27 満月の夜
夜半の湖は、昼間とはまるで別の顔を見せていた。
空には大きな満月が浮かび、湖面はその光を映して淡く輝いている。
湖の中央へ向かって、小舟がゆっくりと進んでいく。
乗っているのは、アシルとミュゼの二人だった。
岸辺では、ニネットとブリスがその様子を見守っている。
「わぁ~、ロマンチック! いい雰囲気になっちゃったりして」
「うーん、あのお二人ですからどうでしょうか……」
ニネットは胸に手を当て瞳を輝かせたが、ブリスは何とも言えない顔で微笑んだ。
一方、湖の中央付近では、アシルがオールを漕ぎながらミュゼに問いかけていた。
「どうだ、何かわかりそうか?」
「今のところ、昼間に確認したもの以外の香りは感じ取れません」
ミュゼは手元のメモに視線を落としながら、真面目にそう答えた。
時刻、風向き、気温……思いつく限りの要素を書き留める。
「もう少しこの辺りを調査するか」
そう言って小舟を進めながら、アシルはふと声の調子を変えた。
「……少し、聞いてもいいか」
「はい、なんなりと」
「君はどうして調香師になろうと思ったんだ?」
アシルの問いに、ミュゼは一瞬だけ目を瞬かせた。
確かに、彼が気にするのももっともだ。
ミュゼは片田舎出身の弱小貴族の娘で、香水などのファッションに強い興味を持っているわけでもない。
それなのに何故……とアシルが気になるのももっともだろう。
「……子どものころ故郷の森で遊んでいたら、ニコレット様に出会ったんです」
「ニコレット……現在の首席調香師のニコレット・フルリエールか?」
「はい、その方です」
ミュゼの声に、自然と熱がこもった。
「ニコレット様は『まだ出会ったことがない香り』を探していると仰って、私の目の前で簡単に調香をしてみせてくれました」
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
故郷の森に差し込む木漏れ日。慣れ親しんだ森の匂い。
見慣れぬ衣装を身に纏う女性が鮮やかな手つきで道具を操ると、ミュゼの良く知る草花から魔法のような香りが生まれる。
幼いミュゼにとって、それは世界が広がる瞬間だった。
「……幼い私は、ニコレット様の調香に一瞬で魅入られました。ニコレット様も私に著書をくださって……その本を読みながら独自に調香技術を磨いて、今の私がここにいます」
「……なるほどな」
アシルは静かに相槌を打った。
香水の名産地でもない片田舎で生まれた師も伝手もない少女が、王都で宮廷調香師を志す……。
今に至るまでに、どれほどの努力と孤独があったのか。
ミュゼは苦労の部分については何も言わなかったが、きっと生半可な道ではなかったことだろう。
「調香師への道を諦めようと思ったことは?」
「ない……とは言えません。でもその度にニコレット様の本を読むと、情熱がぶり返してくるんです」
家族には何度も「諦めた方がいい」と反対された。
王都に出てからは「田舎者には無理だ」と馬鹿にされることもあった。
それでもあの本を開くたび、ミュゼの胸には初めて香りの魔法を見た時の興奮が蘇るのだ。
世界には、まだ知らない香りがたくさんある。
それを探し、再構成し、新たな形を生み出すことができる。
(そのときめきが、いつだって私を前へ進ませてくれた)
アシルはしばらくミュゼを見つめていた。
そして、いつもより少しだけ柔らかな声で言う。
「……君は、調香について語るときは本当に嬉しそうな顔をするんだな」
「え、そうですか!?」
(知らなかった、恥ずかしい……)
ミュゼは思わず頬を押さえて頷く。
今が夜でよかった。仄かに頬が赤らんでいても、きっとアシルにはわからないだろうから。
そんなミュゼに、アシルは静かに告げた。
「……何があっても、その情熱を守り続けてくれ」
その言葉には、ただの励まし以上の何かがこもっていた。
ミュゼは顔を上げる。
(アシル様……?)
その瞬間、湖面の近くにちらちらと淡い青の光が揺らめき始めた。
「あれは……『蒼月蝶』ですね。水や空気が綺麗な場所にしか生息していない、珍しい蝶です」
青く透き通る翅を持つ蝶たちが、月光を浴びながら湖面すれすれを飛んでいた。
まるで湖に映った月と戯れるように、くるり、くるりとダンスを踊っている。
「……見事なものだな」
「えぇ、とても絵になる光景で……」
ミュゼがそう呟いた時だった。
ふわり、と鼻先を未知の香りがかすめた。
「!?」
「どうした?」
「昼間にはなかった香りが……いったいどこから?」
ミュゼは弾かれたように周囲を見回した。
水の匂い、夜の森の匂い、昼間調べた草花のかすかな香り。
その中に、確かに別の香りが混じっている。
視線を巡らせた先……湖の小島に咲く花が、淡く光っていた。
「あれは……ラピセリアの花?」
ラピセリアの花はこの辺りに群生する植物の一つだ。
もちろん昼間に採取はしており、王都でパトリシアに「この香りではない」と確認も取っている。
だが今は、何かが異なっていた。
アシルはすぐに小舟を小島へ寄せた。
ミュゼは高鳴る胸の鼓動を感じながら、小島へ降り立つ。
足元には昼間にも見たはずのラピセリアが咲いていた。
だが今、その花弁は月光を含んだように青白く輝いている。
さらに蒼月蝶が一羽、花へふわりと止まった瞬間、花弁の光がいっそう強まった。
「こんな反応、植物図鑑にも載っていなかったのに……」
ミュゼは震える息を吐いた。
そして、その光る花から漂う香りを嗅いだ瞬間、鼓動が大きく跳ねる。
「この香りは……!」
脳裏にパトリシアの声が蘇る。
――「あの時の香りは……そうね、湖畔の風のように瑞々しく爽やかで、薔薇にも似た上品な甘さを含んでいて、月光のような清廉さが際立っていたわ」
「これだ……」
ミュゼは震える手で、そっとラピセリアの花へ顔を寄せた。
間違いない。
パトリシアが探していたのは、この香りだ。
「パトリシア様が言っていたのはこの香りです! きっと何らかの条件が揃った時にラピセリアの花が反応して、通常とは香りが変化するのだと思います!」
「湖畔、満月、蒼月蝶……そのあたりが関係していそうだな」
「やっとこれで、パトリシア様の依頼に応えられる……!」
胸の奥から、喜びがこみ上げる。
(諦めなくてよかった。ここまで来て、本当によかった……!)
感極まるミュゼを見て、アシルもほんのわずかに表情を緩める。
「一時的な変化だとしたら香りが元に戻ってしまうかもしれない。ブリスたちも呼んで採取作業を進めるぞ」
「はい!」
呼ばれてやって来たニネットは、ラピセリアの群生地にしゃがみ込み黙々と作業を進める二人を見て、少しだけ呆れた顔をした。
満月の湖。青い蝶の舞。淡く光る花……。
これ以上ないほど幻想的でロマンチックな光景の中で、ミュゼとアシルは驚くほど事務的に採取と記録を進めている。
ニネットは小さく肩を落とし、ぽつりと呟いた。
「はぁ……ちょっとはロマンチックな雰囲気になるかと思ったのに……」




