4 屋根裏部屋のアトリエ
「ここは……?」
レストランを出て馬車に乗ることしばらく。
ミュゼが連れてこられたのは、庶民的な店の並ぶ通りの一角だった。
目の前にあるのは一階に花屋が入った建物だ。
既に営業時間を終えているようだが、アシルは気にすることなく入り口のベルを鳴らす。
「はーい」
ほどなくして顔をのぞかせたのは、人のよさそうな女性だった。
年頃は三十前後だろうか。格好から見るに、彼女が花屋の主人なのかもしれない。
「まぁ、アシル様! こんな時間にどうしましたの?」
「屋根裏部屋が余っていただろう。しばらく人を住まわせたい」
「あら? あらあら~?」
女性はアシルと、その横でぽかんと成り行きを見守っているミュゼを交互に見て、にんまりと口角を上げた。
「ついにアシル様もこっそりと愛人を囲うようなお歳になったのですね……。ですが、こんなところよりももっと綺麗な邸宅がいくらでもあるのでは? 愛想尽かされちゃいますよ?」
「妄想を飛躍させるな。彼女はそんなんじゃない」
そう言うと、アシルはずかずかと店の中へと足を踏み入れた。
ミュゼも慌ててその後に続く。
「どうぞご自由にお使いくださいな。夫にも話しておきますわ」
花屋の女性はそう言ってひらひらと手を振った。
いったい何が何だかちんぷんかんぷんなミュゼは、こそりとアシルに問いかける。
「あの、ここは……」
「リヴェレット侯爵家の所有する不動産の一つだ」
答えになっているような、いないような……。
ミュゼが首をひねっている間にアシルは店の奥にある扉を開け、その先の螺旋階段を上り始めた。
「この集合住宅の管理は先ほどの女性に任せている。わからないことは彼女に聞け」
四階、五階……どこまでも続く螺旋階段を上り、ついには最上階へとたどり着く。
アシルは戸惑うことなく階段の先にある扉を開けた。
斜めの天井、大きな天窓。ここが先ほど言っていた屋根裏部屋なのだろう。
少々埃っぽい室内には、ベッド、書き物机、クローゼットなど最低限の家具が揃っている。
「貸し部屋の一つだが、丁度空いている。寝泊まりにはここを使え」
「え? え……?」
彼は戸惑うミュゼに視線をやり、更に問いかけた。
「調香に必要な道具にはどんなものがある」
「えっと、蒸留器に、天秤に……」
聞かれたままにつらつらと羅列すると、アシルはふむふむと頷いた。
「明日になったら使いを寄こすので、必要なものを注文するといい。請求は俺宛てにして構わない」
「えっ……!?」
いよいよミュゼはわけがわからなくなった。
今の言い方は、まるで――。
「ここが、私の工房になるんですか……?」
「悪いが狭さについては我慢してくれ」
「いえっ、そうではなく!」
住居と調香を行える場所も用意して、請求も持つなんて、至れり尽くせりの対応だ。
だが、ミュゼは彼がそこまでしてくれる理由がまったく思い浮かばないのだ。
「どうして、私にそこまで……」
いくら同じ学園で学んだ者同士とはいえ、学生時代のアシルとミュゼにはほとんど交流がなかった。
アシルは上流貴族の華々しい面々と行動を共にしており、下級貴族はおいそれと話しかけることもできないような存在だったのだ。
一方ミュゼは吹けば飛ぶような田舎の小貴族の娘で、おまけに日夜調香の研究に明け暮れてばかり。
ミュゼとしては、アシルがこちらの存在を知っていただけでも驚きだというのに。
何故、偶然会っただけのミュゼにここまでしてくれるのだろう。
そんな思いを込めてアシルを見つめると、彼はふい、と視線を逸らした。
「……マルセル・クレルブラン。君の話だととんでもなく性根が腐った男のようだ。ああいう奴が宮廷で権力を持つと俺の仕事がやりにくくなる」
「アシル様は王宮に勤めていらっしゃるのですか?」
「あぁ、宮廷書記官として働いている」
「宮廷書記官……」
彼の言葉を、ミュゼは意外に思った。
リヴェレット侯爵家は代々優秀な騎士を輩出する名門貴族だ。
学園時代の彼も、何度も剣術大会で優勝したと聞いている。
てっきり騎士として働いているのかと思いきや、文官になったとは思いもよらなかった。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
せっかくアシルがチャンスをくれたのだ。
彼がしてくれた以上に、成果で応えなくては。
「ありがとうございます、アシル様。精一杯、足掻いてみせます」
ミュゼがそう決意を伝えると、アシルはふっと笑った。
「あぁ、楽しみにしている。それでは」
彼はそのまま、振り返ることなく階段を下りて行った。
ミュゼは彼の姿が見えなくなるまで呆然と立ち尽くし、やがてふらふらと歩き出す。
備え付けのベッドにぽふんと身を預けると、天窓から夜空が良く見えた。
「疲れたぁ……」
思えば今日はいろいろなことがあった。
マルセルの婚約詐欺が発覚し、工房を追い出され、再就職先を求めて駆けずり回り……どんな偶然かアシルに拾われてここにいる。
……正直に言えば、アシルの言葉に納得したわけではない。
いくら厄介な男が権力を持ちそうだからといって、よく知らない学園時代の同級生をここまで手厚く支援しようと思うだろうが。
客観的に考えれば、ミュゼの方が嘘をついている可能性だってあるのに。
(アシル様には、まだ何か話していない理由があるのかもしれない)
だが、今のミュゼにできるのはごちゃごちゃと考えることではない。
一刻も早く、調香師として再起を図ることだ。
――幸運の女神には前髪しかない。
きっと二度とはないであろうこのチャンスを、逃さないようにしなければ。




