15 アシルのお灸
「寝ろ」
アトリエにやって来るやいなや、そう口にしたアシルにミュゼはぱちくりと目を瞬かせた。
「寝ろ……とは?」
「寝具に体を横たえ休息を取れということだ」
いや、さすがにそれはミュゼでもわかる。
わかるのだが……。
「今は寝ている時間はありません。もっと新商品を――」
「それで君が倒れ、再起不能になったらどうするつもりだ」
アシルの言葉に、ミュゼはぴたりと動きを止めた。
「再起不能に……?」
「あぁ。俺は職業柄、無理をしすぎて倒れた者を大勢見てきた」
アシルの言葉には確かな重みがあった。
ミュゼは反論するのをやめ、彼の言葉に耳を傾ける。
「一度体や精神を壊してしまったら、元通りになるのは難しい。皆、夢や目標を諦め宮廷から去っていった」
夢や目標を諦め――その言葉に、ミュゼの心臓が嫌な音を立てる。
「君は実績や居場所を失った。だが調香師としての腕は残っている。そうだろう」
「はい……」
「俺が君の支援をしているのも、君に可能性を見出したからだ。君に再起の可能性がないとみなせば、そこで支援を打ち切らせてもらう」
アシルの宣言に、ミュゼは息をのむ。
考えれば当然のことだ。アシルはミュゼが宮廷調香師になれる可能性があるとみなし、援助をしてくれているのだから。
その可能性が絶たれれば、今のミュゼに残されたものすらすべて失うことになるのだろう。
「宮廷調香師を決めるコンテストは数か月後だ。不眠不休での作業が効果を発揮するのは、あくまで短期間のみ。これからの長期戦を考えれば、きちんと休憩を取った方が断然効率がいい」
「そうですね……」
ミュゼはしょぼん、と打ちひしがれた。
自身の短慮さを思い知らされ、恥ずかしくなったのだ。
「マリエットさんに謝らないと。何度も何度も休憩を取るように勧めてくれたのに」
「あぁ、そうだろうな。だがまずは……食事だ」
アシルがぱちん、と指を鳴らすと、アトリエの扉が開きブリスが顔をのぞかせる。
「お待たせいたしました。ミュゼさん専用、特製滋養メニューです」
そう言って入って来たブリスの持つトレーには、美味しそうな料理が乗せられていた。
ブイヨンスープにミルク粥、半熟卵など……いかにも健康に良さそうな料理ばかりだ。
「食べたら寝ろ。謝罪や今後のことを考えるのはそれからだ。いいな」
そう言って、アシルはミュゼに食べるように促す。
どうやらミュゼが食べるのを見届けるまで席を立つつもりはないようだ。
「はい、お言葉に甘えて……」
美味しそうな料理を見ていると、不思議と忘れていた食欲が蘇ってくる。
そういえば、最後にまともな食事をとったのはいつだっただろう。
最近は新商品の開発ばかりに気を取られて、作業の傍らに食べられるような軽食しか口にしていなかった。
もぐもぐと食事を始めたミュゼの傍ら、アシルはブリスに声をかけ何かを用意させていた。
やがてテーブルに運ばれてきたのは、少し風変わりなティーポットとカップだった。
「それは……東域諸国の品ですか」
「あぁ、緑茶は知っているか?」
「はい。実際に飲んだことはありませんが……」
東域諸国はここクローネル王国から山を越え海を越え……気が遠くなるほど東にある国々の総称だ。
クローネル王国や周辺の国々とは大きく異なる文化の数々が、好事家に好まれていると聞いたことはある。
アシルの手にある白磁のティーポットには、異国の山水が美しいタッチで青く描かれている。
彼が慣れた手つきで茶を淹れると、淡い翡翠色の湯がほのかな香りを立ちのぼらせた。
「わぁっ……!」
若葉のように爽やかで……それでいて確かな深みや渋み、甘さを感じさせる異国の香りだった。
途端に目を輝かせるミュゼに、アシルは苦笑しながら告げる。
「君は香りのこととなると元気になるな。飲んでみるといい」
「本当ですか!?」
「あぁ、緑茶にはリラックス作用がある。……もっとも、逆に君を興奮させてしまったようだが」
アシルの許可を得たので、ミュゼはいそいそとティーカップを手に取る。
そっと口に含むと、紅茶とはまた違う味わいが舌をくすぐる。
「これが、緑茶……」
感心していると、ブリスが教えてくれた。
「えぇ、アシル様の好物なんです」
(さすがはアシル様……)
貴族の間では紅茶やコーヒーが好まれており、緑茶を好む者は珍しい。
だが、不思議と彼のイメージにはよく合う味だった。
「確かに頭が冴える気がしますね。どんどんアイディアが湧いてくるような……」
「その前に寝ろ」
「待ってください、ちょっとメモだけ――」
「寝ろ」
ほとんど強制的にベッドに押し込まれるようにして、ミュゼは眠らされてしまった。
「はぁ……これは定期的に査察に入る必要がありそうだな」
眠りに落ちる直前、そんなアシルの声が聞こえた気がした。




