パーティーの罠
お互いの本音が重なりかけた瞬間を引き裂く、神崎からの着信。
二人は一度「社長と秘書」の仮面を被り直し、神崎が仕掛けた華やかな罠――夜のパーティーへと足を踏み入れます。
華やかなシャンデリアの光が、高級ホテルの大広間を照らし出していた。
流れるクラシックの旋律と、着飾った若き実業家たちの談笑。その中央を、柊怜央と白妙紬は歩いていた。
今日の紬は、いつものタイトスカートではなく、深いネイビーのイブニングドレスを身に纏っている。怜央が自ら選んだそのドレスは、彼女の白い肌と、凛とした美しさをこれ以上ないほど引き立てていた。
「緊張しているか、白妙」
怜央が腕を差し出し、低く囁く。
「まさか。社長の婚約者として、完璧にエスコートされる所存です」
「ふん、口の減らない女だ」
怜央は不敵に微笑むと、紬の腰をぐっと抱き寄せた。
あの夜、給湯室で溢れかけたつむぎの本音と、怜央の切ない表情。お互いにその記憶を胸に秘めたまま、今は「完璧な恋人たち」を演じている。だが、触れ合う肌から伝わる熱量は、以前の偽装のそれとは明らかに違っていた。
「やあ、お待ちしていましたよ、柊社長。そして美しい婚約者殿」
グラスを片手に、神崎景介が冷ややかな笑みを浮かべて近づいてきた。その背後には、何人かの有力な投資家たちが控えている。神崎の目は、獲物を追い詰めた猟犬のようにギラギラと輝いていた。
「神崎、招待感謝する。今日のパーティーも盛況のようだな」
「ええ。ですが、今日のメインイベントはこれからですよ。……実は、我が社とヘリオス社、そしてここにいる投資家の方々との共同プロジェクトの調印式を、この場でゲリラ的に行おうと思いましてね」
神崎の言葉に、紬の背筋に冷たいものが走った。そんな話、事前に一切聞いていない。
「おっと、契約書なら用意してあります」
神崎が合図をすると、部下が恭しく一冊の書面を持ってきた。
「さあ柊社長、この場でサインを。……もちろん、あなたが『ご自身の直筆』でサインしてくださるんですよね? 最近、あなたの社内では、重要書類のすべてが白妙秘書の『代筆』で処理されていると聞き及びまして。まさか、社長の手が震えて文字が書けない、なんていう不名誉な噂が本当ではない証明を見せていただきたい」
周囲の投資家たちの視線が一斉に怜央に集まる。
神崎の狙いはこれだったのだ。大衆の面前で、怜央に「直筆のサイン」を強制し、彼の致命的な悪筆――ひいては、深刻な神経疾患や精神衰弱の噂を確定させ、ヘリオスの株価を暴落させる罠。
怜央の顔から、すっと血の気が引いていくのを紬は隣で感じ取った。
どれだけ天才的な頭脳を持っていても、極限のプレッシャーの中では、怜央の手はのたうち回るような悪筆しか生み出せない。ここでペンを握れば、すべてが終わる。
「どうしました、社長。ペンをお取りにならないのですか?」
神崎が勝ち誇ったように微笑む。
怜央が覚悟を決めたように、青白い顔でペンに手を伸ばそうとした――その瞬間。
「――お待ちください、神崎取締役」
遮ったのは、紬だった。
彼女は怜央の手を一歩前に出て制すると、神崎に向かって、これ以上ないほど気高く、そして美しく微笑んでみせた。
「大変申し訳ございません。我が社の柊社長は、この調印式をお受けすることはできません」
「何だと? 白妙さん、これは投資家たちを愚弄する気か?」
神崎の目が鋭く光る。しかし、紬は怯まなかった。彼女の「オタク的完璧主義」の脳細胞が、神崎の持ってきた契約書の文面を、一瞬の速読でスキャンし終えていた。
「愚弄しているのはどちらでしょうか。神崎取締役、こちらの契約書の第12条第4項、および第18条の特約条項。我が社のセキュリティ技術を無償で開示する旨の記載がなされています。……これは、昨月のフォーラムで改定された、国際暗号通信協定(ICCA)の規約に明白に違反しております」
「な……っ!?」
神崎の顔が驚愕に歪んだ。そんなニッチで最新の国際規約、並の法務部でも即座には気づけない代物だ。だが、毎夜海外の暗号通信フォーラムを読み漁っている技術オタクの紬にとっては、基礎中の基礎だった。
「このような違法性のある書類に、我が社の社長が直筆でサインするなど、ヘリオスの名誉に関わります。……神崎取締役、我が社の社長の『手』が動くのは、国家レベルの正当なビジネスの時だけでございます」
完璧な論破だった。周囲の投資家たちが
「何だって?」
「神崎、書類に不備があるのか!?」
とざわつき始める。
「お前……ただの秘書が、なぜそんな規約を……ッ」
悔しげに歯噛みする神崎を冷たく見下ろし、紬は怜央の手をそっと取った。
「失礼いたします。社長、戻りましょう。これ以上、この場にいるのは時間の無駄です」
「……あ、ああ。そうだな」
怜央は紬に手を引かれるまま、唖然とする会場を後にした。
ホテルの非常階段の踊り場。
パパラッチや神崎の目を逃れ、静まり返る暗がりに飛び込んだ瞬間、紬は張り詰めていた糸が切れ、壁に寄りかかって深く息を吐き出した。
「はぁ……心臓が止まるかと思いました……」
ドレスの胸元を押さえる紬。その隣で、怜央はずっと黙っていた。
そして突然、怜央は紬の体を強く抱きしめた。
「しゃ、ちょう……?」
「……怜央、と呼べ」
怜央の声は、酷く震えていた。
抱きしめる腕の強さは、彼の恐怖の大きさを物語っていた。完璧な天才が、今、紬の首元に顔を埋めて、子供のように縋り付いている。
「白妙……紬。お前は、どこまで俺を惨めにすれば気が済むんだ。……またお前に救われた。俺の醜い弱さを、お前のその圧倒的な有能さで、また隠してもらった」
「社長、私はただ、悔しかったからで……」
「違う! 聞け!」
怜央は紬の肩を掴み、強引に視線を合わせさせた。
薄暗い踊り場、ドレスアップした二人の影が重なる。怜央の目から、一筋の涙が静かに零れ落ちた。完璧主義の怪物が、初めて流した、脆く、切ない涙だった。
「神崎の罠が怖かったんじゃない。お前に、あの場で『文字も書けない無能な男』だと失望されるのが、死ぬほど怖かったんだ。……俺はもう、お前なしのビジネスなんて、お前なしの夜なんて、1秒だって耐えられない。契約なんて、偽装なんてどうでもいい。……俺には、お前が必要なんだ。紬……っ」
「……怜央、さん」
その涙を見た瞬間、紬の心の中にあった「壁」は完全に溶けて消えた。
この男は、傲慢な怪物などではない。人一倍傷つきやすく、孤独で、そして誰よりも不器用に、自分だけを求めてくれている一人の愛おしい男性だ。
紬はそっと手を伸ばし、怜央の濡れた頬を包み込んだ。
「……知っていますよ。あなたが、どれだけ必死に戦っているか。……だから言ったでしょう? 人形なんかじゃないって。……私も、あなたの特別になりたいんです」
静寂の踊り場、二人はどちらからともなく引き寄せられ、仮面の裏に隠していた本物の想いを重ねるように、深く、静かに唇を重ねた。
嫌い合っていたはずの二人の「偽装の関係」が、本物の「切ない恋」へと完全に反転した瞬間だった。




