31 百戦錬磨の恋の達人
三枚目の推薦状を手に入れてからというもの、ミュゼの毎日は今まで以上に慌ただしくなっていた。
宮廷調香師を選ぶコンテストへの出場条件が揃った。
あの日、すべてを失ったと思っていた自分が、もう一度宮廷調香師を目指せる場所まで辿り着いたのだ。
(ここからが本番なんだ。絶対に気を抜けない……!)
そう気合を入れるミュゼの前には、今日も色とりどりの香水瓶が並んでいた。
昼下がりの「アトリエ・ミュゼット」には、柔らかな花の香りと、客たちの楽しげな声が満ちていた。
以前は若い娘たちが中心だった店内にも、最近は上品な帽子を被った貴婦人たちの姿が増えてきている。
モンテュリオン公爵夫人――パトリシアの口コミが、思った以上に広がっているらしい。
「まぁ、この香り……派手すぎないのに華やかね」
「娘への贈り物にしたいのだけれど、どれがよろしいかしら?」
「あら、また新商品が出ているじゃない!」
次々と投げかけられる声に、ミュゼは一つ一つ丁寧に応じていく。
相手の年齢、服装、表情……そうした手がかりを拾いながら、その人に似合う香りを探していく。
「ミュゼ、こっちの在庫あと二つだよ!」
「ありがとう、ニネット。午後に補充します」
「午後? 今の勢いだと午前中になくなると思うけど」
「えっ」
ニネットの指摘に、ミュゼは一瞬だけ固まった。慌てて棚を見ると、確かに人気の香り付き石鹸の箱が驚くほど軽くなっている。
「……よ、予想以上ね」
「嬉しい悲鳴ってやつだね!」
ニネットは得意げに胸を張った。子どもとは思えない商売人の顔である。
そんな中、店内の隅でしばらく迷っていた若い少女が、おずおずと近づいてきた。
年の頃は十六、七ほどだろうか。淡い若草色のワンピースを着た、可憐な雰囲気の少女だ。
「あの、ミュゼさん……。少し香水に関してご相談したいことが……」
「はい。もちろんです」
ミュゼは少女に向き直り、彼女が話しやすいように柔らかく微笑んだ。
こういう時、急かしてはいけない。香水選びには、その人だけの事情や願いが込められているものだ。
少女は何度か視線を泳がせた後、意を決したように顔を上げた。
「実は、ずっと好きだった人とデートできることになったんです!」
「それはおめでとうございます……!」
思わず声が弾んだ。
嬉しさと緊張と期待が入り混じった少女の表情は、見ているこちらまで頬が緩んでしまうほど初々しかった。
「それで、少しでも魅力的に見せたくて……デートの際のおすすめの香水ってありますか?」
「デートの際の香水ですね。まず、行き先や時間帯をうかがってもよろしいですか?」
ミュゼは真剣に頷き、いくつか質問を重ねていった。
相手は昔から憧れていた青年で、ようやく二人で出かける機会を得たこと。
行き先は王都の中央庭園と、人気のカフェ。
時間帯は午後から夕方にかけて。服装は淡い青のワンピースを予定しているという。
少女が話すたび、恥ずかしそうに声が小さくなる。
その様子があまりにも愛らしく、ミュゼは応援せずにはいられなかった。
「でしたら、重すぎる香りよりも、清潔感のある香りがよいかもしれません。庭園を歩くなら、周りの花の香りと喧嘩しないものがいいですね」
ミュゼは棚から小さな香水瓶を三つ取り出した。
一つ目は、スズランをベースにした上品で透明感のある香り。
二つ目は、青林檎と若葉を合わせた瑞々しく軽やかな香り。
三つ目は、淡い薔薇に蜂蜜を一滴落としたような、可愛らしさの中に大人っぽさが混じった香りだった。
「わぁ……どれも素敵……!」
少女は試行紙を一枚ずつ受け取り、うっとりと目を細めた。
その反応に、ミュゼもほっとする。
香水を選ぶ時の表情には、その人の本音が出る。今の少女は、本当に楽しそうだった。
けれど、しばらく悩んだ末、少女は困ったように眉を下げた。
「うう……全部よくて選べません……」
「焦らなくて大丈夫ですよ。香りは肌に乗せると少し印象が変わりますから、少し時間を置いて比べてみましょう」
「はい……。あ、でも……」
少女は何か思いついたように、ぱっと顔を上げた。
「ミュゼさん、ミュゼさんだったらこういう場合どの香水を選びますか!?」
「私、ですか……?」
「はい! こんなに素敵な香水を作れるんだから、ミュゼさんはきっと百戦錬磨の恋の達人なんですよね!?」
少女の言葉に、ミュゼはぴしりと固まってしまった。
(百戦錬磨……? 恋の達人……?)
どう考えてもミュゼには縁のない称号である。
いったいどこで何を間違ったらそんな誤解が生じてしまうのか。
……かつて婚約者だと思っていた相手はいた。
だが、彼との関係は年頃の乙女の思い描くような甘酸っぱいものではなかった。
学生時代はひたすら調香に励み、彼の工房で働くようになってからは更に調香に励み……思い返してみても恋愛のれの字もなかった。
だがそんなミュゼの様子には気づかず、少女は夢見るように続ける。
「ふふ……ミュゼさんのような方ならきっと、素敵な殿方とロマンチックなデートを繰り広げているんだろうな……」
(あわわわわ、とんでもない誤解が……)
「それで、ミュゼさんの経験をもとに選ぶとしたら――」
(ひいぃぃぃ……!)
もはや「実は恋愛経験がありません」と正直に打ち明けられる状況ではなかった。
少女の夢と憧れをぶち壊したくない。
その一心で、ミュゼはなんとか平静を装い告げる。
「そうですね、その……ご自身が一番自然に振舞える香りを選ぶのがいいと思います。香水はその人が持っている魅力をそっと引き出すものですから」
……なんとか言い切った。
それなりに、もっともらしいことを言えた気がする。
悲しいことに、そこにミュゼ自身の恋愛経験は一滴も含まれてはいないのだが。
だがそんなミュゼの言葉に、少女は感動したように目を輝かせた。
「素敵……! やっぱりミュゼさんに相談してよかったです!」
「お役に立てたなら何よりです……」
少女が楽しそうに香水を選び、包みを胸に抱えて帰っていく。
その可憐な背中を見送り、ミュゼはその場でそっと息を吐いた。
……何とか切り抜けた。
切り抜けたが、とてつもなく心臓に悪かった。




