感じられたのだ。
「これはニネットをイメージした世界で一つだけの香水です。ニネットの好きな霧晶花、淑女らしさを想起させるエルダリアローズを中心に、果蜜の精メリアの加護を強めるフルーツの香りをいくつか加えています。後はそれらが調和するように調整しました」
アシルが驚いたのは、最初に「相性が悪い」と言われ闇鍋状態になっていた複数の香りが、きちんとそれぞれの魅力を引き出す形で調和していることだった。
どうやら調香師の仕事とは、単に客の好みの香料を混ぜるだけではなさそうだ。
「いったいどんな手を使うと最初の物がこうなるんだ?」
「えっと、説明すると長くなりますがよろしいですか?」
「どのくらいかかる」
「日が沈むまでに終わらないくらいには」
「……またの機会にしておこう」
ミュゼはアシルの返答にくすくす笑うと、何やら手元のノートに書き留め始めた。
「この香水のレシピよ。ニネット、後で最終調整したものを清書して渡すから待っててね。レシピがあれば他の工房でも再現可能なはずだから」
「何言ってるのよ、私はこれからもミュゼに作ってもらうから他の調香師なんていらないの!」
「それは、その……ありがとう」
ニネットの熱烈な言葉に、ミュゼは気恥ずかしそうに微笑んだ。
本当に、調香している時の凛とした姿とはまるで別人だ。
「みんなに自慢しよっと!」
ニネットは大喜びでそう言うと、飛び跳ねるように部屋を出て行った。
その姿を見送り、ミュゼはふぅ……と息を吐く。
「それで……アシル様のお眼鏡には適いましたか?」
「現時点では、な」
確かに香水作りはアシルが思っていたよりも複雑な知識や腕前が必要なようだ。
だがミュゼの腕前が、宮廷調香師に足るものなのかどうかが定かではない。
本格的に彼女を支援するかどうかを決めるために、今日はもう一つ話を持ってきたのだ。
「宮廷調香師選定のコンテストに出場するための条件は知っているか」
「はい。一つはきちんと国の認可を受けた工房を設立していること。もう一つは瑞花名鑑に名を連ねた者三名より推薦状を頂いていること、ですよね」
「そのあたりは理解しているんだな」
それなら話は早いと、アシルは説明を続けた。
「工房については俺の方で書類を整えるので問題ない。一片の瑕疵もなく完璧に仕上げてみせよう」
書類作成において、今の宮廷でアシルの右に出るものはない。
というか、十中八九提出された書類はアシルも審査することになるだろう。
だったらミュゼに任せるよりも、最初から自分でやった方が効率的だ。
「問題は推薦状の方だな」
「はい……お恥ずかしながら、推薦状を書いていただけるような高貴な知り合いはいなくて……」
瑞花名鑑は、ここクローネル王国の貴族の中でも選りすぐりの「貴族の中の貴族」の名が記されたリストだ。
王家に連なる血筋の者、由緒正しい家柄の者、何か国に貢献するような大きな功績を挙げた者などがその名を連ねている。
いくら同じ貴族といっても、彼らとミュゼには雲泥の差がある。
マルセルは祖父の代からの顧客の伝手でなんとか推薦状を集めたようだが、ミュゼに同じことができるとは思えなかった。
だがそんなのはアシルにもお見通しだったのだろう。
「推薦状を書いてくれそうな者は俺が紹介しよう」
「本当ですか!?」
「あぁ、ただし……何の苦労もせず推薦状を書いてもらえるとは思わないでくれ。彼らを満足させるような香水を作れなければ、推薦状の話はなしだ」
「……はい。わかっています」
ミュゼだって、アシルの知り合いだというお情けで推薦状を書いてもらいたいわけではない。
(私の調香の腕で、満足してもらいたい。喜んでもらいたい……!)
先ほどのニネットのように、喜びに満ちた笑顔を見せてほしい。
ミュゼがちゃんと話を理解しているのがわかったのだろう。
アシルは話を続けた。
「理解しているのならそれでいい。さっそく一人目のところへ行くぞ」
「え、これからですか!?」
「あぁ、何か問題でも?」
心の準備が……と言おうとして、ミュゼは言葉を飲み込んだ。
そうだ。せっかく巡って来たチャンスなのだ。
少しでも、立ち止まっている時間はない。
「……いいえ、大丈夫です」
「わかった。相手方への説明に使うのでいくつか香水のサンプルを持ってきてくれ」
「はい!」
ミュゼはここ数日で作成した香水を鞄に詰め込んだ。
学生時代から一緒にいたマルセルの元から離れて数日。
いよいよ、ミュゼ単独での挑戦が始まるのだ。




