38 よくない状況
ブリスに案内され、ミュゼはリヴェレット侯爵邸の廊下を歩いていく。
さすがは名門公爵家といわんばかりの調度品の数々が並んでいおり、普段のミュゼならばそのひとつひとつに目を奪われていたことだろう。
だが今のミュゼには、その余裕がなかった。
……ずっと、胸の奥に冷たいものが居座っている。
息を吸うたびにあの日の光景が鮮やかに蘇ってしまうのだ。
鋭く光ったナイフ。咄嗟に自分を庇ったアシルの背中。衣服にじわりと広がっていった、あまりにも生々しい赤……。
何度忘れようとしても、あの時の光景は消えてくれなかった。
「ミュゼさん、こちらです」
前を歩いていたブリスが、柔らかな声でそう告げて立ち止まる。
その声に我に返ったミュゼは慌てて顔を上げた。
おそらくは、ここがアシルの部屋なのだろう。
ブリスが控えめにノックをすると、すぐに中から落ち着いた声が返ってきた。
「入ってくれ」
「失礼いたします。ミュゼさんをお連れしました」
扉が開かれると、室内には窓から差し込むやわらかな光が満ちていた。
リヴェレット侯爵家の後継ぎの私室らしく、置かれている家具は一目で上質だとわかるものばかりだった。
アシルはベッドの上で身を起こしており、読書をしていたのか片手には分厚い本を持っている。
普段の彼のようにきっちりとした衣装を身に着けているわけではなく、幾分かラフな格好をしていた。
普段の隙のない姿とは違うその様子に、ミュゼは一瞬だけ戸惑った。
だがすぐに彼が怪我人なのだという事実を思い出し、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「アシル様、お怪我の具合は……」
おずおずと尋ねると、アシルは本を閉じ、まるで何でもないことのように肩をすくめた。
「ただのかすり傷だ。念のため数日静養しろと言われたからこうしているが、別に普段通りの生活に戻っても何の問題もない」
「アシル様は丈夫ですからね」
すぐそばに控えていたブリスが、いつもの穏やかな調子で言葉を添える。
「鍛え抜かれた筋肉にはきっとナイフの方が根負けしたのでしょう。お医者様が驚くほどに軽傷でした」
ブリスは重い空気を少しでも和ませようとそう言ったのだろう。
……けれどミュゼは、笑うことができなかった。
こうしてアシルが無事に目の前にいて、言葉を交わすことができるのは間違いなく嬉しい。
だが確かに彼が負った傷を思うと、安堵よりも先に申し訳なさが込み上げ、喉の奥がぎゅっと詰まってしまうのだ。
そんなミュゼの様子を見て、アシルはしばらく何も言わなかった。
いつものように軽口を重ねることも、無理に話題を変えることもしない。
ただ静かにミュゼの表情を見つめた後、低く落ち着いた声で告げる。
「……むしろ、君の方がよくない状況だと聞いたが」
「はい……」
ミュゼは視線を落とし、胸の前で両手をぎゅっと握り締めた。
自分の身に起きていることを口にするのが怖かった。
言葉にしてしまえば、それはもう一時的な錯覚ではなく、確かな現実になってしまうような気がしたからだ。
けれど、アシルに隠しておけることではない。
ミュゼは息を吸い、意を決して口を開いた。
「匂いが、感じられないんです」
絞り出した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
アシルも事前に話は聞いていたのだろう。
驚くことなく、詳細を尋ねてくる。
「嗅覚の喪失、もしくは麻痺ということか」
「はい。お医者様の話では精神的なもので、そのうち元に戻ることが多いそうですが……」
そこまで言うのが精一杯だった。
言葉の先を続けようとすると、またあの光景が蘇ってくる。
あの日、ナイフがアシルの身体を傷つけた瞬間、彼の服に広がっていった赤い染み。
慌てて押さえた手の下で感じた、温かくて恐ろしい感触。
人の血というものがあれほど鮮やかで、あれほど強く心をえぐるものだとは知らなかった。
(あの時から、血の匂いが消えない)
きっと、疲弊した精神が引き起こした錯覚なのだろう。
だがミュゼがどこにいても、何をしても、あの匂いが消えないのだ。
(花の香りも、料理の匂いも、何も感じられなくなってしまった)
花に顔を近づけても、焼きたてのパンを前にしても、匂いというものがわからないのだ。
(私は調香師で、匂いが感じられなければ何もできないのに。宮廷調香師のコンテストだってもうすぐで、アシル様は怪我までして私を庇ってくださったのに……)
情けなさと悔しさが込み上げ、ミュゼは唇を強く噛み締めた。
泣きたいわけではない。泣いたところで嗅覚が元に戻るわけでも、アシルの傷がなかったことになるわけでもないのだから。
そうわかっているのに、まるで鉛を飲み込んだかのように胸の奥が重い。
少し気を抜けば涙になってこぼれてしまいそうだった。
「……お茶をお持ちいたします」
静かにそう告げたブリスは、そっと部屋を出ていった。
扉が閉まると、室内にはアシルとミュゼだけが残された。
しばらく沈黙が続いた後、先に口を開いたのはアシルの方だった。
「俺が怪我をしたことを気に病んでいるのなら、その必要はないと言っておく」
その声は責めるものではなく、驚くほど穏やかなものだった。
「先ほども言ったがただのかすり傷だ。……それに、この程度の怪我なら何度も経験している。もっとひどい傷を負ったこともある」
「ですが……」
思わず言い返しかけたミュゼに、アシルは静かに目を細める。
「君は、俺が以前騎士を志していたことは知っているか」




