25 調香師として
その夜、店じまいを終えた「アトリエ・ミュゼット」の屋根裏部屋には、いつもよりも濃い花の香りが満ちていた。
「『夫がプロポーズしてくれた時に咲いていた花の香りを再現してほしい』……何てロマンチックなのかしら! 素敵ね……」
依頼の詳細を聞いたマリエットが、うっとりと頬に手を当てて感想を零す。
「えぇ……本当に、素敵なご依頼です」
ミュゼは相槌を返しながらも、視線は机の上に広げた植物図鑑に釘付けだった。
真剣な顔で花の挿絵と説明文を追い、時折、手元の香料瓶を手に取っては栓を開ける。
パトリシアと名乗った老婦人の依頼は、若い頃、夫がプロポーズしてくれた時に、辺りに咲いていた花の香りを再現してほしいというものだった。
長年連れ添った夫への贈り物。
二人の記憶に残る思い出の香り。
調香師としては、なんとも胸躍る依頼である。
「一応メジャーな花の香料は試したんですけど、どれも違うということで……」
ミュゼは小さく息を吐いた。
王都で手に入る代表的な花の香料は、今日のうちにほとんどパトリシアに試してもらった。
だが彼女は、そのたびに申し訳なさそうに首を横に振ったのだ。
……「これじゃないわ」、と。
もっと淡く、もっと澄んでいて、けれど胸の奥に残るような香りだったと彼女は言っていた。
(パトリシア様の思い出の花は、いったい何だったんだろう……)
ミュゼは図鑑のページをめくる指を止め、考え込んだ。
「プロポーズの場所に実際に行ってみたら、その花がわかるのではなくって?」
マリエットの言葉に、ミュゼは顔を上げる。
「えぇ、私もそう思ったんですけど、それが……ミロワール湖畔区だったそうでして」
「あらまぁ……」
マリエットの表情が、少しだけ困ったものに変わった。
ミロワール湖畔区といえば王都から少し離れた場所にある、美しい湖を中心とした避暑地である。
鏡のように澄んだ湖面と、湖畔を彩る花々で知られ、王族や高位貴族が夏の別荘を構える場所として名高い場所だ。
だが、そこは王家の直轄領でもあった。
立ち入るには許可証が必要で、ただの調香師であるミュゼが気軽に足を運べる場所ではない。
「幸いにも植物図鑑にはミロワール湖畔区の植生も載っていますから。次にパトリシア様がお越しくださる時には該当の花もわかるはずです」
ミュゼは自身を励ますようにそう言い、図鑑のページを指先で押さえた。
マリエットはそんなミュゼを見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「無理はしすぎないでね」
「はい。でも、この依頼は絶対に成し遂げたいんです」
パトリシアはわざわざ知名度の低いミュゼの店へ足を運んでくれたのだ。
彼女がその花の香りを語る時、彼女の顔には少女のような微笑みが浮かんでいた。
どこか遠い日を思い起こす瞳は、美しくきらめいていた。
それを見てしまった以上、諦めることなどできるはずがないのだ。
◇◇◇
翌週、再びパトリシアが店を訪れた。
その日までの間、ミュゼは可能な限りの手を尽くしていた。
ミロワール湖畔区に自生している花を図鑑で調べ、香料を片っ端から取り寄せたのだ。
机の上には、新たに仕入れた小瓶がずらりと並んでいる。
「お待ちしておりました、パトリシア様」
「まあ、こんなにたくさん……。ミュゼさん、無理をさせてしまったのではない?」
「いいえ。私も勉強になりますから」
ミュゼは笑顔でそう答えた。
だが、その胸の内は期待と不安が渦巻いていた。
……今度こそは見つかるはずだ。
ミロワール湖畔区に自生している花の香料は、ほとんど揃えたといっていい。
あとは、パトリシアの記憶にある香りと結びつくものを探し当てるだけ。
ミュゼは一つ一つ香料瓶の栓を開け、香りを試してもらった。
だが――。
「……ごめんなさいね。とても素敵な香りだけれど、これではないわ」
パトリシアは、そのたびに静かに首を横に振った。
最後の小瓶の栓を閉めた時、ミュゼは愕然としてしまった。
(どうして……? ミロワール湖畔区に自生している花の香料はすべて試したはずなのに……)
調査が足りなかったのか。図鑑が古かったのか。
それとも、パトリシアの記憶の中で香りが変わってしまったのか……。
打ちひしがれるミュゼに、パトリシアは申し訳なさそうに声をかけた。
「難しいお願いをしてしまってごめんなさいね。依頼を変えさせてもらうわ。先ほど素敵な香りを見つけたから、それで香水を作ってほしいの」
その声は優しく、ミュゼを責める響きなど少しもなかった。
……だからこそ、ミュゼは心苦しくなってしまう。
それに……パトリシアの笑顔の裏に、ほんのわずかな寂しさが隠れているのを見つけてしまった。
(彼女は、諦めようとしているんだ)
ミュゼが傷つかないように気遣いながら、大切な思い出を胸の奥にしまい込もうとしている。
そのことに気づいた瞬間、ミュゼは反射的に首を横に振っていた。
「いいえ、当初の依頼通りプロポーズの際に咲いていた花の香りを必ず再現してみせます!」
「でも……」
「お願いです、もう一度チャンスをください……!」
ミュゼは深く頭を下げた。
「私、まだできることを全部やり切れていません。ですから……どうか、もう少しだけお時間をください!」
パトリシアはしばらく黙っていた。
やがて彼女はふっと困ったように……けれども嬉しそうに目元を和ませる。
「ミュゼさん、本当に無理だけはしないでね」
「大丈夫です。……必ず、見つけます」
帰っていくパトリシアの後ろ姿を見送りながら、ミュゼはぎゅっと拳を握った。
店の扉が閉まり、ベルの音が小さく揺れる。
その余韻の中で、ミュゼは改めて決意した。
(必ず、パトリシア様の思い出の香りを再現してみせる)
たとえ推薦状が関係ない仕事でも、中途半端に終わらせはしない。
調香師として、香りに託された想いを諦めたくなかった。




