40 失った未来
「……あの時は、本当に何もかも失ったと思った。幼い頃から当然のように描いていた騎士としての人生は終わり、婚約者候補だった女も『こんなはずじゃなかった』と泣きながら他の男のところへ行った」
アシルの声は淡々としていたが、ミュゼにはその静けさがかえって痛々しく感じられた。
若くして将来を期待された騎士であり、名門リヴェレット侯爵家の後継ぎでもあったアシル。
ミュゼがそうだったように、きっと誰の目にもまばゆい人間に映っていたはずだ。
だが彼の歩むはずだった未来が崩れた時、騎士として生きる道だけでなく、婚約者候補だった女性でさえも彼の前から去って行ってしまった。
……責めることはできない。
恐ろしくなったのも、不安に耐えられなかったのも、十分に想像がつく。
それでも……夢も未来も失った直後のアシルにとって、どれほど残酷な仕打ちだったことだろうか。
「俺は騎士になるために生きてきたし、その未来を疑ったこともなかった。だからこそ……事故の直後は自分の状況が受け入れられなかった」
当然あると思っていた未来が、ある日突然消えてしまう。
それはどれほど恐ろしいことなのだろう。
アシルにとって騎士とは、単なる職業ではなかったはずだ。
幼いころから剣を握り、周囲から期待されながら歩いてきた人生そのものだった。
ミュゼも一度、調香師としての未来を失いかけたことがある。
それでもミュゼには、もう一度立ち上がる機会があった。
アシルが手を差し伸べてくれたから、今も夢を追うことができている。
けれどアシルは、どれほど努力してもかつてと同じ場所へは戻れなかったのだ。
「周囲も困っていたよ。慰めればいいのか、励ませばいいのか、それとも放っておけばいいのか、誰もわからなかったんだろう」
アシルは苦笑するように、ほんのわずかに口元を歪めた。
「皆、腫れ物に触るような顔をしていた」
その様子は、ミュゼにも容易に想像できてしまった。
同情は優しさの形をしている。
けれど向けられる側にとっては、時に刃物よりも深く胸を抉るものなのかもしれない。
「……理不尽だと思った」
淡々としていた声が、ほんの少しだけ低くなった。
「どうして俺だったんだと何度も考えた。悪いことはしていない。努力だってしてきた。それなのに、なぜ俺だけがこんな目に遭うんだと」
膝の上に置かれたアシルの手が、ゆっくりと握られる。
今はただ静かに語っている彼も、当時はきっと……胸の内に荒れ狂う怒りをどうすることもできなかったのだろう。
怒りも、悔しさも、絶望も、どこへぶつければいいかわからないまま。
血が滲むほど拳を握り締め、失われた未来を見つめることしかできなかったのかもしれない。
「当初は普通の生活を送ることも難しいと言われていた。だが、俺はそんな惨めな自分が許せなかった。死ぬ気でリハビリをして、今では日常生活程度なら問題なく過ごせている」
ミュゼはあらためて目の前のアシルを見つめた。
彼が歩く姿も、階段を上る姿も、後遺症を感じさせるようなものではなかった。
つい先日、自分を庇ってくれた時もそうだ。
あの一瞬の動きには迷いがなく、身体に深い傷を負った過去があるなど誰が想像できただろう。
それほどまでに、彼は努力したのだ。
誰にも惨めな姿を見せまいと、来る日も来る日も自分と向き合い続けたのだろう。
「……とはいっても、当然だが騎士には戻れなかった。宮廷内の不祥事だからか、俺には『宮廷書記官』という地位が用意された」
アシルは淡く息を吐き、どこか乾いた笑みを浮かべた。
「宮廷内で役職を与えられた貴族でも、実態は名前だけのお飾りなことも多い。おそらくは俺に与えられたのも同じだ。慰謝料代わりに、地位と金だけやるつもりだったんだろうな」
宮廷の事情には疎いミュゼでも、そのあたりの話は聞いたことがある。
「だが、俺はそんな舐めた境遇に甘んじるつもりはなかった。不幸な、哀れな人間だと周囲に同情されるのは虫唾が走るからな。剣を捨て、書物を手に取り、日夜勉強に励んだ」
アシルの声音は驚くほど落ち着いていたが、ミュゼにはその一言一言が胸の奥へ重く沈んでいくように感じられた。
騎士になるために生きてきた人が剣を置くということは、ただ武器を手放すという意味ではない。
幼い頃から積み重ねてきた鍛錬の日々も、何度も思い描いた未来にも、そのすべてに自ら終わりを告げることだったはずだ。
「当然、宮廷書記官としての仕事に手は抜かなかった。名ばかりの汚職貴族を追い出し、身分問わず有能な者が上に行くように取り計らった」
アシルはあくまで何でもないことのように言ったが、それがどれほど難しいことなのかは想像に難くなかった。
「リヴェレット侯爵家の後ろ盾も、使えるものは遠慮なく使った。俺一人の力で変えられることなんて限られているからな」
アシルはそう言って小さく肩を竦める。
「だが、そのおかげで少なくとも以前よりは職場の風通しは良くなった。横暴な貴族に怯えていた官僚たちも、少しずつ意見を言えるようになったしな」
宮廷という場所は、能力だけですべてが決まる世界ではない。
家柄や派閥、しがらみや利害関係が複雑に絡み合い、正論よりも権力の方が優先されてしまうことさえある。
そんな場所で既得権益にしがみつく汚職貴族を退け、身分を問わず有能な者を取り立てるというのは、口で言うほど簡単なことではないはずだった。




