鉄壁の秘書と、漆黒の社長
「白妙秘書。午後からの柊社長のスケジュールだが、急遽、神崎取締役との会食がねじ込まれた。手配を頼めるか?」
「承知いたしました。ただちにセッティングいたします」
白妙紬は、寸分の狂いもないお辞儀をして微笑んだ。
タイトスカートの皺一つ、後れ毛一本すら許さない。それが、IT系新興企業『ヘリオス・イノベーション』の社長室トップセクレタリーである彼女の「仮面」だった。
周囲からは『鉄壁の聖女』『ロボット秘書』などと噂されているが、中身はただの、仕事と自分のニッチな趣味(真夜中の怪しい調香)を愛するだけの、冴えないオタクである。
そんな彼女が仕えるのが、若き天才実業家、柊怜央。
メディアで見せる彼は、端正な容姿とスマートな物腰で「時代の寵児」と持て囃されている。だが、秘書室の人間だけは知っていた。その本性が、極めて冷酷で、完璧主義で、部下をマシーンとしか思っていない「漆黒の仕事狂」であることを。
「白妙、次の資料。三分遅い。君の脳はアナログ回線か?」
「申し訳ございません、社長。以後、光の速さで対応いたします」
執務室。怜央はデスクから顔を上げもせず、冷徹な声を浴びせてくる。
紬は完璧なビジネススマイルで受け流しながら、心の中で(この腹黒冷血男、一回コンビニの激辛ペヤングでも食って胃を壊せばいいのに)と毒を吐いていた。
それが、二人の日常だった。あの夜が訪れるまでは。
それは、競合他社である神崎景介から、あからさまな妨害工作を受けた日の深夜のことだった。
時刻は午前二時。
社内の明かりが落とされ、静まり返る社長室に、紬は忘れた書類を取りに戻った。
(早く帰って、自作のラベンダーオイルを試したい……)
そう思いながらドアを開けた瞬間。
紬は、目撃してしまった。
「……くそ、が……ッ」
デスクの椅子の下、床に膝をつき、激しく息を荒くしている柊怜央の姿を。
ネクタイは引きちぎられ、常に完璧な髪は乱れ、その肌は幽鬼のように青白い。彼の周囲には、乱雑に散らばった睡眠薬の空き殻。
そして、デスクの上には、彼がサインしようとしたであろう重要書類。
そこには――およそ「天才」が書いたとは思えない、ミミズがのたうち回ったような、判読不能の、異常なほど凶悪な悪筆の文字が書き殴られていた。
「……しゃ、ちょう……?」
紬が声をかけると、怜央は弾かれたように顔を上げた。
その目は、過労と不眠で血走っており、まるで獲物を噛み殺そうとする肉食獣のようだった。
「誰だ……ッ! 見るな、見るなと言っている……!」
怜央はよろめきながら立ち上がり、紬の肩を掴んでデスクに押し付けた。驚くほどの力だった。彼の体から、極限状態の男の、焦燥しきった熱が伝わってくる。
「白妙……お前、か……」
「社長、落ち着いてください。これは一体――」
「見たな」
怜央の目が、スッと冷たい、いつもの「漆黒」に戻る。いや、それ以上に昏い。
「俺の文字を見たな。……神崎のネズミどもが、俺の『弱み』を探っているこの時期に。よりによって、一番有能で、一番お堅い秘書に見られるとはな」
「私は、誰にも――」
「信用できるか。人間は裏切る」
怜央は紬を睨みつけたまま、ふらりと体を揺らした。限界だったのだろう。しかし、彼の鼻腔が、紬の首元から微かに漂う「何か」を捉えた瞬間、怜央の目が見開かれた。
紬が今日、試作して手首につけていた、ベルガモットと白檀を配合した独自のフレグランス。
「……なんだ、この香りは」
「え?」
「うるさい脳が、急に……静かに……」
ドサリ、と。
信じられないことに、あれほど傲慢だった男が、紬の肩に顔を埋めるようにして、そのまま床へ崩れ落ちた。
規則正しい、深い寝息。
睡眠薬をどれだけ飲んでも眠れなかったはずの天才が、紬の香りに包まれた瞬間、気絶するように深い眠りに落ちたのだ。
「ちょっと、社長!? 起きてください、社長!」
深夜の社長室。
のたうち回る悪筆の書類と、腕の中で泥のように眠る腹黒社長を抱え、紬の平穏な秘書ライフは、音を立てて崩壊しようとしていた。
翌朝。
社長室のソファで目を覚ました怜央は、驚くほどすっきりした顔で、目の前で死んだ魚のような目をしている紬を見下ろした。
「おはよう、白妙。人生で最高に熟睡できた。……さて、ビジネスの話をしよう」
「……はい?」
怜央はデスクに足を組み、優雅に、そして極めて邪悪に微笑んだ。
「お前に、拒否権のない提案がある。現在、神崎が俺の不眠と健康状態を疑って、揺さぶりをかけてきているのは知っているな? そこでだ。お前は今日から、俺の『婚約者』になれ」
「はあああ!?」
紬はついに、仮面をかなぐり捨てて素の声を上げた。
「周囲の目を欺くための偽装婚約だ。公の場では、仲睦まじい恋人を演じてもらう。そして裏では――俺の思考を完璧に書類に起こす『代筆役』になれ。お前のタイピング速度と処理能力なら、俺の悪筆をカバーできる」
「そんな公私混同、お断りします!」
「断るなら、君のその、裏の『不審な調香オタク』の趣味と、給与口座の履歴を社内に開示するが?」
「っ、この、腹黒……!」
「お褒めに預かり光栄だ。あともう一つ」
怜央は立ち上がり、紬のすぐ目の前まで歩み寄ると、その長い指先で彼女の髪をそっと掬い上げた。
その目は、獲物を絶対に逃さないという執着に満ちている。
「夜は、俺のそばにいろ。お前のその『香り』がなければ、俺は眠れない体にされたらしい。……責任は取ってもらうぞ、白妙?」
こうして、完璧な仮面を被った秘書・紬と、二つの致命的な秘密を抱えた腹黒実業家・怜央の、最悪で最高にスリリングな「偽装婚約生活」が幕を開けた。




