33 デート準備
リヴェレット侯爵邸の書斎には、午後の柔らかな陽光が差し込んでいた。
窓辺の椅子に腰掛けたアシルは、静かに本のページをめくっている。
その横顔はいつも通り落ち着いて見えるものの、どこか機嫌が良さそうにも見えた。
そんな主の様子を眺めながら、ブリスは声をかける。
「しかし驚きました。ミュゼさんがまさかあんなことを言い出すとは……」
しみじみと呟くと、アシルは視線を本から外さないまま小さく肩をすくめた。
「ミュゼは調香に関することとなると人が変わるからな。まぁ、あの知的好奇心は職人向きなのかもしれない」
どこか呆れたような口調だったが、その声音には親しみが滲んでいる。
ミュゼが香りに関する話題になると周囲が見えなくなることは、もはや誰もが知るところだった。
「お前がミュゼに付き合ってやってもよかったんだぞ?」
ふとそんなことを言われ、ブリスは慌てて首を振る。
「いやいや、私では力不足ですよ。とてもミュゼさんの知的好奇心を満たすことはできそうにありません」
「そうか?」
「ええ。きっと途中で私のほうが音を上げます」
それは冗談でも何でもない。
以前、香料の抽出法について語り始めたミュゼが、気付けば三時間近く話し続けていたことがあった。
ミュゼのあれはもはや情熱というより才能だろう。
ブリスは辛抱強く付き合ったが、非常に疲れた。
(それに……)
ブリスはちらりとアシルの手元へ目を向けた。
そこにある本の表紙を見た瞬間、思わず吹き出しそうになる。
『必見! オーレリスのデートスポット100選』
王都の名所や人気店がまとめられた、どう考えても若者向けの軽い読み物だった。
普段のアシルならまず手に取らない部類の本である。
法学書、歴史書、経済学書、研究書……それが、アシルの本棚を占める顔ぶれだ。
少なくとも「恋人たちにおすすめの夜景特集」などという見出しが載った本を熱心に読むタイプではなかったはずだ。
(なんだかんだでアシル様も楽しみにされてますよね……)
そう言いたくなった。
実に言いたくなった。
……だが、ブリスはぐっと堪える。
「……何だ」
視線に気付いたのか、アシルが顔を上げる。
「いえ、何でもありません」
「そうか」
訝しげな表情を浮かべながらも、アシルは再び本へ目を落とした。
その様子を見て、ブリスは内心で微笑む。
以前のアシルなら、休日の予定を考えてこうした本を読むことなどなかっただろう。
見ているこちらが心配になるほどに、ひたすら仕事に打ち込んでいた。
だが、今は違う。
誰かと出かける場所を調べ、その時間を少しでも良いものにしようとしている。
その変化が、ブリスには嬉しかった。
(きっと、アシル様にとってもこれは良い傾向だ)
……どうか二人にとって楽しい一日になりますように。
そんな願いを胸に、ブリスは静かに祈るのだった。
アシルとのデート当日の朝、鏡の前に立たされたミュゼは、ぱちくりと目を瞬かせた。
可愛らしくアレンジされた髪には小さな花飾りが添えられ、あちこちにフリルやレース飾りのついた淡い色のワンピースは歩くたびに裾がふわりと揺れる。
いつもの仕事着で出かけようとしたところを、マリエットとニネットに全力で引き留められてしまった。
そのままあれよあれよという間に「デート仕様」へ仕立て上げられてしまったのである。
(私、本当にこの格好で外を歩くの……?)
調香道具や香水瓶に囲まれている時とは違う自分が、鏡の中にいる。
気恥ずかしいような、新鮮なような……不思議な気分だった。
「うーん、変じゃないでしょうか……」
ミュゼがおずおずと尋ねると、ニネットは腰に手を当てて胸を張った。
「何言ってるのミュゼ。デートなんだから気合入れないと!」
その横で、マリエットもにこにこと頷く。
「とっても可愛いわ! ふふ、アシル様の反応が楽しみね」
「反応……?」
「そうそう。『可愛い君に惚れ直したよ』なんて言われちゃうかもよ?」
「うーん、解釈違い……」
ニネットははしゃいでいるが、ミュゼはそんな風に甘い言葉を囁くアシルがいまいち想像できなかった。
彼なら書類の不備を確認するような冷静さで、「その格好は動きにくくないか」という方が予想できる。
「ほら、香水もちゃんとつけてきなよ」
そう促され、ミュゼは最近店先に並べたばかりの若い女性向けの香水を手に取る。
調香師といっても、普段のミュゼは香水をつけないタイプだ。
――「それで、少しでも魅力的に見せたくて……デートの際のおすすめの香水ってありますか?」
デートのために香水を求めた、愛らしい少女の言葉が脳裏に蘇る。
(少しは、彼女の気持ちもわかるかもしれない)
そんなことを考えながら、自身の作った香水を身に纏う。
そうこうしているうちに、来客を告げるベルが鳴った。
「はぁーい!」
すぐにマリエットが機嫌よく対応し、入って来たアシルとミュゼの目が合う。
……ほんの一瞬、空気が止まった気がした。
しかしアシルはいつも通りの落ち着いた顔で、淡々と口を開く。
「準備はできているようだな」
「はい。えっと……よろしくお願いします」
「あぁ、行くぞ」
……これから初デートに赴く若い男女の会話としては、なんともかしこまったものだった。
視察に向かう上官と、その補佐官の出発の際の会話と言った方がしっくりくるかもしれない。
そんな二人の背中を見送ったニネットが、悔しそうに拳を握る。
「もー! あの二人ってデートの日でも仕事中みたいな雰囲気なんだから!」
マリエットは口元に手を添え、微笑ましげに目を細めた。
「ふふ、若いわねぇ」
こうして記念すべき(?)二人の初デートは、甘い予感よりも少しばかり事務的な空気を纏いながら幕を開けたのだった。




