24 情けない姿は見せたくない
推薦状に関しては、アシルに任せておけば問題ない。
そう理解していても、心の奥に巣食う焦燥感までは消えてくれない。
気を落ち着けるように、ミュゼはいつも以上に熱心に調香へ打ち込んでいた。
屋根裏部屋のアトリエには、今日も様々な香りが漂っていた。
花の甘さ、柑橘類の爽やかさ、ハーブのみずみずしさ……。
小さなガラス器具の中で香料が混ざり合い、新しい香りが生まれていく。
「ていうか、アシル様に推薦状書いてもらえばいいんじゃないの? リヴェレット侯爵家なら当然瑞花名鑑にも載ってるでしょ?」
作業を手伝っていたニネットが、何気なくそう呟いた。
確かに、制度上は問題ない。
だが――。
「それでは、意味がないんです」
ミュゼは自分自身に言い聞かせるように呟き、静かに首を横に振った。
アシルが今支援してくれているのは、ミュゼに宮廷調香師になれる可能性を見出したからだ。
脳裏に、彼から告げられた冷静な言葉が蘇る。
――『俺が君の支援をしているのも、君に可能性を見出したからだ。君に再起の可能性がないとみなせば、そこで支援を打ち切らせてもらう』
彼は、ミュゼの実力を見極めている最中なのだ。
ここで情けなく縋れば、彼はきっと容赦なく手を引くだろう。
それに何より――。
(アシル様に、情けない姿は見せたくない)
彼は、絶望の底に沈んでいたミュゼへ手を差し伸べてくれた。
だからこそ、その期待に応えたい。
宮廷調香師に足る実力があるのだと認められたい。
その想いが、ミュゼの胸を熱く満たしていた。
「……まだ時間はあります。『アトリエ・ミュゼット』の評判がもっと上がれば、きっと活路が見いだせるはずです」
ミュゼは作業机に置いてあった本を手に取る。
年季の入った装丁の本に、ニネットが興味深そうに顔を寄せた。
「『香りで綴る世界の断片』――これ、調香に関する本?」
「えぇ、おそらくクローネル王国で唯一の調香入門本です」
調香師のような職人の技術は、通常それぞれの工房で代々受け継がれていく。
秘伝の技術は、職人にとって飯の種だ。
だからこそ、多くの工房は門外不出を掲げる。
だがその不文律を破り、自らの知識と技術を書物へ記した調香師がいた。
「ニコレット・フルリエール……栄誉ある初代宮廷調香師にして、現在の首席調香師を務める女性です」
「あれ、その名前聞いたことある。確かその人が引退するから、新しく宮廷調香師を選ぶコンテストが開催されるんだよね?」
「えぇ。ニコレット様が宮廷調香師の座についてから、もう四十年近く経ちますから」
約四十年前……並み居る精鋭調香師たちの中から、彼女は初代宮廷調香師に選ばれた。
今でこそ宮廷調香師の席は四人に増えているが、当初は彼女ただ一人だったという。
それから長い年月を経た今なお、彼女はこの国最高峰の調香師として君臨し続けている。
――ニコレット・フルリエール。
彼女は、ミュゼにとって憧れそのものだった。
天才的な発想と技術で、次々と新たな香水を生み出す香りの魔女。
彼女がいなければ、ミュゼが今こうしてここにいることもなかった。
――「あら、可愛いお嬢さん。あなたも調香に興味があるの?」
――「こういう自然がいっぱいの場所はいいわね。天気や時刻によって森や風の匂いが変わる。あなたも気づいているでしょう?」
――「世界には私たちがまだ知らないような香りがたくさんあると思わない? それを集め、再構成するのが私の生き甲斐なの」
――「ふふ、そんなに気に入ったのならこの本をあげるわ。あなたも宮廷調香師を目指してみたらどうかしら、可愛いお嬢さん」
そう言って手渡された本が、あの時くれた言葉が、ミュゼを新たな世界へ導いてくれたのだ。
「――『世界にはまだ我々の知らない香りが無限大に存在していることだろう。我ら調香師の探求の旅は、きっと尽きることなく続いていくのだ』」
「何それ、その本の一節?」
「そうなんです。首席宮廷調香師のような方でさえ、まだ知らない香りがたくさんあるというのですから。私ももっともっと多くの香水を作れるはずだと思いまして」
ミュゼはぱたん、と本を閉じる。
もやもやした気分は、いつの間にか霧が晴れたようにすっきりしていた。
「あっ、いい感じのアイディアが湧いてきました……! 今晩は夜通し調香を――」
「もー、夜更かししたらまたアシル様に報告するよ?」
「うっ、それは勘弁してください……」
そんな風にニネットと言葉を交わしていると、不意に階下からマリエットの呼ぶ声がした。
「ミュゼさん、あなたにお客様よ」
「はい、今行きます!」
慌てて一階の店舗へと降りたミュゼは、そこで待っていた人物の姿を見てぱちくりと目を瞬かせた。
「まぁ、あなたが『アトリエ・ミュゼット』の調香師さん?」
そう言って微笑んだのは、身なりの良い老婦人だった。
若い女性客の多い「アトリエ・ミュゼット」では珍しい客だ。
ミュゼは背筋を正し、ぺこりと頭を下げる。
「お越しいただき感謝いたします、マダム。『アトリエ・ミュゼット』調香師のミュゼと申します」
椅子を勧めながら、ミュゼはちらりと彼女を観察する。
彼女の身に纏う衣服は、庶民のそれとは一線を画した高級品であることが見て取れた。
おそらくは貴族か裕福な商人の家族だろう。
「初めまして、ミュゼさん。私はパトリシアよ。実はね、少し調香師さんに頼みごとがあって……」
パトリシアと名乗ったその老婦人は、つらつらと話し始めた。
曰く、彼女は長年連れ添った夫にプレゼントするためにとある香水を調香してほしいとのことだった。
「いつもよくしてくれる調香師さんに頼もうと思ったのだけれど、もうすぐ大きなコンテストがあるとかで忙しそうにしていて……」
「……そうですね」
おそらくその調香師は既に推薦状を集め終え、最終調整に入っているのだろう。
出遅れている自覚のあるミュゼはずん、と心が重くなるような心地がした。
(でも、この方はせっかく来てくださったんだもの。頑張らなきゃ)
たとえ推薦状に繋がらないとしても、香水を求める者を無下にするという選択肢はなかった。
それが、ミュゼの調香師としての矜持だ。
「わかりました。では、どんな香水なのかお聞かせ願えますか?」
手元にノートを用意して、ミュゼはパトリシアにヒアリングを開始した。
どんな仕事でも全力投球。それがミュゼのモットーだ。




