36 君は、君らしく
美術館を出る頃には、空の色が少しずつ夕暮れへ傾き始めていた。
次に二人が向かったのは、オーレリスの市街を流れる大運河だった。
王都をゆるやかに流れるその水路には、荷を運ぶ舟や遊覧用の小舟が行き交い、岸辺にはカフェや露店が並んでいる。
アシルが手配してくれていた小舟に乗り込むと、船頭が慣れた手つきでオールを操り、舟は水面を滑るように進み始めた。
昼間の王都は華やかで賑やかだったが、夕暮れの運河から見る街は、それとはまた違う表情をしていた。
運河沿いの建物の窓には夕陽が差し込み、茜色に染まった壁や屋根が、まるで物語の挿絵のように柔らかな輪郭を帯びていた。
遠くからは楽師の奏でる音楽が聞こえ、どこかのカフェからは焼き菓子とコーヒーの香りが流れてくる。
ミュゼは舟の縁にそっと手を添え、目の前の景色を見つめた。
「綺麗……」
その一言に、胸の中の感動がすべて詰まっていた。
王都オーレリスはミュゼにとって夢を叶えるための場所だった。
宮廷調香師を目指すために来た街であり、努力し、裏切られ、すべてを失いかけた場所でもある。
けれど今、夕暮れの運河から眺めるこの街は、そんな苦い記憶だけでは語れないほど美しかった。
(私、何も見ていなかったのかもしれない)
ずっと前だけを見ていた。
宮廷調香師になることだけを考え、目の前にある景色や人の営みを、ゆっくり味わう余裕がなかった。
けれど庭園の草花を見て、美術館の絵画に触れ、こうして運河の上から街を眺めていると……香水の材料は工房の棚の中だけにあるわけではないのだと、あらためて思い知らされる。
風の匂いも、光の色も、人々の笑い声も、すべてが香りの記憶に繋がっていく。
そう考えた瞬間、ミュゼはまた鞄へ手を伸ばしていた。
ノートを開き、揺れる舟の上でどうにか文字を書いていると、向かいに座るアシルがふと口を開いた。
「今日は楽しめたか?」
ミュゼは顔を上げた。
夕陽を背にしたアシルの表情は少し見えにくかったが、その声は穏やかだった。
「はいっ……!」
考えるより先に言葉が出てきた。
「とても楽しかったです。中央庭園も、美術館も、この運河も……全部、今まで知らなかったものばかりで、たくさん刺激を受けました」
言葉にしているうちに、胸の中にあった感動が改めて広がっていく。
「香水のアイディアもたくさん浮かびましたし、絵や景色から香りを作ることについても、もっと考えてみたくなりました。……本当に、連れてきてくださってありがとうございます」
ミュゼは心からそう礼を言った。
アシルはしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて少しだけ目を細めた。
「それならよかった」
その短い言葉に、ミュゼの胸がふわりと温かくなる。
だが次の瞬間、彼女は自分のノートを見下ろし、ぴしりと固まった。
(……あれ?)
ノートの中には、ミュゼの今日一日の軌跡が綿密に記されている。
中央庭園では、花壇に夢中になってメモを取った。
カフェでは、料理の香草について分析した。
美術館では、絵画の前で香水の構想を書き留めた。
そして今、運河の小舟の上でも当然のようにノートを開いている。
どこをどう切り取っても普通のデートらしい甘酸っぱいあれこれより、調香師としての観察と記録の方が圧倒的に多かった。
(もしかして……普通のデートでは、こんな風にメモを取ったりしないのでは……?)
今さらすぎる気づきに、ミュゼの顔から血の気が引いていく。
「ミュゼ?」
異変に気付いたのか、アシルが怪訝そうに名を呼ぶ。
ミュゼは慌ててノートを閉じ、勢いよく頭を下げた。
「も、申し訳ありません!」
「急にどうした」
「私、今日ずっとメモばかり取っていました……! せっかくアシル様が色々な場所に連れてきてくださったのに、普通のデートらしいことを全然できていなかった気がします……!」
言いながら、恥ずかしさで顔が熱くなっていく。
しかも、気づくのがあまりにも遅い。既にデートは終盤だ。
「失礼でしたよね……本当にすみません。私、調香のことになると周りが見えなくなってしまって……」
しゅんと肩を落とすミュゼの前で、アシルはしばらく黙っていた。
……怒っているのだろうか。
それとも、呆れているのだろうか。
恐る恐る顔を上げると、彼は困ったように……だがどこか柔らかく微笑んでいた。
「何故謝る」
「え……? だって、こんな失礼な真似をして気を悪くされたんじゃ――」
「俺は別に君がメモを取っていても気にしない。君は、君らしくいればいい」
ゆっくりと告げられた言葉に、ミュゼは目を見開いた。
夕暮れの風が二人の間を通り抜け、アシルの髪をわずかに揺らす。
「君が何を見て、何に心を動かされるのかを知るのは面白い。今日の庭園も美術館も、俺一人で見ていたならああいう見方はしなかっただろう」
「……そう、ですか?」
「あぁ。少なくとも、その辺の草花をあそこまで真剣に観察する人間を、俺は他に知らない」
「そ、それは褒められているのでしょうか……?」
「褒めている」
真顔で断言され、ミュゼは思わず瞬きをした。
冗談なのか本気なのか少し迷ったが、アシルの声にはからかいよりも穏やかな肯定があった。
……そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
自分が年頃の乙女と比べてどこかずれていることはわかっている。
けれどアシルは、そんな自分を否定しなかった。
変えろとも、もっと普通に振る舞えとも言わなかった。
――君は君らしくいればいい。
たったそれだけの言葉が、夕暮れの光よりも柔らかく胸に染み込んでくる。
「……ありがとうございます」
ミュゼはノートを抱えたまま、小さく微笑んだ。
するとアシルは、少しだけ視線を逸らすように運河の先へ目を向けた。
「ただし、舟の上で書く時は落とさないように気をつけろ。拾える保証はないからな」
「そ、そうですね……!」
慌ててノートをぎゅっと胸に抱くと、アシルが小さく笑った。
その笑みを見た瞬間、ミュゼの胸がまた少しだけ弾む。
今日得たものは、きっと香水のインスピレーションだけではない。
美しい庭園や絵画、夕暮れの運河の光景と同じくらい……この穏やかな言葉も、いつか香りに閉じ込めてみたい。
そんなことを思いながら、ミュゼはゆっくりと流れていくオーレリスの景色を見つめた。




