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32 別に、忙しいとは言っていない

 その日の閉店後、ミュゼのアトリエにはマリエット、ニネット、アシル、ブリスが集まっていた。

 マリエットが淹れてくれたお茶の香りが、調香道具の並ぶ屋根裏部屋にふわりと広がっている。

 そんな中で、ミュゼは昼間の出来事を話題に出した。


「はぁ、本当に焦りました。なんとか切り抜けられたからいいものの……」

「あの時のミュゼ、めちゃくちゃ焦ってて面白かったよ」


 椅子に腰かけて焼き菓子をつまんでいたニネットが、くすくすと笑う。

 マリエットは口元に手を添え、楽しげに微笑んでいる。ブリスは穏やかな顔を保とうとしているが、肩がわずかに震えていた。

 アシルだけはいつものように表情を変えていない……ように見えたが、よく見ると目元が少しだけ和らいでいる。


「……でも、自分の弱点を思い知らされました。調香師として、座学だけではわからないことがたくさんあります」


 香水の知識はある。

 香りの系統、持続時間、場面に合うかどうか。そうした質問なら、いくらでも答えられる。

 だが、それはあくまで「一般知識」の域を出ない。


 ――恋する少女がデート前に抱く期待。

 ――相手に少しでもよく見られたいと願う胸の高鳴り。

 ――香りひとつに勇気を託す、あのまっすぐな切実さ。


 そういったものは知識だけでは届かない領域にある。

 経験のないミュゼでは、ちゃんと寄り添えているのか不安だった。


「ニコレット様の著書にもありました。香水作りのインスピレーションはアトリエに籠っているだけじゃ湧いてこないって……」


 ――街を歩きなさい。

 ――人と話しなさい。

 ――恋をし、笑い、泣き、季節の移ろいを肌で感じなさい。

 香りは瓶の中だけにあるのではなく、世界そのものに満ちているのだと。


 憧れの宮廷調香師ニコレットの本には、確かにそう書かれていた。

 その言葉の意味を頭では理解していた。

 だが、いざ自分に足りないものを突きつけられると、思った以上に衝撃が大きかったのだ。

 そんなミュゼを見て、マリエットが冗談めかして言う。


「ふふ、ミュゼさんも殿方とデートしてみたら新しいインスピレーションが生まれるかもしれないわね」


 それは軽い茶化しのつもりだったのだろう。

 だが、ミュゼは違った。

 マリエットの冗談を、天啓だと言わんばかりに真に受けてしまったのである。


「それだ……!」


 場の空気が、一瞬止まった。

 マリエットの笑顔が固まり、ニネットが焼き菓子を口に入れかけたまま動きを止める。

 ブリスは嫌な予感を覚えたのか、表情が固まった。

 ミュゼが顔を上げた先には、アシルとブリスがいる。

 真剣そのものの表情で立ち上がると、ミュゼは深々と頭を下げた。


「無礼を承知で申し上げます。ブリスさん、どうか私とデートをしてはいただけませんか!?」


 しん、と沈黙が落ちた。

 壁掛け時計の針がやけに大きく音を立てる。

 和やかだったはずの空気は、瞬く間に緊迫したものに変貌してしまったのである。

 ブリスは一瞬、心底驚いた顔をした。

 そして、ちらりとアシルの方を見た後、何故か焦ったように言う。


「ミュゼさん! 大変ありがたいお話ですが、その……私ではなくアシル様の方が適任では……」

「えっ、でも……アシル様はお忙しいのでは……」

「別に、忙しいとは言っていない」


 ミュゼはぱちくりと目を瞬かせた。

 アシルは宮廷書記官であり、侯爵家の令息でもある。

 どう考えても忙しくないはずがない。

 だがアシルは何でもないかのように茶を口元に運んでいる。

 ……ミュゼがもう少し落ち着いた状態なら、きっと気づいたことだろう。

 よく見るとカップを持つ指がほんの少しだけ動き、視線もいつもより落ち着かないことに。

 聡明なマリエットは状況を理解したのか、にこにこと楽しげに笑っている。


「ミュゼさん、せっかくの機会だからアシル様にお願いしてみたら?」


 ニネットも目を輝かせて身を乗り出した。


「そうそう、高級レストランとか連れて行ってもらいなよ!」


 高級レストラン……はともかく、アシルとのデートはまたとない機会だ。

 きっと彼とのデートでミュゼが得るものは多いだろう。


「えっと……」


 ミュゼはちらりとアシルを見る。

 アシルもこちらを見ている。

 視線が合った瞬間、なぜか胸の奥が小さく跳ねた。

 今までに感じたことのない、落ち着かない感覚。

 ミュゼはそれを深く考える前に、慌てて言葉を探した。


「その、迷惑なら……」

「迷惑とは言っていない」


 アシルの返事は早く、その声には有無を言わせぬ響きがあった。

 ミュゼは戸惑いながらも、小さく頷く。


「えっと、じゃあ、お願いします……」

「あぁ」


 短いやり取りだった。

 だが、その短いやり取りで確かにデートの約束が決まってしまったのである。

 マリエットは口元を押さえて微笑み、ニネットはにやにやと頬を緩ませ、ブリスは安堵したように息を吐いている。

 ミュゼは何とか気を落ち着かせ、アシルとのデートについて前向きに考えることにした。


(これで、新しい香水作りのインスピレーションが得られるかもしれない)


 これは調香師としての経験を積むための、いわば取材のようなものだ。

 決して、決して……特別な意味があるわけではない。

 そう自身に言い聞かせても、なかなか胸のざわめきは収まってはくれなかった。


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― 新着の感想 ―
アシル様とデート!良いですね〜ぜひアシル様には頑張って頂きたいです! (作者様の主人公は鈍さと自己肯定感の低さがトレードマークではありますが、あまり度を超えた鈍さを発揮しないでくれることを切に願いま…
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