30 罪が増えても
数日後……マルセルの工房――「アトリエ・クレルブラン」には重苦しい空気が漂っていた。
「……また売上が落ちている、だと?」
そう口に出すと、傍にいた工房の従業員がびくりと肩を跳ねさせた。
「これはいったいどういうことだ。この前新商品を出したばかりだろう!」
「あの、それが……新商品の評判自体は悪くないのですが……」
従業員はおどおどと口ごもりながらも、意を決したように告げる。
「若い女性の顧客が『アトリエ・ミュゼット』に奪われているようでして――」
「はぁ!?」
マルセルの怒声に、従業員は今度こそ飛び上がってしまった。
「どうしてそうなる!? 下町にあるなんの実績も知名度ない店だぞ!?」
「ひっ……もう一度確認してまいります!」
ついに従業員は怯えたようにばたばたと逃げてしまった。
マルセルは苛立ったように舌打ちし、手元の報告書に視線を落とす。
「どういうことなんだ……」
香水販売においてもっとも重要なのはブランド力だ。
その点、「アトリエ・ミュゼット」はオープンしたばかりの小さな店。
どこを見ても、「アトリエ・クレルブラン」があの店に劣っている点などないというのに……。
(新商品ならこちらも出している。それでも、負けたというのか……!?)
マルセルはミュゼが残した未発表のレシピを少しずつ新商品として発売していた。
評判は悪くない。だからこそ、「アトリエ・ミュゼット」に顧客を取られたのが理解不能だった。
しかも――。
「ミュゼ……あいつも推薦状を三枚集め終わったのか」
顧客には「アトリエ・ミュゼット」に関わらないように言ってある。
他の調香師にも根回しをして、ミュゼが推薦状を集められないように働きかけた。
それなのに、どんな手を使ったのか……ミュゼは宮廷調香師を選ぶコンテストへと参加資格を得てしまったのだ。
(まずい、これは想定外だ)
マルセルがミュゼを追い出したのも、あの時点ではどれだけ頑張ってもコンテストには間に合わないと踏んでいたからだ。
ミュゼは田舎から出てきた小貴族の娘で、社交界に伝手があるわけでもない。
王都内の工房にも彼女を受け入れないように偽の情報を流した。
ミュゼに取れる手段は、すごすごと田舎に帰るだけ……の、はずだったのだが……。
「アシル・リヴェレット……何故あいつが……」
調査を進めれば、誰がミュゼの後ろ盾になっているのかも特定できた。
アシルは貴族学院時代の同級生だが、彼とミュゼの間に親交があったとは聞いていない。
(いったいどんな理由で……いや、今はそれを考えても仕方がない)
マルセルは学生時代からずっとミュゼのことを見てきた。
ただひたすらに、調香師という仕事に憧れ努力を続ける若き才媛。
彼女は純粋で、騙すのは容易かった。
実際に、何年もミュゼはマルセルに騙され続けてくれたのだから。
だが、一番近くで見てきたからこそ……マルセルはミュゼの恐ろしさをよく知っている。
彼女はマルセルの所業を告発するかもしれない。
いや、それはいい。彼女は何の証拠も持っていないのだ。
それよりも……マルセルはミュゼが己のライバルとして立ちふさがることに脅威を感じていた。
野生動物のような優れた嗅覚、舌を巻くような発想力、気が遠くなるほどの試行錯誤を重ねる精神力……。
ミュゼは間違いなく王都でも随一の優秀な調香師だ。
……コンテストで負けるかもしれない。
宮廷調香師になるために生まれてきたマルセルが、片田舎の小貴族の娘なんぞに!
「俺は、何としてでも宮廷調香師にならなければいけないんだよ……!」
だってそれが、マルセルに課せられた使命……運命なのだから。
「ミュゼ、お前が悪いんだ。おとなしく田舎に帰っていればよかったものを……」
ミュゼを利用し始めた時点で、宮廷調香師になるためなら手段を選ばないという覚悟は決めていた。
だったら……今更一つ罪が増えることくらい、何でもない。
マルセルの目に、冷たい光が宿った。




