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香りに狂う  作者: 輝久実


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1/6

鉄壁の秘書と、漆黒の社長

「白妙秘書。午後からの柊社長のスケジュールだが、急遽、神崎取締役との会食がねじ込まれた。手配を頼めるか?」


「承知いたしました。ただちにセッティングいたします」


白妙紬しろたえ つむぎは、寸分の狂いもないお辞儀をして微笑んだ。


タイトスカートの皺一つ、後れ毛一本すら許さない。それが、IT系新興企業『ヘリオス・イノベーション』の社長室トップセクレタリーである彼女の「仮面」だった。


周囲からは『鉄壁の聖女』『ロボット秘書』などと噂されているが、中身はただの、仕事と自分のニッチな趣味(真夜中の怪しい調香)を愛するだけの、冴えないオタクである。


そんな彼女が仕えるのが、若き天才実業家、柊怜央ひいらぎ れお


メディアで見せる彼は、端正な容姿とスマートな物腰で「時代の寵児」と持て囃されている。だが、秘書室の人間だけは知っていた。その本性が、極めて冷酷で、完璧主義で、部下をマシーンとしか思っていない「漆黒の仕事狂ワークホリック」であることを。


「白妙、次の資料。三分遅い。君の脳はアナログ回線か?」


「申し訳ございません、社長。以後、光の速さで対応いたします」


執務室。怜央はデスクから顔を上げもせず、冷徹な声を浴びせてくる。


紬は完璧なビジネススマイルで受け流しながら、心の中で(この腹黒冷血男、一回コンビニの激辛ペヤングでも食って胃を壊せばいいのに)と毒を吐いていた。

それが、二人の日常だった。あの夜が訪れるまでは。

それは、競合他社である神崎景介かんざき けいすけから、あからさまな妨害工作を受けた日の深夜のことだった。


時刻は午前二時。


社内の明かりが落とされ、静まり返る社長室に、紬は忘れた書類を取りに戻った。


(早く帰って、自作のラベンダーオイルを試したい……)


そう思いながらドアを開けた瞬間。


紬は、目撃してしまった。


「……くそ、が……ッ」


デスクの椅子の下、床に膝をつき、激しく息を荒くしている柊怜央の姿を。


ネクタイは引きちぎられ、常に完璧な髪は乱れ、その肌は幽鬼のように青白い。彼の周囲には、乱雑に散らばった睡眠薬の空き殻。


そして、デスクの上には、彼がサインしようとしたであろう重要書類。


そこには――およそ「天才」が書いたとは思えない、ミミズがのたうち回ったような、判読不能の、異常なほど凶悪な悪筆の文字が書き殴られていた。


「……しゃ、ちょう……?」


紬が声をかけると、怜央は弾かれたように顔を上げた。


その目は、過労と不眠で血走っており、まるで獲物を噛み殺そうとする肉食獣のようだった。


「誰だ……ッ! 見るな、見るなと言っている……!」


怜央はよろめきながら立ち上がり、紬の肩を掴んでデスクに押し付けた。驚くほどの力だった。彼の体から、極限状態の男の、焦燥しきった熱が伝わってくる。


「白妙……お前、か……」


「社長、落ち着いてください。これは一体――」


「見たな」


怜央の目が、スッと冷たい、いつもの「漆黒」に戻る。いや、それ以上に昏い。


「俺の文字これを見たな。……神崎のネズミどもが、俺の『弱み』を探っているこの時期に。よりによって、一番有能で、一番お堅い秘書に見られるとはな」


「私は、誰にも――」


「信用できるか。人間は裏切る」


怜央は紬を睨みつけたまま、ふらりと体を揺らした。限界だったのだろう。しかし、彼の鼻腔が、紬の首元から微かに漂う「何か」を捉えた瞬間、怜央の目が見開かれた。


紬が今日、試作して手首につけていた、ベルガモットと白檀を配合した独自のフレグランス。


「……なんだ、この香りは」


「え?」


「うるさい脳が、急に……静かに……」


ドサリ、と。


信じられないことに、あれほど傲慢だった男が、紬の肩に顔を埋めるようにして、そのまま床へ崩れ落ちた。


規則正しい、深い寝息。


睡眠薬をどれだけ飲んでも眠れなかったはずの天才が、紬の香りに包まれた瞬間、気絶するように深い眠りに落ちたのだ。


「ちょっと、社長!? 起きてください、社長!」


深夜の社長室。


のたうち回る悪筆の書類と、腕の中で泥のように眠る腹黒社長を抱え、紬の平穏な秘書ライフは、音を立てて崩壊しようとしていた。


翌朝。


社長室のソファで目を覚ました怜央は、驚くほどすっきりした顔で、目の前で死んだ魚のような目をしている紬を見下ろした。


「おはよう、白妙。人生で最高に熟睡できた。……さて、ビジネスの話をしよう」


「……はい?」


怜央はデスクに足を組み、優雅に、そして極めて邪悪に微笑んだ。


「お前に、拒否権のない提案オーダーがある。現在、神崎が俺の不眠と健康状態を疑って、揺さぶりをかけてきているのは知っているな? そこでだ。お前は今日から、俺の『婚約者』になれ」


「はあああ!?」


紬はついに、仮面をかなぐり捨てて素の声を上げた。


「周囲の目を欺くための偽装婚約だ。公の場では、仲睦まじい恋人を演じてもらう。そして裏では――俺の思考を完璧に書類に起こす『代筆役』になれ。お前のタイピング速度と処理能力なら、俺の悪筆をカバーできる」


「そんな公私混同、お断りします!」


「断るなら、君のその、裏の『不審な調香オタク』の趣味と、給与口座の履歴を社内に開示するが?」


「っ、この、腹黒……!」


「お褒めに預かり光栄だ。あともう一つ」


怜央は立ち上がり、紬のすぐ目の前まで歩み寄ると、その長い指先で彼女の髪をそっと掬い上げた。


その目は、獲物を絶対に逃さないという執着に満ちている。


「夜は、俺のそばにいろ。お前のその『香り』がなければ、俺は眠れない体にされたらしい。……責任は取ってもらうぞ、白妙?」


こうして、完璧な仮面を被った秘書・紬と、二つの致命的な秘密を抱えた腹黒実業家・怜央の、最悪で最高にスリリングな「偽装婚約生活」が幕を開けた。

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