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37 赤に染まる

 楽しい時間というものは、どうしてこうもあっという間に過ぎてしまうのだろう。

 小舟から降りる頃には茜色だった空が紫を帯び、王都オーレリスも夜の気配を纏い始めていた。

 そんな街並みの中を、ミュゼとアシルは肩を並べて歩いていた。

 中央庭園から始まった今日の散策は、ミュゼにとってまさに夢のような一日だった。

 見たことのない植物、美しい街並み、運河沿いを彩る花々――そして、それらについて語り合う時間。

 調香師としても、一人の人間としても、忘れられない一日になった気がする。

 そう考えながら歩いていた時、不意に夜風が吹き抜けた。

 風に乗って漂ってきた甘い香りに、ミュゼは思わず足を止める。


「あら……?」


 視線の先には、建物の壁際に植えられた白い花があった。

 昼間にはほとんど香りを感じなかったはずなのに、夜になるとまるで別の花のように魅惑的な香りを放っている。


「この花……。昼と夜でこんなに香りが違うんだ」


 興味を引かれたミュゼは、反射的に鞄へ手を伸ばした。

 こういう発見はすぐに書き留めなければならない。

 慣れた動作でノートを取り出した、その瞬間だった。

 背後を通りがかった人間が急に手を伸ばし、ミュゼのノートをひったくるように奪い取ったのだ。


「えっ?」


 何が起きたのか理解するより早く、黒い影が目の前を駆け抜けていく。

 その腕に抱えられているのは、間違いなくミュゼのノートだった。


「わ、私のノート!」

「ひったくりか!」


 アシルが即座に反応した。

 男は振り返ることもなく人混みをすり抜け、そのまま細い路地へ飛び込んでいく。

 あのノートには今日の記録だけではない。

 研究途中のレシピ、新しい香水の構想、最近発見した香料同士の反応……全て詰まっている。

 絶対に、失うわけにはいかなかった。


「待ってください!」


 ミュゼは必死に駆け出す。

 アシルもすぐ隣を走っていた。


「ミュゼ、無理はするな!」

「でも、あれだけは絶対に取り戻さないと……!」


 男は驚くほど足が速かった。

 大通りを抜け、脇道へ入り、さらに細い路地へ。

 どんどんと、周囲を歩く人は少なくなっていく。

 やがて男が飛び込んだのは、周囲を高い石壁に囲まれた袋小路だった。


(やっと追い詰めた……!)


 ようやく追いついたミュゼは、ぜぇぜぇと息を整えながら告げる。


「返してください、それはただのノートです。売って高値がつくものではありません」


 きっと財布か何かと間違えたのだろう。

 ミュゼはそう思っていたが、振り返った男の口元には不気味な笑みが浮かんでいる。

 思わず言葉を失うミュゼに、男はおかしそうに言った。


「まぁ、別にこれは返してやってもいい。俺の仕事は済んだからな」

「……お前の仕事とはなんだ」


 アシルの言葉に、男はけらけらと笑った。


「お前たちをここまで誘導することだよ!」


 その瞬間、背後から複数の足音が響く。

 反射的に振り返れば、出口を塞ぐように数人の男たちが立ちふさがっていた。

 まさにごろつき……という言葉がふさわしい風貌の、香水店ではお目にかからないタイプの人間だ。

 アシルがミュゼを庇うように前へ出て、男たちと相対する。


「……何の用だ」


 アシルの問いかけに、ごろつきの一人がにやりと笑う。


「まぁ、安心しろよ。命までは取らねぇから。ちょっとそこの女の腕を折らせてもらうだけだ」


 その言葉に、ミュゼはぞっとした。


(目的はアシル様じゃなくて私……!?)


 腕――それは調香師にとって、ある意味命と同義だ。

 調香に関するありとあらゆる作業に、自身の腕が必要なのだから。

 もしこの場で腕を折られたとしたら――。


(次のコンテストに間に合わない……!)


 信じたくはなかった。

 だがほぼ間違いなく、ミュゼを潰そうとする他の調香師の妨害だろう。

 アシルも同じことを考えたのだろう。


「誰の差し金だ」


 アシルの低く静かな声にも、ごろつきたちは笑うだけだった。


「教える義理はねぇな」


 アシルは動揺することなく、小さく息を吐く。


「そうか……なら、こちらもやすやすと腕を折らせる義理はない」

「は?」

「はした金に釣られたのかは知らないが、お前たちの行き先は牢獄だ。そこで頭を冷やすといい」


 あくまで冷静なアシルの言葉に、ごろつきたちの顔に怒りが浮かぶ。


「てめぇ!」


 手前にいた男の一人がアシルに向かって殴りかかった。


「アシル様!」


 ミュゼは思わず声を挙げてしまったが……いらない心配だった。

 アシルが素早く動き、男の拳は空を切る。

 そして気が付けば、男は無様に石畳の上に転がっていたのだ。


「え……?」


 ミュゼは目を見開く。

 ……何が起きたのか理解できなかった。

 それはミュゼだけでなく、残りのごろつきたちも同じだったのだろう。


「な、なんだ……?」

「来るなら早く来い。雇い主のところに逃げ帰るならそれでもいいが」


 挑発するようなアシルの言葉に、ごろつきたちはいきりたった。


「くそ……やっちまえ!」


 数人の男たちが、アシルへと襲い掛かる。

 だが、アシルは少しも焦るそぶりを見せなかった。

 次々と飛び込んでくる男たちを紙一重でかわし、その勢いを利用して投げ飛ばし、蹴り飛ばし、殴り飛ばし……急所を正確に打ち抜いていく。

 ……野蛮なのに、美しい。

 思わず見とれてしまうほど、洗練された動きだった。


(アシル様って、文官だったよね……?)


 どう考えても文官の動きではない。

 普通の喧嘩どころか、戦い慣れているように見えた。

 やがて最後の一人が倒れ込み、路地裏には呻き声が響く。

 アシルはゆっくりと振り返り、最初のひったくり犯へ視線を向けた。


「あとはお前だけだ」


 先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた男の顔は、可哀そうなほど引きつっていた。

 アシルが男の方へと足を踏み出す。

 ……それが、引き金となったのかもしれない。


「うわあぁぁ!!」


 おそらくは、追い詰められた恐怖で理性を失ってしまったのだろう。

 男は懐からナイフを取り出すと、滅茶苦茶に振り回しながら突進してきたのだ。

 ……アシルではなく、近くにいたミュゼの方へと。


「っ……!」


 とっさのことで、ミュゼは動けなかった。

 ただぎゅっと目を瞑り、この後に来るであろう鋭い痛みに備える。

 だが――。

 痛みはやって来なかった。

 おそるおそる目を開けたミュゼの視界に映ったのは――。


「アシル様!」


 目の前には、アシルの背中が広がっている。

 カラン、とナイフが落ちる音と共に、ぽつりと地面に血の雫が落ちる。

 それが誰の血なのかを理解すると同時に、ミュゼは全身の血の気が引いた。


「違っ、そんなつもりじゃ……うわあぁぁぁ!!」


 ひったくり犯の男も我に返ったのか、真っ青な顔で逃げ出していく。

 それと同時にアシルの体がぐらりと傾き、路地裏の壁に寄りかかるように座り込んだ。


「アシル様!」

「……ミュゼ、怪我はないか」


 こんな状況でも、アシルはミュゼの心配をしていた。

 今も彼の上着が、じわじわと血で赤く染まりつつあるというのに。


「アシル様! アシル様……!」


 胸の奥から込み上げてくる恐怖に押し潰されそうになりながら、ミュゼは震える手で彼の身体を支えた。

 赤く染まっていく服だけが、残酷な現実を突き付けるように夜の闇の中で広がり続けていた。


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