狂いだす独占欲
翌日から、二人の関係は「社内限定の偽装」から、さらに一歩、怜央の個人的な領域へと踏み込むことになった。
「――ということで、今回の新規コアシステム開発において、外部から非常に優秀なフリーのシステムアーキテクトを招聘した。本日より我が社のプロジェクトに加わってもらう」
週明けのミーティングルーム。怜央の紹介によって入ってきた人物を見て、紬は目を見開いた。
「初めまして。本日からお世話になります、佐野航です。よろしくお願い致します」
人当たりの良い爽やかな笑顔、少し長めの髪を後ろで結んだラフなスタイル。
それは、紬が学生時代から技術系の趣味(暗号通信フォーラムのオフ会)で付き合いのある、数少ない気心の知れた友人だった。
「――っ、航!?」
「あ、紬じゃん! え、お前、ヘリオスの社長秘書やってたの!?」
公の場らしからぬ二人の親しげなやり取りに、ミーティングルームの空気が一瞬で凍りついた。
特に、デスクの上座に座る怜央の、すべてを凍らせるような冷徹な視線が、佐野へと突き刺さる。
「……白妙秘書。仕事中に、随分と馴れ馴れしいな」
「あ、申し訳ございません、社長。彼はその、学生時代からの……友人でして」
紬は慌てて「鉄壁の仮面」を被り直したが、佐野は特に怯む風でもなく笑った。
「すみません、柊社長。紬とは昔から、夜通しコアな暗号プログラムの話で盛り上がるようなオタク仲間でして。こいつ、普段はこんなにお堅い格好してますけど、中身はかなり面白い奴なんですよ」
「航、余計なことを言わないで……!」
紬は青ざめた。怜央に「裏の顔」をバラされるかもしれないという恐怖以上に、なぜか、彼に自分の過去を佐野から語られることに、猛烈な居心地の悪さを感じたからだ。
怜央は何も言わなかった。ただ、組んだ指の隙間から見えるその瞳が、いつも以上に昏く、濁った漆黒に染まっているのを、紬は見逃さなかった。
その日の深夜、事件は起きた。
プロジェクトの初日ということもあり、残業していた佐野が、社長室の前で紬を待ち伏せしていたのだ。
「紬、この後ちょっと飲みに行かない? 久しぶりに新作の調香オイルの話とか、お前のマニアックな話が聞きたいしさ」
「あー、ごめん航。私、ちょっとまだ仕事が残ってて……」
「仕事って、もう22時だぞ? あの社長、お前を酷使しすぎだろ。……なあ、紬。お前、あんな奴のそばにいて本当に楽しいか? いつも無理して『完璧な秘書』の仮面被ってさ」
佐野が心配そうに、紬の肩に手を伸ばした、その時。
「――その汚い手を、俺の婚約者から離してもらおうか」
低く、地を這うような声が響いた。
社長室のドアが開き、書類を手にした怜央が現れた。その顔には、普段のスマートな微笑など微塵もない。剥き出しの敵意と、苛立ち。
「柊社長。……婚約者って、まさか」
佐野が目を見開く。
「社内ではまだ公式発表していないがな。白妙は俺の婚約者だ。公私ともに、彼女の時間はすべて俺のものだ。……部外者が、俺の女の『中身』を分かったような口で語るな」
怜央はそう言い放つと、佐野の手を拒絶するように、紬の腕を強引に掴んで自分の背後へと引きずり込んだ。
その力強さに、紬は息を呑む。
「……柊社長。いくら婚約者だからって、彼女を道具みたいに縛り付けるのは違うんじゃないですか? 俺の知ってる紬は、もっと自由に自分の好きなことを楽しんでる時のほうが、ずっと綺麗だ」
佐野もまた、一歩も引かずに怜央を睨みつけた。
「彼女の何を知っているか知らないが、今の彼女を一番理解し、動かしているのは俺だ。……仕事は終わりだ。帰れ、佐野」
怜央は冷たく言い捨てると、紬の腕を掴んだまま、彼女を社長室へと連れ込み、ドアを乱暴に閉めて鍵をかけた。
室内に、重苦しい沈黙が流れる。
掴まれたままの腕が熱い。
「……社長、痛いです」
紬が声を潜めて抗議すると、怜央はハッと我に返ったように手を離した。だが、その目はまだ怒りで燃えている。
「白妙。あの男とはどういう関係だ」
「ですから、ただの学生時代からの友人です。私のオタク趣味を数少ない、理解してくれる人で……」
「理解、だと?」
怜央は紬をデスクの壁際へと激しく追い詰めた。両手を壁につかれ、紬は完全に逃げ場を失う。
「お前の『中身』を知っているのが、あの男だけだと思うな。お前の異常なまでの完璧主義も、その有能なタイピングも、俺を眠らせるその香りも……すべて、俺だけのものだ。契約期間中は、他の男にその仮面の裏を見せるな」
「社長、それは横暴です……っ。これはただの偽装婚約でしょう!? ビジネスの契約のはずです!」
紬も負けじと、怜央の胸を押し返しながら叫んだ。
いつもなら、ここで怜央は鼻で笑って皮肉を言うはずだった。だが、今日の彼は違った。
壁に押し付けられた紬を見下ろす怜央の瞳は、激しい怒りの裏で、まるで大切なものを奪われそうになった子供のように、酷く歪んで、切なく揺れていた。
「……ああ、契約だ。ビジネスだ。……だが、俺は、お前が他の男と楽しそうに笑っているのが、猛烈に気に入らないんだ」
「え……?」
「お前が俺以外の男に、その素の顔を見せるのが……気が狂いそうなほど、不愉快だ。……これをただの契約と言い張るなら、俺はお前を、本気で俺の呪縛から逃げられないようにするぞ、白妙」
いつもなら「命令」のはずの声が、今夜は、どこか懇願するような、切ない執着を孕んで響いていた。
二人の距離が、完全に「偽装」の境界線を踏み越えていく。
嫌い合っていたはずの男の、あまりにも必死な独占欲の熱に、紬の心臓は狂ったような鼓動を刻み始めていた。




