29 思い出の香り
「公爵夫人。実はミュゼは現在、次期宮廷調香師を選ぶコンテストへの参加を目指しています」
「そういえば、ニコレットの引退に伴って久しぶりにコンテストが開かれるそうね」
「えぇ、参加資格を得るには大貴族の推薦状が三枚必要となります。ミュゼは二枚の推薦状を得ているので、必要なのはあと一枚です」
アシルがそこまで言えば、パトリシアも彼が何を求めているかわかったのだろう。
「あら、そういうことだったの。私でよければお力になるわ」
「え……?」
あまりにもあっさりとした言葉に、ミュゼは一瞬、意味を理解できなかった。
だがパトリシアは本気だった。アシルが用紙を手渡すと、流れるような美しい筆跡で推薦状を書き始めたのだから。
我に返ったミュゼは慌てて身を乗り出した。
「よろしいのですか!? その、ご主人の許可などは……」
「あらぁ、いいのよ。私も夫も既に引退したようなものですもの」
「それに、モンテュリオン公爵夫妻に表立って物申せるような命知らずはそうそういないだろう」
アシルの冷静な補足に、パトリシアはくすくすと笑った。
やがて差し出された推薦状を、ミュゼは両手で受け取る。
そよ風が吹けば飛んでしまいそうな紙一枚。
けれど、その重みはずしりと手のひらに響いた。
……三枚目の推薦状を手に入れた。
これで、いよいよ宮廷調香師を選ぶコンテストへの参加資格を得たことになる。
(私、本当にここまで来たんだ……)
ミュゼは込み上げるものをこらえ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、このご恩に報いられるよう努めます」
「楽しみにしているわ。あなたならきっと、素敵な香りを宮廷にも届けられるでしょうから」
パトリシアは優しくそう告げ、香水瓶を大切そうに抱えて帰っていった。
彼女をしっかりと見送り、ミュゼは再び推薦状を見つめる。
瞬きをしても、そこに記された文字は変わらない。
……いよいよ、宮廷調香師のコンテストに参加を許されたのだ。
ミュゼは顔を上げ、アシルに向き直る。
「アシル様。本当に……ありがとうございます」
「俺は大したことはしていない。君が切り開いた道だ」
「いいえ。あの時拾ってくださらなかったら、私は諦めていたと思います。もう一度調香師として再起する機会をくださったのは、間違いなくアシル様です」
あの日……誰にも信じてもらえず、行くあてもなく彷徨っていたミュゼに、アシルは手を差し伸べてくれた。
住む場所を与え、工房を整え、依頼人を紹介してくれた。
そのすべてがなければ、今のミュゼはここにいない。
けれどアシルは、静かに首を横に振った。
「いくら手を差し伸べたところで、実力が伴わない者ならこうはいかない。誇れ、君がここまでこれたのは君の実力だ」
「……っ」
思いがけない言葉に、ミュゼは息をのむ。
アシルはいつも冷静で、必要以上に人を褒めるような人ではない。
だからこそ、その言葉はまっすぐにミュゼの心へ届いた。
「……ありがとうございます」
小さくそう答えるのが、精一杯だった。
アシルはそんなミュゼを見つめていたが、ふと思い出したように問いかける。
「ところで、公爵夫人に渡した香水は商品化しないのか?」
「しません」
ミュゼはす即座にそう答えた。
あまりに迷いのない返事に、アシルが眉根を寄せた。
「理由を聞いても?」
「流行すれば、多くの工房が類似商品を作ろうと躍起になります。いくらレシピを秘匿しても、ラピセリアの花が原料だということは遠からず知れ渡るでしょう。そうなれば乱獲が起こり、ミロワール湖畔区のような美しい土地が滅茶苦茶になってしまう危険があります。それに……」
ミュゼはもう一度手元の推薦状に視線を落とし、微笑んだ。
「あれは、モンテュリオン公爵夫妻の大切な思い出の香りです。公爵夫妻の思い出を、他人が土足で踏み荒らすような真似はしたくありませんから」
アシルは少しだけ目を見開いた。
そして、ほんのわずかに表情を緩める。
「……君らしい判断だな」
「そうでしょうか?」
「あぁ。……君は、そのままでいてくれ」
そんなアシルの呟きに首をかしげながらも、ミュゼは胸が熱くなるのを感じていた。
ここから先は、いよいよ宮廷調香師への本当の挑戦が始まる。
これまで以上に頑張っていかなければ。
(絶対に、宮廷調香師になってみせる……!)




