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五十嵐さんちの瑛介さん

 ピンク色に濡れそぼったマリリンの舌がゆらゆら揺れてキラリ光ると舌先に涎が滴る。ボコボコと古いガス管交換工場跡の継ぎ目の多い乾いたアスファルトに丸い水玉模様がポトンと黒く広がる。道路工事は一年中あちこちで見かけるけど、夏は暑くて熱中症に気をつけなくちゃだし、冬は雪が降るから寒くて体が縮こまるだろうし大変だと思う‥‥

マリリンの涎がポトンポトンと道路に跡をつけるとヘンデルとグレーテルのパンくずを思い出す、長く続いた飢饉で困った親が口減らしのために子どもを捨てる話、目印のパンは鳥が食べたんだっけな‥‥マリリンの印す跡は乾いてしまう。

犬が舌を出すのは体温調節の生理現象なのだ。終わりを見据える夏が抵抗しているかのように今日も気温が高く秋の始まりなのにやけに暑い、幾分陽射しに秋の気配が潜んでいるのか真夏とは袂を分かつも暑いものは暑くて気圧の変化に不調を来たし夏に疲れて秋にバテる。犬は人間より暑さに弱く、時間も速く過ぎるように感じているらしい、人間より短命なのは時間の流れが速いからだろう‥‥同じ気温でも地面に近い分暑いだろう、ましてや長毛犬種のゴールデンレトリバーは毛足が長い上にダブルコートで被毛に熱がこもりやすい。

太陽が真上にある真っ昼間にマリリンを連れ回すことなど危険すぎて回避以外の何ものでもない。呂室は何を考えているのだろう。散歩は通常比較的涼しい時間帯の早朝と遅い夜の2回大概呂室が連れて行く。偶に莉莎子と珠生が行くこともある。呂室と莉莎子が出張で不在の際は祖父母が散歩に連れて行く、朝の少し早い時間と診療終了後のそこまで遅くない夕方に珠生を連れだって行く、珠生ひとりでの散歩はまだ許されていないから。祖父母は祖父母なりにマリリンを尊重しマリリンの権利を侵害しない。マリリンとは同じ家で生活を共にしているのだから、マリリンと散歩の時間を共有するのは当然だと祖父は頑なに姿勢を変えない。初対面では怖いのか撫でることさえ躊躇していた祖父なのに、初めての動物との暮らしに馴れた祖父はマリリンを家族と承認した。マリリンが書物を読む祖父の側で寝てる姿をよく見るようになった。祖父もそれを容認する。珠生はそれがなんとなく面白くなかった。マリリンとうんと仲良しなのは僕で、マリリンは祖父より僕の方をずっと好きなのだと思うと同時に祖父は僕のことよりマリリンの方が好きなのだと卑屈になる。

わざわざ暑いお昼間にマリリンを動員する必要はないだろうし、加えて珠生も知らない人と一緒に五十嵐さんの家に行く必要性を感じない。呂室が行くぞと言うから仕方なく行く、もしかして呂室が一緒に行って欲しいのかなと思うのは呂室を侮りすぎてるだろうか。呂室も行きたくないのではないかと邪推する。行きたくない、それでも、珠生は男の子が泣いてるのがすごく気になるから一緒に行きたいという気持ちもある‥‥初対面の子だけど‥‥その子が一緒に来て欲しそうに思うのは穿ち過ぎかな、思い上がりも甚だしいかな。

本当は五十嵐さんの家に行くのは酷く怖いんだけど‥‥。

瑛介さんがいるかも知れないから‥‥瑛介さんは五十嵐さんのひとり息子だ。五十嵐さんはシングルマザーで瑛介さんは珠生と同じで父親がいない。

背の高い呂室にぶら下がるような様子で歩いた、呂室が持つリードにも捕まりマリリンと歩幅を合わせて隣を歩いている、ちょっとばかり複雑な構図が出来上がる。珠生は間近で二人に警護されてるかのような構図だ。チラリと振り返り後ろを歩いてくる木内と名乗った男と木内が金森響生という名前だと言った子どもを窺い見た。

木内と手を繋いだ響生は前を向いて歩いていた。もう泣くのはやめたみたいだ、顎を引き大きく開いた目は上目遣いに一点を睨み口を真一文字に結ぶ、なんだろ、諦めにも似た悟りからくる覚悟なのだろうか、強固な意志が引き結ばれた唇に表れていた、闘いに挑む最強の戦士みたいだ。武者震い的なものかと人の内面を読み予測して語るのは傲慢だろう。見当違いな憶測は気分を害するものだと思っている、珠生の周辺には憶測情報が飛び交っている。珠生の父親が分からないから好き勝手に追及するんだ、智明先生だとか、未可子先生の弟だとか、近親相姦だとか、レイプ犯の子だとか、不倫だとか、相手が多くて誰の子かわからないとか‥‥憶測ってものは不愉快極まりなく、噂は面白おかしく天地を駆け巡りまことしやかに帰結して無責任に忘れられる。

響生は震えてはいない‥‥。

珠生には心理を読むなんて出来ないけれど、今の今、歩きながら響生は何を考えてるのかとは考える。

‥‥こっそり窺うように見るといきなりバチッと目が合った、うわ、慌てて顔を戻した、あ、やばい、僕今感じ悪かったなと思ったけれど、やってしまったことはやる前には戻らないものだ。まあ、いっか、ふっと息を吐くと、どうしたと呂室が視線をよこした、なんでもないと首を振って身を寄せて歩いた。

「もうすぐですよ」呂室は振り返り「あちらですね」と手で古い平屋の家を示した。後ろを歩く二人にピリッと緊張感が増したように感じ受け取るのは珠生が既に緊張して交感神経が優位だから敏感になっているに相違ない。

土曜日の今日は五十嵐瑛介さんは在宅のはず‥‥ドキドキする。今、即座に地球が滅亡したら‥‥珠生は瑛介さんに会わずにすむ‥‥バカだろ地球は滅亡などしない‥いいや、あり得ないことではない、年々更新される各地の最高気温はどこまでも上昇する。地球滅亡は遠い未来のことではなく予断を許さない状況なのだ。

地球表面が高温で融解し地球上の生きとし生けるものの生命が絶滅するのだ。太陽が赤色巨星へと膨張すると現在の地球軌道を超えてしまい地球自体を飲み込んでしまう。

70億年後とも、50億年後とも言われる。僕は生きていないから良いだろうと無責任なことを言ってはいけない原因は人間にあるのだ‥‥あらゆる生物の子孫が、あ、僕は僕の遺伝子(デオキシリボ核酸という化学物質)はいらないけど‥誰かの子孫が途絶えるのは如何なものか‥‥。

核のDNAは両親から受け継ぐ物だが、ミトコンドリアDNAは原則として卵子由来、母系からのみ子に伝わるものだ。DNA以前に地球が‥‥溶けてしまうからなあ

マリリンと歩きながら意味不明なことをあれこれ考えてると余計に、響生の内面を知りたくなる。君は今何考えてる?

人間の心理を分析するには、生物学的、心理学的、社会学的な視点が必要だとやけに感じの悪い犯罪心理学者の男が話している映像を見た。珠生には難しい話だったけれど、したり顔で話す男がどうにも気に入らなかった。あなたは本当に人の心理が分かるのですか、決めつけてはいけませんよ。表面的な行動ではなく、その裏にある本当の気持ちや、欲望や、不安なんて絶対に分かるはずが無いと珠生は思う。自分の感情さえ捉え方が分からず逡巡するのに。型に填めて決めつけるのはどうなんだろ。

額が広く目が大きく手脚の長いカマキリみたいな男だった。カマキリは肉食の昆虫だ。関西の国立大学大学院を中退してスイスの大学で博士号を取得した秀才との紹介文、あくまで自己申告だろ、学歴詐称はよく聞く話だ。

経歴は呂室のパットを借りて調べた、知りたかったから。

表情、視線の動かし方、身体の傾き等で推察する。犯罪行為とその周辺事情を科学的な心理学の方法で明らかにして、犯罪者の真実を暴く。その推理が当たっているのが不思議だった(やらせかと疑うほどに)実際はもっと細かく深く細部に至るまで分析しているのだろう。10月に6歳になる珠生にはそんなスキルはないし。そもそもが響生は犯罪者ではない、犯罪心理学などと考えるのは間違っている。

そんなことより五十嵐さんに何の用だろう。

なにより五十嵐さんちの瑛介さんのこと知ってるのか気になってしょうがない。瑛介さんは身体が大きくまるでジャックとまめの木に出てくる巨人のようだ、と思うのは珠生の主観(偏見ともいう)だ全人類がそう思うわけじゃないだろう。瑛介さんは大人だけど心が子どもなのよと莉莎子は言う。通園途中のバス停でいつもブツブツ独り言を言いながらバスを待っている。他の人は明らかに瑛介さんから距離を取って知らん顔でスマホを見ながらバスを待っている。

一人で喋ってる姿が奇異で怖かった。

瑛介さんには知的傷害があるのだと莉莎子に教えられた。

知的障害は神経発達障害のカテゴリに含まれているが定義が曖昧で発達障害には含まれていないらしい。難しいな。

男は東京から来たと言った。

木内と名乗った男の口から発せられた、木内、金森、渡部そして五十嵐と四つのパターンの名字、不可解だろ。その理由を知りたい‥‥珠生は分からないことをわからないままにいるのが嫌いだ。直ぐに正解を知りたい。疑問を疑問のままにせず氷解したい。なにが分からないか考えると何が分かれば問題が分かるのか分かってくる。調べて考える、考えて解決を探して前進する。グルグル悩むのは嫌だから。偏屈な珠生に家族は堅忍不抜の精神で付き合ってくれた。駄々を捏ねた上に突然癇癪起こす、すごく扱いづらい子どもなのに本人にその自覚が無いという。自己肯定感が低く防衛的に攻撃で身を守る最悪な子どもなのだ。

なんで、なんで、どうして、どうしてその答えになるの、ねえ、間違ってない、その答えおかしいよね、どうしてそうなるのかちっともわからないと泣き喚く‥‥厄介な僕。最低だ

ひとつとして良いところが無い。

徳川の家で唯一えくぼが存在する珠生の頬‥‥遺伝するえくぼ‥‥隔世遺伝じゃないと莉莎子は安易に答える‥‥仏間のご先祖様の写真にはえくぼは見あたらない。ひとつの疑問が解決しないことには次の複雑な疑問は視野に入らない。複数の小さな要因が絡み合うことで偏屈な珠生は構成されているのだ。

そんな偏屈な珠生にも人を慮る心はあって、四つの名字の訳を問うべきではないと他人に対する配慮を重んじた。

ぐるぐるぐるぐる彼是関係ないことを考えていたらあっという間に五十嵐さんの家に着いた。マリリンの舌はハアハアと高速で動いてる。速く浅いパウンティング。


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