縮まらない距離
佐野航の一件以来、社長室の空気は一変した。
「白妙。今週金曜、神崎主催の若手実業家交流パーティーの招待状が届いている。……お前も、俺の『婚約者』として同行してもらう」
「承知いたしました、社長。衣装の手配と、神崎取締役の最近の動向レポートをまとめておきます」
紬の声は、いつもの鉄壁の秘書そのものだった。
だが、書類を受け取る指先が、ほんの少しだけ触れ合う。それだけで、あの夜に怜央が漏らした「気が狂いそうなほど、不愉快だ」という掠れた声が脳裏に蘇り、紬の鼓動が跳ね上がってしまう。
怜央もまた、どこか不自然だった。
いつもなら「遅い」「脳がアナログだ」と容赦なく浴びせてくる毒舌が減り、紬がデスクに近づくたび、その視線が彼女の動きをじっと追うようになった。その目は、獲物を警戒する肉食獣のようでもあり、触れるのを躊躇う臆病な子供のようでもある。
(あの言葉は、ただの独占欲。私の『機能』が他人に渡るのが嫌なだけ……)
紬は必死に自分に言い聞かせていた。彼は完璧主義の怪物だ。恋だの愛だのという甘い感情で動くはずがない。そう思わなければ、自分の心が持たない気がしていた。
その日の夜、二人の「代筆作業」は、いつも以上の沈黙の中で行われていた。
怜央が口にする言葉を、紬が正確に文字に変えていく。しかし、極限の集中状態が二時間を超えた頃、怜央の思考のテンポが目に見えて落ちてきた。
彼の悪筆が、さらに乱暴に机の上のメモにのたうち回る。
「……社長。少し、休みましょう」
紬がキーボードから手を離し、立ち上がった。
向かったのは、オフィスの一角にある給湯室。
今回、紬が用意したのは、例の250円の高級バニラアイスではなく、温かいココアだった。ただし、ただのココアではない。彼女が自宅から持参した、ほんの少しのシナモンと、精神を安定させる効果のある柑橘類のピール(皮)を隠し味に加えた、「オタク特製ココア」だ。
「これを。脳の疲労には、温かい糖分が一番です」
「……また、体に悪そうな民間療法を」
怜央は悪態をつきながらも、素直にマグカップを受け取った。
温かい湯気とともに、甘く、少しスパイシーな香りが広がる。それを一口啜った怜央の眉間の皺が、ゆっくりと解けていく。
「……おいしいな。驚くほど、心が落ち着く」
「私の唯一の取り柄ですから。社長の過敏な神経に合わせて、調合を少し変えてあります」
紬が少し誇らしげに微笑むと、怜央はマグカップを見つめたまま、ぽつりと言った。
「お前は、いつもそうだ。俺の最も見られたくない醜い部分を、その有能さで完璧に補う。……俺が悪筆なのも、不眠症なのも、神崎に知られれば格好の餌食だ。だが、お前の前でだけは、俺は完璧でいなくていい」
怜央の声は、いつになく低く、脆かった。
「お前を側に縛り付けているのは、ビジネスのためだけじゃない。……俺は、白妙紬という人間に、これ以上ないほど依存しているんだ」
「社長……」
「だが、お前にとって俺は、ただの傲慢な雇用主に過ぎないんだろう? あの佐野という男のように、お前の『素』を笑わせることもできない。お前は俺の前では、いつも綺麗な、冷たい人形のままだ」
怜央がマグカップを置き、紬の手をそっと握った。
いつもなら強引に引き寄せるはずのその手が、今は微かに震えている。天才実業家として世界と戦う男が、紬一人の前で、そのプライドをすべて捨てて、傷ついた顔をしていた。
その切ない瞳に見つめられ、紬の「鉄壁の仮面」が、内側から音を立てて崩壊していく。
「……人形なんかじゃ、ありません」
「え?」
「私も、嫌なんです。社長が他の令嬢と噂になるのも、神崎取締役に嫌味を言われているのを見るのも、全部、猛烈に腹が立ちます。……私があなたの側にいるのは、契約だからじゃありません。私が、あなたの――」
『あなたの側にいたいからだ』。
その決定的な言葉を口にしようとした、その瞬間。
ジリリリリ、と。
夜の社長室に、紬のスマートフォンの着信音が、残酷なほどけたたましく鳴り響いた。
画面に表示された名前は――『神崎景介』。
引き裂かれるように離れた二人の間に、冷たい現実の風が吹き抜ける。
神崎からの夜の連絡。それは、二人の「偽装」を根本から揺るがす、最悪の罠の幕開けだった。




