3 ならば、俺と来い
「なるほど、結婚詐欺か」
「はい、お恥ずかしい限りですが……」
うっかり学園時代の同級生――アシルが乗る馬車にひかれかけたミュゼは、気が付けば彼によってなにやら高級そうなレストランの個室に連れてこられていた。
そわそわするミュゼの懐事情を察したのか、彼は「俺の奢りだ」と言い高そうな料理を二人分注文してしまう。
確か彼は名門侯爵家の令息だったはずだ。さすがミュゼとは住む世界が違う人間。
だがここまでされてしまっては、ミュゼも己の情けない事情を話さないわけにはいかなかった。
「……私が浅はかでした。マルセルの言葉を信じ切って、明らかにおかしい部分を深く考えようともしなかった」
「君の話を聞く限り、相手はかなり狡猾なようだ。証拠がないとなると訴えて出るのも難しいだろうな」
「はい……」
ミュゼは思わずため息をついてしまった。
そんなミュゼをじっと見つめ、アシルは口を開く。
「『アトリエ・クレルブラン』の評判は俺も知っている。若き男性調香師が天才的な腕前だと聞いていたが……まさかその背後にいたのは君だったとは」
あらためてそう言われると、ミュゼが数年間費やした実績が何も残らなかったことが悲しい。
「だが、君がいなくなっては宮廷調香師になるのも難しいのでは?」
「彼の工房には私の作成した数多くの香水レシピがあります。マルセルは調香よりも売り込みや経営などの仕事がメインですが……レシピを元に調香することはできます」
宮廷調香師になれさえすれば、あとはマルセルの思うがままだろう。
彼はミュゼのことなどきれいさっぱり忘れて、栄誉を手に入れるに違いない。
「それで、君はどうするつもりだ」
極めて冷静に、アシルがそう問いかけてくる。
ミュゼはすぐに答えることができず、視線を落とす。
琥珀色のスープの中に、浮かない顔の自分が映っていた。
「……すべてを失った私にはもう何もありません。宮廷調香師にはなれないし、故郷に帰ろうと思います」
今日一日駆けずりまわって、そう思い知らされた。
ミュゼにあるのは今までに培った調香師としての知識と技術だけだ。
だが、それを発揮することができなければ何の意味もない。
王都の工房は決してミュゼを受け入れない。
自分で工房を開くのには圧倒的に資金と信用が足りない。
……既に状況は詰んでいるのだと、認めざるを得なかった。
アシルはじっと黙って、ミュゼの回答に耳を澄ませているようだった。
そして、彼は再びミュゼをじっと見つめ、問いかける。
「君は、それでいいのか」
彼の言葉にミュゼは「それでいい」と答えようとして……声が出なかった。
それでいいのか、だって?
そんなの…………いいわけがない!
「っ……私、は……」
本当は、納得なんてしていない。
必死に自分に言い聞かせていただけだ。
もう打つ手はない。仕方なかった。このまま故郷に戻るのが最善だ……と。
だが胸の奥底では、今にも溢れそうなほどの激情が渦巻いているのだ。
アシルの言葉がきっかけで、内に封じ込めていた思いが零れてしまう。
「悔しい。本当は悔しくてたまらないんです……!」
どうしてマルセルの言葉を疑わなかったのか。
学園を卒業する際に、どうして彼の手を取ってしまったのか。
たとえ困難な道でも、あの時ミュゼが一人で歩む道を選んでいれば「宮廷調香師になる」という夢を諦めなくて済んだのに。
どうして、安易な道に流されてしまったのか……!
「ずっと、ずっと頑張って来たんです。宮廷調香師になるためにって。朝も、昼も、夜も……毎日毎日何年もずっと! それなのに、こんな形で終わるなんて――」
いつの間にか、ミュゼの両目からはぽろぽろと涙が溢れていた。
零れた涙が頬を伝い、スープの中へと落ちていく。
アシルはそんなミュゼのみっともない姿を見ても、表情を変えなかった。
動揺することも引くこともなく、彼は静かに呟いた。
「……知っている」
その言葉がどんな意味なのか、ミュゼにはわからなかった。
ただ彼は、静かに問いを重ねた。
「諦めたくないのだろう」
「そんなの……当たり前じゃないですか!」
「君は調香師としての腕まで潰されたわけじゃない。……まだ間に合う。最後までみっともなく足掻く覚悟はあるか」
彼の言葉に、ミュゼは自然と頷いていた。
おとなしく故郷へ帰るだって?
ふざけんなクソくらえ。すごすごと引き下がると思ったら大間違いだ!
(私は調香師として再起してみせる。どんな手を使っても、どれだけ時間がかかっても!)
そして、正々堂々と調香師としての実力でマルセルを圧倒して見せるのだ。
ミュゼの目に光が戻ったのが見えたのだろう。
アシルはにやりと口角を上げ、告げた。
「ならば、俺と来い」




