23 焦りは禁物
「アトリエ・ミュゼット」の客足は少しずつ、そして確実に伸びつつあった。
昼下がりの店内には様々な香りと、若い女性たちの楽しげな笑い声が満ちている。
色とりどりの香水瓶はまるで宝石のように輝き、店内に美しい光を落としている。
その光景を眺めながら、ミュゼはふぅ、と小さく息をついた。
(もう少し上の世代にも広めていきたいけど、なかなか難しいな……)
王都オーレリスには数えきれないほどの香水工房が存在する。
普段から香水を愛用している年配者の多くは、既にお気に入りの香水ブランドを持っている者が多い。
調香師たちも自身の顧客を囲い込むため、さりげなく他の工房の商品へ手を出さないよう働きかけるのが常だった。
つまり、「アトリエ・ミュゼット」のような新興香水工房が幅広い世代に食い込むには、並々ならぬ努力と戦略が必要になってくるのだ。
香りの質だけでは足りない。
知名度、信頼、話題性……積み重ねるべきものは山ほどある。
「あーら、難しい顔してどうしたの?」
不意に背後からぎゅむ、と抱きつかれ、ミュゼは驚きに息をのんだ。
柔らかな感触が背中に押し当てられ、華やかな香りがふわりと鼻先をくすぐる。
薔薇を基調にした、艶やかで上品な香り。
……この香りを、ミュゼは知っている。
自身が調香した香水の香りを、間違えるはずがなかった。
「アニエス様、いらっしゃっていたのですね」
振り返ると、ミュゼに最初の推薦状を書いてくれた女性――アニエスが、いたずらっぽく微笑んでいた。
蜂蜜を溶かしたような黄金色の髪を揺らしながら、彼女は楽しそうにミュゼの頬をつつく。
「そんなに難しい顔ばっかりしてると、アシルみたいになっちゃうわよ~」
「えっ」
むにゅむにゅと頬を揉まれ、ミュゼは思わず苦笑した。
「そんな顔になってましたか……よくないですね」
ここはミュゼの香水工房だ。
客に夢やときめきを届ける場所で、店主が眉間に皺を寄せていては台無しである。
ミュゼは慌てて表情を緩めた。
「ミュゼさん、お店は私が見ているから、そろそろ休憩したら?」
そう言って近づいてきたマリエットが、ミュゼの耳元でこそりと囁く。
「先ほどアシル様が裏口からいらっしゃったの。今は上で待っていらっしゃるわ」
「……! はい、ではお言葉に甘えて……」
「ふふ、私も行っちゃおーっと」
軽やかに笑うアニエスを伴い、ミュゼは店の奥にある階段へ向かう。
階段を上りながら、ミュゼは思案した。
アシルが営業中の「アトリエ・ミュゼット」に顔を出すことはほとんどない。
その理由は、ミュゼにもよくわかっていた。
(騒がれたくないんだろうな……)
アシルと接するようになってから、ミュゼは嫌というほど理解した。
彼は、とにかくモテるのだ。
名門侯爵家の令息であり、王宮勤めの若きエリート。
すらりとした長身に、冷たい銀の刃を思わせる怜悧な美貌。
そのうえ、婚約者や恋人の影もないときた。
だからこそ、「私こそがアシル様の特別な存在に!」と夢見る女性たちが後を絶たないのだろう。
もしそんな彼が、若い女性客で溢れる「アトリエ・ミュゼット」に堂々と現れたりしたら……店内が阿鼻叫喚になるのは目に見えている。
「モテすぎるっていうのも大変なんですね……」
「アシルのことなら、もっと使い倒してやってもいいのよ。店に置いて客寄せグリフォンにでもすればいいわ」
そんな他愛のない会話を交わしながら屋根裏部屋のアトリエにたどり着くと、待っていたアシルが、ミュゼの背後にいるアニエスを見て露骨に眉根を寄せた。
「何故お前がここにいる。帰れ」
「もう、相変わらず失礼な男ね。あなたがミュゼに無茶なことを言わないか見張りに来たのよ」
ぴしゃりと言い返すアニエスに、アシルは呆れたように息を吐く。
二人の会話には棘があるが、不思議と険悪さは感じない。
長い付き合いの者同士だからこそ許される軽口なのだろう。
「お茶をお持ちしました~」
そこへ、人数分のティーカップを載せたトレイを持ったニネットが現れた。
湯気とともに、ベルガモットの爽やかな香りがふわりと漂う。
ニネットは当然のように自分の分のカップも置き、そのまま席に着いた。
ミュゼがちらりとアシルの方を窺うと、彼もこちらを見ていて目が合う。
「推薦状についての話だが」
彼の渋い表情を見た瞬間、ミュゼは良い報告ではないと悟った。
「やはり、次の宮廷調香師の座を狙う者たちによる囲い込みが激化している。それだけ、君も警戒されるような存在になったということだ」
「そうですね。喜ぶべきか、嘆くべきなのか……」
苦笑しながら答えるものの、胸の奥は複雑だった。
つい少し前まで、木っ端調香師のミュゼをライバル視する者など誰もいなかった。
有り体に言えば、眼中になかったのだろう。
だが、「アトリエ・ミュゼット」が急速に評判を伸ばし、ミュゼが宮廷調香師を目指しているという噂が広まった途端、状況は一変した。
他の調香師たちは自身の顧客へ「アトリエ・ミュゼットとは関わらないでほしい」と釘を刺し始めているらしい。
おかげでアシルの伝手をもってしても、最後の推薦状を書いてくれる人物はなかなか見つからない。
「でも推薦状って紙一枚でしょ? パパーっと書いてくれればいいのに」
ニネットの率直な疑問に、アニエスが肩をすくめた。
「そんなに単純な話じゃないのよ。宮廷調香師は宮廷の貴族や王族とも密接に関わる立場なの。それも、かなりプライベートな部分にね」
アニエスの言葉に、ミュゼは自然と背筋を正した。
「その気になれば、権力者にあらぬことを吹き込み、自由に操ることだってできるかもしれないわ」
「今の宮廷は絶妙なパワーバランスの上に成り立っている。特に宮廷でのし上がろうと目論む者たちは、自身の手駒を宮廷調香師の座に押し込もうと必死になっているからな」
宮廷勤めの二人の言葉は重かった。
いつも元気いっぱいのニネットですら、今は神妙な顔をして話を聞いている。
「推薦状一枚とはいえ、その均衡を崩してしまう可能性がある。慎重な者ほど、簡単には書けないものだ」
「……私が慎重じゃない、みたいな言い方はやめてくださる?」
「その通りだろう」
「えっと、アシル様。そうやってすぐ喧嘩腰になるのはよくないですよ……!」
アニエスの笑顔の奥に怒りの気配を察知し、ミュゼは慌てて仲裁に入った。
「そんな難しい状況の中で推薦状を書いてくださったこと、アニエス様には感謝してもしきれません」
「アニエスもレナルドも、宮廷の派閥に所属せずふらふらしている遊び人だからな。気にすることはない」
「アシル様はもうちょっと気にしてください……」
アシルは自身のことについては語らなかった。
だがこんな傍若無人な態度で宮廷を渡り歩ける時点で、彼もまた規格外の存在なのだろう。
「じゃあ同じように派閥のしがらみがなくて、ミュゼに推薦状を書いてくれそうな人を探すのが大変ってこと?」
ニネットの理解は早かった。
花屋の看板娘として、日頃から様々な客を相手にしているからだろうか。
「あぁ、その通りだ」
アシルは頷くと、真っ直ぐミュゼを見た。
「俺は引き続き推薦状を書いてくれそうな者を探す。君はこれまで通り、調香の腕を磨いておいてくれ」
「はい、わかりました」
ミュゼは力強く頷いた。
宮廷調香師を選ぶコンテストの締め切りは、少しずつ近づいている。
焦りがないといえば嘘になる。
だが、それでも……。
(ここで私が焦っても状況が好転するわけじゃない。それに……アシル様ならきっと突破口を見つけられるはず)
大丈夫。きっと、大丈夫。
ミュゼはそう自分に言い聞かせた。




