Scene 03
頭から冷たい水を浴びせられ、羽黒哲也は激しくむせ返った。息を吸うたびに咳が出て、身を折ろうとすれば脇腹に鋭い痛みが走る。どうにか身体を丸めようとしても、両手は椅子の背後で縛られ、足首まで固定されていて、ろくに動くこともできなかった。
「おう、やっと起きたか。随分と気持ちよさそうに寝てたじゃねえか」
聞き覚えのある声に顔を上げると、兄の武志がこちらを見下ろしていた。
短く整えた髪に黒いサングラス、仕立てのいい黒いスーツ。襟元には金のネックレスが光り、その周囲には路地裏で哲也を痛めつけた三人の大男が控えている。
「……また、てめえらかよ」
「ずいぶんな挨拶だな。わざわざ迎えに行ってやったってのによ」
「頼んで……ねえだろ……」
悪態を返しただけで息が上がった。
冷水を吸った白シャツは肌に張りつき、黒いスーツの下では、以前殴られた傷がまだ痛む。身体の芯が焼けるように熱いのに、寒気がして震えが止まらない。頭痛もひどく、少し顔を動かすだけで目の奥がずきずきと疼いた。
「お前、ひでえ顔してんな。この前の傷もろくに治ってねえじゃねえか」
武志は弟の顔を覗き込み、呆れたように鼻を鳴らした。
「熱まで出しやがって。病院くらい行けよ、馬鹿野郎」
「……うるせえ」
「まったく、口だけは達者だな」
周囲の男たちから笑いが漏れる。哲也は睨みつけようとしたものの、頭の奥に走った痛みに顔を歪め、結局うつむくしかなかった。
そんなとき、鼻の奥に甘ったるい煙草の匂いが引っかかった。
何となく覚えのある匂いに、哲也は重たい頭を持ち上げて周囲を見渡した。
コンクリートの床に長机、壁際に積まれた段ボール箱。部屋の奥には上階へ通じる階段があり、その先から漂ってくる匂いにも覚えがある。
「……ここ、ブラック・レインの地下じゃねえか」
「おう。見慣れた景色だろ?」
武志の口元が意地悪く歪んだ。
「ついこの前まで、お前がでかい面して仕切ってた場所だからな。最後くらい馴染みのあるところがいいと思ってよ」
「……趣味悪ぃな、てめえ」
「どうだ、弟思いのいい兄貴だろ?」
「てめえの面なんざ……見飽きてんだよ……」
男たちがまた笑い出す。武志は肩をすくめると、長机に腰を預けてサングラスを外した。
「さて、冗談はこのくらいにしておくか」
それまでの軽い口調が変わり、武志は弟をまっすぐ見据えた。
「哲也。本家から命令が回ってきた。お前を始末しろとな」
「……あ?」
「俺も掛け合ったんだがな。責任者から外す程度じゃ済まねえそうだ」
「……ハッ。今度は俺を殺すってか」
「そういうことだ」
あまりにもあっさりと告げる武志の態度に、哲也は顔をしかめた。
「ふざけ……やがって。俺が今まで……どんだけ稼いだと思ってんだ……」
「まだそれを言うか。稼いだ端から問題起こしてりゃ世話ねえだろうが」
「俺がいなきゃ……あんな連中、何もできねえくせによ」
「だから任せてやったんだろうが! それをお前が全部ぶち壊したんだよ!」
武志の手が長机を叩いた。
「誰彼構わずぶん殴って、揉め事ばかり起こしやがって。お前の尻拭いで、こっちがどれだけ苦労したと思ってんだ!」
「……知らねえよ」
「この野郎……!」
怒鳴りかけた武志だったが、弟の顔を見るなり口を閉じた。反抗的な目つきこそ変わらないものの、哲也は顔を上げていることさえ辛そうで、呼吸のたびに肩を大きく上下させている。
武志は苛立たしげに息を吐いた。
「お前なあ、少しは反省しろよ。ガキの頃から何も変わってねえだろ。気に入らねえことがありゃ、すぐ手を出す。後のことなんざ何も考えねえ」
「……考えてたら……殴れねえだろ」
「それが駄目だっつってんだよ!」
武志はしばらく弟を睨んでいたが、やがて諦めたように首を振った。
「もう庇いきれねえんだよ。俺だって好きでこんなことしてるわけじゃねえ」
「……だったら、やめりゃいいだろ」
「簡単に言いやがって……」
「てめえが……勝手にやってることだろうが……」
「本当に可愛げのねえ弟だな。最後の最後まで人を食った態度を取りやがる」
哲也は返事をしなかった。
兄の言葉は聞こえている。しかし、何を言われているのか、途中からよく分からなくなっていた。
頭の奥では絶え間なく痛みが続き、耳鳴りがするたびに周囲の声が遠ざかっていく。目を閉じれば、そのまま意識を失ってしまいそうだった。
それでも、腹の底で暴れ続ける飢えだけは少しも衰えない。
胃袋を内側から握り潰されるような苦しさに、哲也は喉を鳴らした。自宅で倒れていたときから何も食べていないとはいえ、こんな空腹は生まれて初めてだった。
ぐう、と大きな音が鳴る。
右側に立っていた男が目を丸くし、次いで腹を抱えて笑い始めた。
「おいおい、こんなときに腹減ってんのかよ!」
「すげえな、こいつ。死ぬ前に飯の心配か?」
「何か食わせてやりますか、武志さん。最後くらいうまいもんでも」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
武志は男たちをたしなめたものの、呆れた顔で弟を見下ろしている。
「お前、本当に何考えてんだ? これから殺されるって分かってんのか?」
「……食いもん」
「あ?」
「……何か、食わせろよ」
武志は弟を見つめ、それから深々と息を吐いた。
「駄目だ、こりゃ。最後まで人の話を聞きやしねえ」
サングラスをかけ直すと、長机から身体を離した。
「話は終わりだ。おい、やれ」
「へい」
左側にいた男が懐から短刀を取り出し、鞘を払った。残る二人も椅子のそばへ寄り、暴れるようなら押さえつけようと身構えている。
「悪く思うなよ、哲也ちゃん。恨むんなら自分を恨みな」
にやついた男が短刀を手に近づいてくる。
殺される。
ぼんやりしていた頭でも、それだけは分かった。
ふざけやがって。勝手に責任者から外しやがったと思えば、今度は殺すだと。誰に断ってそんなことを決めた。そもそも、こいつらが自分に偉そうな口を利いていること自体、気に入らない。
全員ぶん殴ってやりたかった。目の前で笑っている男の歯をへし折り、その後で武志にも一発くれてやる。気が済まなければ、何度でも殴ればいい。
だが、そんなことを考えても身体は言うことを聞かなかった。
縄を引っ張ろうと力を込めただけで頭の奥に激痛が走り、呼吸を整えようとすれば脇腹が痛む。高熱で視界は揺れ、目を開けていることさえ辛かった。
それなのに、こいつらは笑っている。
自分がこんなに苦しんでいるというのに、武志も、その取り巻きも、何食わぬ顔で立っていやがる。挙げ句の果てには、抵抗もできない相手を縛りつけて殺そうというのだ。
腹立たしくて仕方がなかった。
けれど、その怒りに集中することすらできない。武志を殴り飛ばすところを想像した次の瞬間には、何を考えていたのか分からなくなり、代わりにどうしようもない飢えが襲ってくる。
何か食いたい。今すぐ腹いっぱいになるまで食い続けたい。
そんなことばかり考えているうちに、目の前の景色が一瞬途切れた。
再び意識がはっきりしたときには、短刀を持った男がすぐそばに立っている。
男の首筋には汗が浮かび、笑いながら何か喋るたびに喉仏が上下していた。
哲也の視線がそこに吸い寄せられる。
どういうわけか、先ほどまで考えていた飯や肉のことが急にどうでもよくなった。目の前の男を見ているだけで唾液が溢れ、喉の奥がひくついてくる。
何を欲しがっているのか、自分でも分からない。
ただ、あの首筋に噛みつきたくてたまらなかった。
武志に目を向ければ、そちらも同じだった。襟元からのぞく肌も、呼吸するたびに動く喉も、ひどくうまそうに見える。
何だ、これは。
気持ちが悪い。頭がおかしくなりそうだ。
いや、もうとっくにおかしくなっているのかもしれない。
男が哲也の髪をつかんだ。
「おい、顔上げろって。最後くらいちゃんとしろよ」
無理やり頭を引っ張られ、首筋からこめかみにかけて痛みが走る。哲也が顔を歪めると、男はますます楽しそうに笑った。
「何だよ、その面。怖くなったか?」
その笑い顔を見つめるうち、哲也の唇が震え始めた。
こいつは俺を殺すつもりだ。それも、こんなに弱っている相手を笑いものにしながら。
そう思うだけで腸が煮えくり返るほど腹が立つ。ところが、頭の中では男の首筋ばかりがちらつき、口元からは勝手に唾液がこぼれていた。
怒りも痛みも飢えも、すっかり混ざり合っていた。
誰かを殴ってやりたいのか、何かを食いたいのか、それともただこの苦しさから解放されたいだけなのか、哲也自身にも分からなくなっていた。
それでも、ひとつだけはっきりしている。
目の前に欲しいものがある。
「……食わせろ」
「はあ? まだ言ってんのか?」
男が顔を近づけた。
「だから、何を食わせろってんだよ?」
哲也はゆっくりと顔を持ち上げた。
「……てめえらだよ」
「……あ?」
「食わせろっつってんだろうがあああッ!!」
背後で縄が弾け飛んだ。
髪をつかんでいた男は短刀を握ったまま後ずさり、慌てて刃を向け直す。しかし哲也は見向きもせず、足首の縄まで引きちぎると、倒れる椅子を置き去りにして武志へ飛びかかった。
「おい、何を――」
突然のことに武志は身を引く暇もなかった。腰が長机の端にぶつかり、そのまま弟ともつれるように床へ倒れ込む。
仰向けになった武志が抗議の声を上げかけた、その首筋に哲也は思いきり噛みついた。
悲鳴が地下室に響き渡る。
武志は両手で弟の頭を押し返そうとしたが、噛みついた口はびくともしない。逃れようと身をよじるうちに哲也が顔を引き上げ、血と一緒に食いちぎった肉を口いっぱいに頬張った。
「武志さん!」
右側から飛びついた大男が哲也の肩をつかんだものの、引き剥がすどころか逆に腕を取られ、巨体ごと投げ飛ばされてしまう。
積まれていた段ボール箱が派手な音を立てて潰れ、壁に背中を打ちつけた男は、そのまま箱の下へ埋もれた。
もうひとりが背後から組みつき、哲也の身体を羽交い締めにする。
「おい、早く何とかしろ! こいつ、力が……!」
大柄な男が渾身の力で締め上げているというのに、哲也はまるで苦しむ様子を見せなかった。鬱陶しそうに身をよじり、後頭部を相手の顔へ思いきり叩きつける。
鼻を砕かれた男が悲鳴を上げ、衝撃で切れた髪紐から、哲也の長い黒髪が肩へ流れ落ちる。
男が顔を押さえてよろめいたところへ、哲也は容赦なく蹴りを入れた。
床へ倒れた男は両腕で頭をかばおうとしたが、振り下ろされた裸足に腕ごと押し潰され、後頭部をコンクリートに打ちつける。続けざまの踏みつけで骨の砕ける鈍い音が響き、割れた頭蓋の隙間から血と脳漿が溢れ出した。
悲鳴はとうに途切れていたが、哲也はまだ足を止めない。
ぐしゃりと頭部が潰れ、男が完全に動かなくなったところで、ようやく顔を上げた。
「う、嘘だろ……」
短刀を握った男の手が震えている。
ついさっきまで笑いものにしていた相手が、仲間をあっという間に殺してしまった。しかも哲也は、口元を血で汚したまま楽しそうに笑っている。
「おい、どうしたよ。さっきの威勢はどこ行った?」
「こ、この野郎……!」
男は恐怖を振り払うように踏み込み、左側から短刀を突き出した。
迫ってきた刃を哲也が両手で握り込むと、その顔が恐怖に引きつる。掌が深く裂けて血が滴っているのに、いくら引っ張っても短刀は動かない。
「お、おい! 離せって!」
「何だよ。そんなに返してほしいのか?」
哲也は男の顔を覗き込み、にやりと笑った。
「だったら取り返してみろよ!」
顎を蹴り上げられた男がよろめき、手から短刀が離れる。奪い取った刃を哲也が腹へ突き立てると、苦痛に歪んだ顔がさらに引きつった。
「おいおい、どうした? さっきは随分楽しそうだったじゃねえか」
刃を引き抜き、再び腹へ突き立てる。
男は逃れようと腕を伸ばしたものの、足元もおぼつかず、口からはかすれた呻き声しか出てこない。哲也はそんな相手の襟をつかんで引き寄せ、わざわざ顔を覗き込んだ。
「笑えよ! さっきみてえに笑ってみろって!」
何度も短刀を突き立てられた男は、とうとう膝から崩れ落ちた。それでも哲也は襟を離さず、血まみれの相手に向かって笑い続けている。
その笑い声を、突然の銃声が断ち切った。
腹に受けた衝撃で哲也の身体が揺れ、続けざまに撃ち込まれた弾丸が胸元の白シャツを赤く染める。
楽しそうだった笑みが、ぴたりと消えた。
振り向いた先には、床に片肘をついて拳銃を構える武志の姿がある。
噛み裂かれた首からは絶えず血が流れ、呼吸のたびに喉から苦しげな音が漏れていた。震える腕を必死に支えているものの、弟が無表情でこちらを見つめていることに気づくと、その顔が恐怖に引きつる。
その隙に、段ボール箱へ投げ飛ばされていた男が動き出した。
「冗談じゃねえ……!」
肩を押さえながら階段へ駆け出し、最初の段を踏みかけたところで、背後から飛んできた短刀が後頭部に突き刺さる。
逃げようとした勢いのまま前のめりに倒れ込み、階段を血で汚した。
再び銃声が響いた。
武志は床を這いながら後退し、近づいてくる哲也へ必死に銃を撃ち続ける。首から流れる血を押さえる余裕もなく、呼吸さえままならない。それでも、腹や胸を撃ち抜かれた弟が歩いてくる姿を前に、引き金を引くことだけはやめられなかった。
やがて階段脇の壁に背中がぶつかり、武志はそこで逃げ場を失った。
あれだけ撃たれたというのに、弟はまだ歩いている。血まみれのシャツの下には銃創が開き、額へ垂れた黒髪からも血が滴っていたが、倒れる気配はまるでなかった。
武志は震える腕を持ち上げ、両手で拳銃を支え直した。
最後に残された一発を、哲也の額へ向ける。
銃声が響き、哲也の上半身が大きく仰け反った。
弾丸に撃ち抜かれた額から血が噴き出し、ほどけた黒髪の向こうへ飛び散る。後頭部からも血と骨片が散り、身体がぐらりと傾いた。
武志は拳銃を構えたまま、喉を鳴らして荒い息を吐いた。
ところが、哲也は倒れなかった。
ゆっくりと頭を戻した弟の額には、弾丸が貫通した傷がはっきりと残っている。そこから流れる血が鼻筋を伝っても、本人はまるで気にする様子を見せず、再び一歩を踏み出した。
武志は恐怖に目を見開き、引き金を引いた。
乾いた空撃ちの音が響く。
何度繰り返しても同じだった。銃弾が残っていないと分かっていても指が止まらず、とうとう拳銃を取り落としてしまう。
「……ぁ……」
掠れた息が漏れるばかりで、助けを求める声さえ出ない。
哲也はそんな兄の前にしゃがみ込み、ゆっくりと口元を歪めた。
つい先ほどまでの無表情とは打って変わって、心底楽しそうな笑みだった。
「……腹が減って仕方がねえんだ。助けてくれよ、兄貴」
武志は何か言おうとしたが、血に濡れた唇が震えるだけだった。
差し出された手を払いのけ、哲也は再び首筋へ食らいつく。武志の身体が激しく跳ね、やがて抵抗する力を失っても、食いちぎる音は止まらなかった。
地下室に残ったのは、湿った咀嚼音ばかりだった。
武志がすっかり動かなくなってからも、哲也は夢中で食べ続けた。肉を噛みちぎり、飲み込み、また喰らいつく。長く続いたその音がようやく止む頃には、兄の身体は原形をほとんど留めなくなっていた。
「……ふぅ」
満足げに息を吐いた哲也は、口元を手の甲で拭った。
不思議なことに、あれほど苦しめられた飢餓感が嘘のように消えている。身体を焼いていた熱も、頭を締めつけるような痛みもなく、何より驚いたのは、全身がひどく軽くなっていることだった。
「……ん?」
破れたシャツの前を引っ張り、胸や腹を確かめる。
銃弾を受けたはずの場所には傷ひとつなく、短刀を握り込んで切り裂いた掌も、血がこびりついているだけで元どおりになっていた。
さらに額へ手をやってみると、そこにも穴はない。
「おいおい……マジかよ」
試しに拳を握り、思いきり振ってみる。傷ひとつない身体は驚くほど軽く、さっきまで椅子に座っていることすら辛かったとは、とても思えなかった。
「ハハッ! 何だよ、こりゃ! 最高じゃねえか!」
上機嫌で笑いながら、哲也は血だまりの中に転がる武志の残骸へ目を向けた。
もはや兄の顔すらまともに判別できない有様だったが、それを見ても悲しむ様子はなく、むしろ呆れたように鼻を鳴らす。
「……なんだよ。随分おとなしくなったじゃねえか」
当然、返事はない。
「生きてるときも、そんくらい静かにしてりゃよかったのによ」
それだけ言い捨てると、哲也は兄の残骸に背を向けた。
散らばった段ボール箱や倒れた男たちを跨ぎ、階段へ向かう。血に汚れた黒いスーツも、銃弾に裂かれた白シャツも元には戻らなかったが、そんなことはどうでもよかった。
上の階からは、誰かの話し声が聞こえていた。
最初の段に足をかけたところで、ふと武志の言葉を思い出す。
「……人を食った態度、か」
肩越しに兄の残骸を一瞥し、口元を歪めた。
「これで文句ねえだろ」
哲也はそのまま、血に濡れた裸足で階段を上がっていった。




