Scene 02
古びたアパートの階段を上がりきったところで、哲也は壁に手をついた。
「クソが……あの野郎ども、好き放題殴りやがって……」
口の端にこびりついた血を拭い、よろめきながら自室へ入る。床には脱ぎ捨てた衣服や空き缶が転がっていたが、そんなものに構っている余裕はない。テーブルのリモコンでテレビをつけると、寝室のベッドへ倒れ込んだ。
「ぐっ……! クソ、いてえ……」
黒いスーツは血と泥に汚れ、ところどころ破れている。白いシャツにも赤黒い染みが広がり、後ろで束ねた髪は乱れて首筋に張りついていた。殴られた腹や顔だけでなく全身がひどく痛み、着替える気力さえ残っていない。
『――各地で観測されている異常気象について、気象庁では引き続き調査を進めていますが――』
「……うるせえな」
兄貴の野郎……次に会ったら、ただじゃ済まさねえ。
テレビから流れるニュースを聞き流しているうちに、哲也の身体が小刻みに震え始めた。額には汗が浮かんでいるというのに、背筋を這い上がるような寒気が止まらない。
「……何だよ、クソ……」
毛布を引き寄せようとしたところで腕から力が抜け、そのまま意識が途切れた。
*
『――原因不明の高熱を訴える患者が急増しており、各地の医療機関では受け入れが困難な状況となっています』
「……うるせえ……」
耳障りなテレビの音に顔をしかめ、哲也は枕元を探るように手を伸ばした。しかし、腕を動かした途端に肩から背中へ激痛が走り、思わず呻き声が漏れる。
「ぐあっ……! 何だ、こりゃ……!」
身体中の関節が軋み、額からは汗が噴き出していた。喉は焼けつくように渇き、胃袋を直接掴まれているような猛烈な空腹感まである。
「クソ……あいつら、どんだけ殴りやがった……」
悪態をつきながらベッドの縁に手をかけ、どうにか上半身を起こしたものの、頭が割れそうに痛む。しばらく膝に手をついて耐えていたが、喉の渇きには勝てず、壁に寄りかかりながら冷蔵庫へ向かった。
中に残っていた弁当を見つけると、途端に腹が鳴る。ところが、蓋に手をかけた瞬間、猛烈な吐き気が込み上げてきた。
「うっ……げほっ! クソッ、何なんだよ……!」
慌てて口元を押さえ、冷蔵庫に寄りかかる。腹が減って仕方ないというのに、食べ物を目の前にしただけで胃がひっくり返りそうになるとは、どういうことなのか。
結局、食事は諦めてペットボトルの水を口に含んだ。
「……ああ、うめえ……」
冷たい水が喉を通る心地よさに、思わず頬が緩む。しかし、続けて飲もうとした途端に再び吐き気が襲い、激しくえずく羽目になった。
「……ざけんなよ……」
しばらく冷蔵庫に寄りかかっていた哲也は、吐き気が治まるのを待ってからタオルを水で濡らし、ペットボトルと一緒に寝室へ持ち帰った。
ベッドに横たわり、熱を持った額にタオルを乗せる。血のこびりついたシャツを脱ぐ気力もなく、身体を動かすたびに顔が歪んだ。
病院へ行くことも頭をよぎったが、まともに歩けもしない。おまけにテレビでは、患者が押し寄せて病院が大混乱になっているという。
「……チッ、使えねえな……」
天井を睨んで吐き捨てたところで、テレビから聞こえてきた言葉に耳を疑った。
『――海外でも同様の症状が相次いで報告されています。現在、国内外の専門機関が原因の特定を急いでいますが――』
「……何だよ、さっきから」
画面には緊急特番の文字と現在の日付が表示されている。
「……は? おいおい、二日も寝てたってのかよ」
哲也は呆れたように笑いかけたが、頭に響く痛みに顔をしかめた。
『続いて、世界各地で確認されている異常気象についてお伝えします』
テレビに映し出されたのは、黄金色に染まった空と、その下に降り続く雨だった。
『現在も各地で黄金色の空が観測されており、日没後も明るさがほとんど変化しない現象については、原因が分かっていません』
「……あ?」
哲也はベッドに横たわったまま、窓へ顔を向けた。
カーテンの隙間から差し込む光は、昼間と変わらないほど明るい。窓ガラスには透明な雨粒が絶え間なく流れ、向かいの建物もはっきり見えている。
テレビ画面の隅に表示された時刻は、午後九時を過ぎていた。
「おいおい……もう九時だぞ。何でこんなに明るいんだよ……」
路地裏で見上げたときも妙な空だと思ったが、まさか二日経っても変わっていないとは。
「……マジでどうなってんだ、こりゃ」
テレビでは海外の都市の様子が紹介されていた。黄金色の空の下、道路には車が長い列を作り、病院の入口には大勢の人々が押し寄せている。担架で運ばれる患者や泣き叫ぶ家族、対応に追われる医療関係者の姿が次々と映り、現地の記者が声を張り上げていた。
『各地の医療機関では、原因不明の高熱や激しい空腹感、喉の渇きを訴える患者が急増しています。また、一部の患者には興奮状態や攻撃的な行動が見られ――』
「……腹が減る、だと?」
哲也は自分の腹に手を当てた。
「ハッ……何だよ。俺もその病気ってわけか?」
笑ってみせたものの、腹の奥がひどく疼き、すぐに口元が歪む。
『一部の研究者からは、地球温暖化による永久凍土の融解に伴い、未知の病原体が放出された可能性も指摘されています。ただし、今回の異常気象や発熱との関連は確認されておらず、感染経路についても依然として不明です』
その報道を聞いた途端、哲也は堪えきれずに笑い出した。
「ハッ! じゃあ俺たち人間の自業自得ってわけか! ハハハッ……ぐっ、げほっ!」
笑い声は途中で激しい咳に変わり、腹を押さえて身体を丸める羽目になったが、それでも口元には笑みが残っている。
勝手に地球をいじくり回して、挙げ句の果てに自分たちが苦しんでいる。まったく、笑える話じゃねえか。
もっとも、自分まで巻き添えを食っていることには腹が立つ。
『――続いて、各地で相次いでいる暴行事件についてお伝えします』
画面が切り替わると、街中を逃げ惑う人々の姿が現れた。
その背後から一人の男が通行人に飛びかかり、倒れた相手に馬乗りになると、顔や首元へ噛みつき始める。周囲から悲鳴が上がり、撮影者が逃げ出したのか、映像は大きく揺れて途切れた。
『こうした事件は国内外で相次いでおり、警察では原因不明の発熱との関連を調べています。また、加害者とみられる人物の中には、目の充血や出血を伴う異常な症状が確認されているということです』
続いて映し出されたのは、複数の警察官に取り押さえられながらも激しく暴れ続ける男の姿だった。
その両目は真っ赤に充血し、頬には血の涙が筋を作っている。警察官たちが必死に押さえつけても、男は口を大きく開け、近くにいる者へ噛みつこうとしていた。
「……何だ、こいつ。ハッ、ずいぶん元気な野郎じゃねえか」
哲也は鼻で笑い、空腹を訴える腹を苛立たしげに押さえた。
「クソッ……腹減ったなぁ……!」
忌々しげに枕を殴りつけ、再び横になる。
やがてテレビの音を聞くのも鬱陶しくなり、汗で湿ったタオルを額から外して目を閉じたところで、玄関の方から金属音が聞こえてきた。
「……あ?」
ガチャガチャと鍵を乱暴に弄る音が続き、哲也は不機嫌そうに顔を上げる。
「おい……誰だ、てめえ」
返事はなく、やがて金属が擦れる嫌な音とともに玄関の扉が開いた。
複数の足音が室内へ入り込み、寝室の入口に現れたのは黒いスーツを着た三人の男たちだった。路地裏で哲也を殴りつけた、あの連中である。
そして、その後ろから黒いサングラスをかけた武志が姿を見せた。
「……てめえかよ。何しに来やがった……!」
哲也が険しい顔で睨みつけても、武志は答えない。血で汚れたベッドに横たわる弟をしばらく見下ろし、やがて三人の男たちへ短く命じた。
「……連れていけ」
「おい、待て……てめえら、何のつもりだ……!」
近づいてくる男たちに歯を剥き出しにし、哲也は身体を起こそうとした。しかし、腕に力が入らず、ベッドの上でもがくのが精一杯だった。
「触んじゃねえぞ、クソ野郎……!」
それでも掴みかかろうとした瞬間、男の拳が顔面に叩き込まれる。
「がっ……!」
頭が枕へ沈み込み、視界が激しく揺れた。
ぼやけた視界の向こうでは、武志がこちらを見下ろしている。
クソ……兄貴の野郎……何しに来やがった……。
悪態をつこうとしたものの、声にはならなかった。
哲也の意識は、再び暗闇へ沈んでいった。




