26 湖畔の香り
「君がミロワール湖畔区への侵入を企んでいるとブリスから報告があった」
「うっ……」
翌日、屋根裏部屋のアトリエを訪れたアシルの第一声に、ミュゼは目に見えて小さくなった。
机の上には、ミロワール湖畔区に関する植物図鑑と地図が広げられている。
しかもその横には、採取用の道具まできちんと並べられていた。
言い逃れの余地はない。完全に犯行直前の現場を押さえられた犯人である。
「まったく……あそこは王家の直轄地だぞ。不法侵入がバレたらとんでもないことになる」
「そうですよね……」
ミュゼはしゅんと肩を落とした。
パトリシアの思い出の香りを突き止めたい。その一心で、ほんの少しだけでも現地の様子を見に行けないかと考えていたのだ。
もちろん本当に忍び込むつもりだったわけではない。少し離れたところから眺めるだけでも、何か手がかりが得られるのではないかと思っただけである。
だが、王家の直轄地という現実は重い。
(やっぱり、無理よね……)
項垂れるミュゼを見て、アシルは小さく息を吐いた。
「そんなに行きたいのなら俺に言えばいいだろう。リヴェレット侯爵家の名前を使えば問題なく入ることができる」
「え、でも……」
思いがけない申し出に、ミュゼはぱちくりと瞬きをした。
けれどすぐに、胸の奥に申し訳なさがこみ上げてくる。
「今回の依頼は推薦状には関係ありません。それでも依頼を受けたいと思ったのは私の勝手です。それでアシル様の手を煩わせるのは――」
「それがどうした。君は調香師としてその女性の願いを叶えたいと思ったのだろう。ならば、何の問題もない」
淡々とした声だった。
だが、その言葉は不思議なほど真っ直ぐミュゼの胸に届いた。
「俺は君が宮廷調香師となるために全面的な支援をしている。直接推薦状に関わる仕事がどうかは些細な問題でしかない」
ミュゼは息をのんだ。
推薦状に繋がらない依頼だからといって、軽んじなくていい。
調香師として誰かの願いを叶えようとすること自体に意味があるのだと、彼は言ってくれているようだった。
「わかったなら行くぞ」
「行くって、もしかして……」
「ミロワール湖畔区だ。もちろん正当な手段でな」
◇◇◇
ミロワール湖畔区は、王都の喧騒から少し離れた場所にあった。
馬車が緩やかな林道を進むにつれて、爽やかな森の香りが強くなっていく。
やがて視界が開けた瞬間、ミュゼは思わず息をのんだ。
そこには、鏡のように澄んだ大きな湖が広がっていた。
淡い陽光を受けた湖面はきらきらと輝き、周囲には深い森が広がり色とりどりの花々が咲き誇っている。
湖畔のあちこちには、高位貴族の別荘らしき上品な建物が点在していた。
まるで、絵本の中に出てきそうな美しい光景だ。
「わぁ、すごぉい!」
一緒についてきたニネットが、馬車を降りるなり歓声を上げる。
「本当に綺麗な場所ですね……」
ミュゼも思わず呟いた。
湖から吹いてくる風は涼しく、わずかに水の匂いと青草の香りを含んでいた。
王都の花屋や工房で嗅ぐ香りとは少し違う、自然そのものの澄んだ匂いだ。
「パトリシアさんは湖で旦那さんとボートに乗っている時にプロポーズされたんだっけ? ロマンチックじゃない?」
ニネットがうっとりと頬に手を当て、ミュゼに話を振る。
だがその時、ミュゼはすでに地面へしゃがみ込んでいた。
「これは図鑑にあったものと同じ。こっちは似てるけど交雑種かしら? 香りに変化が生じているかどうか検証しないと……」
早くもミュゼの視線は、湖畔の草花に釘付けだった。
小さな白い花。青みを帯びた葉。湿った土の近くに群生する淡紫色の花。目に入るものすべてが、ミュゼにとっては貴重な手がかりである。
そのロマンチックの欠片もない行動に、ニネットはぷくっと頬を膨らませた。
「ミュゼ、情緒なーい!」
その様子を見て、ブリスが苦笑する。
「そんなところがミュゼさんらしいですね」
「あぁ、そうだな」
アシルもまた、納得したように頷いた。
その後、一行は湖畔を歩き回り、気になる植物を手分けして採取することになった。
採取した植物は、リヴェレット侯爵家が所有する別荘へ持ち込まれた。
湖を見下ろす小さなテラスの一角に、急ごしらえの作業台を用意して。
ミュゼはそこへ採取した花や葉を並べ、次々と香りを確認していった。
小瓶に移した抽出液を揺らし、鼻先へ近づける。
「うーん……」
「どうだ? 老婦人の依頼の手掛かりは見つかりそうか?」
傍らで様子を見守っていたアシルが問いかける。
ミュゼは眉根を寄せたまま、慎重に小瓶の栓を閉めた。
「この辺り一帯の気になるものはすべて採取したんですけど……目新しいものは見つかりませんでした」
「そうか……」
アシルの声は静かだった。
手間をかけさせられたことを厭う響きなど少しもない。
けれど、それがかえってミュゼの胸を締めつけた。
(せっかくアシル様に忙しい中ミロワール湖畔区まで連れてきてもらったのに、何の成果もないなんて……)
机の上には、採取した植物と小瓶がずらりと並んでいる。
どれも良い香りだった。
湖畔の風のような爽やかな香り。ロマンチックな恋のような甘い花の香り……。
だが、どれもパトリシアが語っていた「思い出の香り」とは違っていた。
(パトリシア様の思い出の香りは……この数十年で消えてしまったということなの? 似た香りを再現するにしても、元がわからなければどうしようもないわ……)
焦りが胸の奥でじわじわと広がっていく。
その時、黙って様子を見ていたブリスが、控えめに口を開いた。
「諦めるのはまだ早いのでは。当時のパトリシア様と同じ状況を再現してみたら、何か発見があるかもしれませんよ」
「同じ条件……」
ミュゼははっと顔を上げた。
脳裏に、パトリシアの穏やかな声が蘇る。
――「あの日は見事な満月でね。湖に月光が反射してとても綺麗だったわ」
――「あの人に誘われて、一緒に小舟で湖に出たの。しばらくすると、あの人が緊張したような顔でこちらを見て――」
――「プロポーズと同時にね、今まで嗅いだことのない素敵な香りがあたりに漂っていることに気づいたわ」
(あの日のパトリシア様と同じ行動を取れば、何かがわかるかも……!)




