28 思い出の夜
再び、パトリシアがアトリエを訪れた。
本日は花屋の定休日であり、いつもは若い女性たちの笑い声で満ちている店内もひっそりとしている
「お待ちしておりました、パトリシア様」
ミュゼの手の中には、小さな香水瓶があった。
上部に蝶を模した飾りが施された瓶だ。
薄く透き通る青のガラスで作られたその蝶は、角度を変えるたびに光を反射して美しくきらめいている。
その中で、香水が静かに揺れていた。
それを目にしたパトリシアは、少女のように目を瞬かせる。
「まぁ、綺麗な香水ね」
「……『思い出の夜』という名の香水です。実際にミロワール湖畔区で採取したラピセリアの花をベースに調香したました。どうぞ、ご確認を」
ミュゼがそっと瓶の栓を抜くと、ふわりと香りが立ち上る。
その途端、パトリシアは大きく目を見開いた。
「っ……! この香りは……!」
かつてパトリシアの人生を彩ったその香りを引き金にして、彼女の脳裏には当時の記憶が鮮明に蘇っていた。
遠い日のミロワール湖畔区。
満月の夜、小舟の上で差し出された、若き日の夫の震える手。
湖面に揺れる月光。求愛の舞を踊る蒼月蝶。
そして……祝福のようにあたりを包んだ、ただ一度きりの香り。
「これ……間違いなくこれだわ! 湖畔の風のように瑞々しく爽やかで、薔薇にも似た上品な甘さを含んでいて、月光のように清廉な……」
パトリシアは声が震わせ、目元に涙を浮かべた。
「あぁ、懐かしいわ……。この香りをずっと探していたの……」
そう呟いた彼女は香水瓶を胸に抱くようにして、しばらく目を閉じていた。
その姿を見て、ミュゼは胸の奥が熱くなった。
(パトリシア様のご期待に添えてよかった……)
宮廷調香師になるためには、まず推薦状を集めることが第一に考えなければならない。
それでも……目の前の人が香りによって過去の思い出を取り戻し、こんなにも喜んでくれている。
その光景を見て、ミュゼはあらためて実感する。
(たとえ推薦状のような確かな実績に繋がらなくても、お客様に喜んでもらうことこそ調香師の本懐なんだ)
その時、入り口の扉が開く音が聞こえた。
「ミュゼ、この前のことだが……客か?」
現れたのはアシルだった。
今日は定休日だから、店に顔を出しても客に騒がれる心配はない……そう考えての来訪だったのだろう。
だが彼はパトリシアと視線が合った瞬間、珍しくはっきりと驚いた顔をした。
「モンテュリオン公爵夫人!?」
「え……? えっ!?」
ミュゼも思わず声を上げてしまった。
――モンテュリオン公爵夫人。
その名は、社交界に疎いミュゼも聞いたことがあった。
モンテュリオン公爵家といえば、王家にも連なる由緒正しき大貴族だ。
ミュゼのような下位貴族からすれば、雲の上の存在も同然の御方なのである。
まさかそんな人物が、ろくな知名度もない「アトリエ・ミュゼット」に通い、身分を明かさず香水を依頼していたというのか!?
驚くアシルとミュゼに、パトリシアはいたずらがバレた少女のように笑う。
「あらあら、あなたはリヴェレット侯爵家のご令息ね」
「公爵夫人、何故ここに……」
「それはもちろん、香水を作ってもらったのよ。いつもお世話になっている調香師は忙しそうでね、ちょうど使用人の子に素敵な香水店が出来たと聞いたものだから」
ミュゼはなんとか表情を取り繕いながらも、内心で冷や汗をかいていた。
(わ、私なにか失礼なことを仕出かしてないよね……!?)
今の今まで、彼女の身分を知らずに普通の客として接していた。
丁寧な接客を心掛けていたはずだが、何か非礼があった可能性は――。
頭の中で必死に過去の対応を振り返るミュゼに、パトリシアは相変わらず穏やかに微笑んだ。
「ふふ、そんなに緊張しないで。大事になったり必要以上にかしこまられるのは苦手だから黙っていたの。私のことは一人の客の『パトリシア』として扱ってもらって構わないわ」
彼女は胸に抱いた香水瓶を撫でると、うっとりしたように呟く。
「本当に素晴らしい調香師さんね。私の曖昧な思い出を、ここまで丁寧にすくい上げてくれるなんて。ふふ、きっと夫も喜んでくれるわ」
「パトリシア様……」
ミュゼの胸が熱くなる。
自分の香りが、一人の人の大切な思い出に届いた。その事実が、何より嬉しかった。
その光景を見ていたアシルは少し考えた後、静かに口を開く。




