41 再起のチャンス
「そのうちに、専門外のことでも仕事を振られたり、アドバイスを求められたりすることが多くなった。『できないとは言いたくなかった』から知らないことは勉強したし、わからないことは徹底的に調べた」
そう語るアシルの横顔には、かつて夢を失った人間の陰りはほとんど見えない。
けれど、それは傷が消えたという意味ではないのだろう。
きっと彼は失ったものを嘆き続ける代わりに、残されたものをどう使うかを考え続けてきた人なのだ。
だからこそ、今こうして穏やかな表情で過去を語ることができるのかもしれない。
「……今では、宮廷内の多くの情報が俺のところへ回ってくるようになった」
さらりと言ってのけるその言葉に、ミュゼは思わず目を見開いた。
王宮には多くの人間がいる。
王族や貴族はもちろん、文官や騎士、商人や職人たちまでもが複雑に関わり合い、それぞれの思惑を抱えながら動いている。
そんな巨大な組織の中で情報が集まるポジションになるということが、どれほど途方もないことなのかは、宮廷には縁のないミュゼにも十分想像できた。
(すごい……)
ミュゼの知るアシルは王宮の内情に詳しく、皆に一目置かれ、いつも冷静に物事を動かしている人だった。
絶望の底に突き落とされてもなお、そこで立ち止まることを選ばずに。
別の道を誰よりも必死に歩き続けた結果が、今のアシルなのだ。
もし自分が同じ立場だったら、果たしてここまで前を向くことができただろうか。
夢を失い、未来を失い、それでもなお努力を続けることができただろうか。
そう考えるたびに、ミュゼの胸の中には尊敬とも憧れともつかない感情が静かに広がっていく。
「文官としての今の仕事には満足している」
アシルは静かにそう言った。
その声に偽りは感じられなかったし、今の仕事に誇りを持っていることも伝わってきた。
だが、失った夢を完全に忘れられるわけではないのだろう。
「それでも……考えずにはいられないんだ。もしもあの時、怪我を負わなかったら、と」
窓の外へ向けられた横顔を見つめながら、ミュゼは何も言うことができなかった。
どれほど今が充実していても、どれほど多くの人に必要とされていても、本当に欲しかったものを諦めなければいけなかった事実だけは消えない。
その痛みはおそらく一生消えることはないのだろう。
「だから、君には諦めてほしくなかった」
静かな声だった。
その一言は不思議なほどまっすぐで、ミュゼは思わず息を詰めたままアシルを見つめ返す。
「すべてを失った君を見つけた時、かつての自分を重ねた」
アシルはそう言うと、ほんのわずかに目を伏せた。
ミュゼは何か言わなければと思ったものの、喉の奥がひりついて声が出なかった。
「だが、君は調香師として再起できるだけの能力が残っていた」
かつての彼は、怪我の後遺症によって騎士の道を断たれた。
どれほど努力しても、どれほど望んでも、失ったものは戻らなかった。
だが、ミュゼはそうではなかった。
婚約者にも裏切られ、今までの実績もレシピも奪われ、未来ごと奪われたように思えても……まだ調香師としての腕が残っていた。
かつてのアシルとは違い、再起のチャンスが残っていたのだ。
「だからこそ……諦めてほしくなかった。気が付いたら、君に手を差し伸べていたんだ」
アシルは、ミュゼから視線を逸らさなかった。
まるで自分自身にも言い聞かせているような響きが、その声にはあった。
ミュゼが調香師として前を向くことで、彼の胸の中にくすぶり続けていた何かも変わるのではないかと……どこかで期待していたのかもしれない。
「君が立ち直り、調香師として名を馳せていくのは自分のことのように誇らしかったよ」
「アシル様……」
その言葉を聞いた瞬間、ミュゼの胸の奥に熱いものがこみ上げた。
どうしてこの人は、ここまで自分に力を貸してくれるのだろう。
どうして何度も手を差し伸べ、時には厳しい言葉で背中を押してくれるのだろう。
ずっと心のどこかにあった疑問の答えに、ようやく手が届いた気がした。
それは同情だけではなかった。ただの親切でもなかった。
アシルは自分の中に残り続けていた痛みごと、ミュゼの再起を見守ってくれていたのだ。
そう思うと胸がいっぱいになってしまい、ミュゼは膝の上でそっと指先を握りしめた。
そんな中、アシルの表情はふいに曇った。
「だが……それがいつしか君を追い詰めていたのかもしれない」
低く落とされた声に、ミュゼははっと顔を上げた。
アシルが何を指しているのかは、聞かなくてもわかってしまった。
ミュゼが再び宮廷調香師を目指したからこそ襲撃を受け、調香師の命ともいえる嗅覚が失われてしまったのだから。
「そんな……そんなことはありません!」
ミュゼは思わず身を乗り出していた。
アシルのせいで追い詰められたなんて、そんなはずがない!
だがアシルは、静かに首を横に振る。
「事実、君を危険に巻き込んだ。実際に襲撃してきたのは雑魚ばかりだからどうにかなったが、もっと卑劣な手を使われたらどうなっていたかわからない」
彼の声は淡々としているが、その奥に押し殺した悔いがあることはミュゼにも伝わってきた。
「……そこまで想定しきれなかった俺の落ち度だ」
アシルは自分がミュゼを再起させたからこそ、危険な場所に立たせてしまったのだと思っているのだろう。
あのまま田舎へ帰っていれば、ミュゼの夢は叶わなかった。
それでも誰かに狙われることも、嗅覚を奪われることもなかったかもしれない。
きっとアシルはそんな可能性まで考えているのだろう。




