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香りに狂う  作者: 輝久実


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2/6

演技と本音の境界線

「お疲れ様です、柊社長、白妙さん。……おや、今日はいつもより少し、距離が近いビジネスパートナーのようですね?」


週明けのオフィス。すれ違いざまに声をかけてきたのは、マーケティング部取締役の神崎景介だった。相変わらず、隙のない笑顔と仕立てのいいスーツが鼻につく男だ。その視線は、怜央と紬のわずかな距離感を執拗に観察している。


「ああ、神崎か。社内ではまだ公表していなかったんだが」


怜央は事も無げに言うと、隣にいた紬の腰を、ごく自然な動作でぐっと引き寄せた。


引き締まった怜央の体温が、薄いオフィスカジュアル越しにダイレクトに伝わってくる。紬は心臓が跳ね上がるのを必死に抑え、完璧な営業用スマイルを顔に貼り付けた。


「実は、彼女と婚約することになってね。公私ともに、俺の最高のパートナーなんだ」


「……ほう。それは驚きました。あの『鉄壁の白妙さん』を射止めるとは、さすが社長だ」


神崎の目が、一瞬だけ鋭く細められる。


「ですが社長、最近少し顔色が悪いようだ。激務のせいですか? それとも……何か、文字も書けないほどペンを持つ手が震えるような、深刻なご病気でも?」


あからさまな揺さぶりだった。神崎は、怜央の健康状態(不眠による神経衰弱)を疑っている。


怜央の腰に回された手に、微かに力がこもるのを紬は感じ取った。


「まさか。彼女が毎晩、俺の健康管理を完璧にこなしてくれているのでね。むしろ以前よりすこぶる調子がいい」


「そう、でございます。社長の健康は、私が責任を持って『管理』しておりますから」


紬は怜央の言葉に合わせ、神崎に向かって優雅に微笑んでみせた。


(「管理」っていうか、ただの睡眠薬代わりの人間アロマキャンドルだけどな!)と心の中で叫びながら。


神崎はしばらく二人を値踏みするように見つめていたが、


「それはごちそうさまです」


と慇懃無礼に頭を下げて去っていった。


その背中が見えなくなった瞬間、怜央はパッと紬の腰から手を離した。その冷徹な切り替えの早さに、紬は少しだけ癪に障るものを覚える。


「合格点だ、白妙。神崎の泳がせ方も悪くない」


「……お褒めに預かり光栄です、社長。ですが、衆人環視の中で急に抱き寄せるのは心臓に悪いです。事前に合図をください」


「恋人同士が触れ合うのに、いちいち合図を出す馬鹿がいるか? 慣れろ」


怜央はふん、と鼻で笑うと、足早に社長室へと戻っていく。


(あの傲慢な態度、本当に一発殴らせてほしい……!)


紬は心の中で握り拳を作り、彼の後を追った。


しかし、偽装はただの「演技」だけでは済まなかった。


怜央のもう一つの秘密――「悪筆」を補うための、過酷な代筆作業が二人を待っていた。


「白妙、次の新規プロジェクトの企画書だ。俺の言う通りに打て。『次世代コアシステムの構築における、セキュリティリスクの分散化と――』」


深夜、静まり返った社長室。


怜央がソファに深く腰掛け、早口で脳内のアイデアを紡ぎ出していく。彼の思考スピードは恐ろしく速い。常人ならついていくことすら不可能なその速度に、紬はキーボードを叩く正確な打鍵音で応えていく。


タタタタタン、と小気味いい音が室内に響く。


「……『以上の三点を主軸とし、今期クォーターでの実装を目指す』。以上です、社長」


「早いな」


怜央は差し出された画面を確認し、ふっと目を見張った。


「俺の思考の癖を完全に理解している。専門用語のスペルミスも一つもない。……お前、ただの秘書にしては、システムの知識が深すぎるな?」


「……ただの、ちょっとした趣味(オタクの深掘り)でございます」


紬は視線を逸らした。実は彼女、海外の暗号通信技術のフォーラムを翻訳して読むのが日課の、ガチガチの技術オタクでもあった。


「ふん、隠さなくていい。その執拗なまでの完璧主義、俺のゴーストライターとしては最高だ」


そう言う怜央の顔には、いつもの冷酷な仮面ではなく、仕事に対する純粋な熱量と、紬への確かな「敬意」が混ざった、妙に大人びた表情があった。


いつもは嫌味しか言わない男が、自分の仕事を完璧に認めてくれている。


その事実に、紬の胸がトクン、と不意に小さく跳ねた。


「……社長。これ、飲んで(食べて)ください」


「なんだ、これは」


紬がバッグから取り出して怜央のデスクに置いたのは、オフィス一階のコンビニで買った、プラスチック容器に入った250円の少し高価なプレミアムバニラアイスだった。


「糖分補給です。もう午前三時ですよ。社長、夕食もまともに喉を通っていなかったでしょう」


「俺は、体に悪そうな市販の既製品は食べない」


「いいから黙って食べてください。頭を使いすぎて脳が縮みますよ」


「……お前、社長に向かってなんという口を」


怜央は眉をひそめたが、紬にスプーンを握らされると、渋々といった様子でアイスを少量口に運んだ。


冷たくて、柔らかく甘いバニラ。


極限まで疲弊した怜央の脳に、その庶民的な糖分がじわじわと染み渡っていく。


「……」


「どうですか?」


「……悪くない。だが、俺がこれを気に入ったことは他言無用だ。神崎に知られたらどんな弱みになるか分からない」


「ふふ、アイスを食べるのが弱みになる社長なんて、世界中であなただけですよ」


紬が思わずクスリと素で笑う。


それを見た怜央は、一瞬だけ呆気に取られたように動きを止め――それから、バツが悪そうに視線をアイスへと戻した。彼の耳尖が、微かに赤くなっているのを、紬は気づかないふりをした。


「白妙」


「はい」


「……眠気が、きた」


スプーンを持ったまま、怜央のまぶたが重そうに落ちていく。


デスクの横。紬の体から微かに漂う、あのベルガモットと白檀の香りが、彼の張り詰めた自律神経をゆっくりと解きほぐしていく。


「あ、ちょっと、社長、ソファに移動して――」


言うが早いか、怜央はまたしても、引き寄せられるように紬の肩へと頭を預けてきた。


規則正しい、静かな寝息。


無防備極まりないその横顔は、昼間の傲慢な実業家とはまるで別人のようで、どこか酷く孤独な子供のようにも見えた。


「……本当に、安眠剤使いの荒い人ですね」


紬はため息をつきながらも、自分の肩に預けられたその心地よい重みを、拒絶することができなかった。


二人の距離が、契約という名の鎖で、少しずつ、確実に狂わされていく。

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