Scene 01
俺は昔から、いつも何かに腹を立てていた。
別に理由があるわけじゃねえ。気に入らねえ奴がいれば殴ったし、そいつが謝ろうが泣こうが、むかつくものはむかつく。ガキの頃から喧嘩ばかりで、止めに入った教師にも平気で殴りかかった。
親にも散々怒鳴られた。警察の世話になったことだって一度や二度じゃねえ。
だから何だってんだ。
殴られたくなきゃ俺に近づかなきゃいい。文句があるなら殴り返してくりゃいい。それでどっちかが地べたに這いつくばろうが、知ったことじゃねえだろう。
もっとも、俺をぶちのめせる奴なんざ、そうそういなかったがな。
「おい、哲也! てめえ、人の話を聞いてんのか!」
腹に拳がめり込み、羽黒哲也の身体がくの字に折れた。
「ぐっ……てめえ……!」
両脇から腕を押さえつけられ、倒れることもできない。正面に立つ大柄な男は、哲也が顔を上げるのを待ってから、もう一発を腹に叩き込んだ。
雨に濡れた路地裏に、苦しげな呻き声が漏れる。
三人の男はいずれも黒いスーツ姿で、哲也より一回りは大きな身体をしていた。二人が腕を拘束し、残る一人が殴る。哲也が暴れるたびに、両脇の男たちはその腕を強く捻り上げた。
哲也の黒いスーツはすでに泥と雨水で汚れ、白いシャツには血が滲んでいる。後頭部で束ねた長い髪も乱れ、開いた襟元からは首筋に彫られた竜の刺青が覗いていた。
「まったく……どこまで俺の顔に泥を塗りゃ気が済むんだ、てめえは」
少し離れた場所から、呆れた声が飛んだ。
羽黒武志。
哲也の実の兄は、黒い傘を差して弟を見下ろしていた。
短く整えた髪に黒いサングラス。上等な黒いスーツには皺一つなく、白いシャツの襟元からは金属製のネックレスが覗く。手首には高級腕時計が光り、弟とは対照的に、靴の先まで綺麗なものだった。
「てめえにブラック・レインを任せたのは間違いだった。薬のシノギもまともに回せねえくせに、身内を半殺しにするわ、よその連中と揉めるわ……おかげでこっちは毎日尻拭いだ!」
「ハッ! こっちは頼んじゃいねえよ! 勝手に押しつけてきたのは、てめえだろうが!」
「その口の利き方をやめろっつってんだ!」
武志の怒声に合わせ、正面の男が哲也の頬を殴りつけた。
鈍い音が響き、口の中に鉄臭い味が広がる。
哲也は血の混じった唾を吐き、男を睨み上げた。殴った男は涼しい顔をしているが、その背後に立つ武志は明らかに苛立っていた。
気に食わねえ。
兄貴だから何だってんだ。昔からこいつは俺に説教ばかり垂れやがる。喧嘩をするなら相手を選べ、金を奪うなら後先を考えろ、挙げ句の果てには組織のために働けときた。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
そもそも、ブラック・レインなんざ俺が望んで始めたもんじゃねえ。兄貴が勝手に連中をまとめろと言い出したんだ。
何が組織だ。何がシノギだ。
毎日ちまちまと薬を売りさばいて、売り上げを数えて、上に金を納める。そんな面倒な真似をするくらいなら、欲しいもんを持ってる奴から奪った方がよっぽど早えじゃねえか。
「そんな小遣い稼ぎして何が楽しいんだよ! 欲しけりゃ奪えばいいだろうが!」
「……てめえ、本気で言ってんのか?」
「それによ、何がブラック・レインだ! 御大層な名前つけやがって! ただのヤク中のゴロツキの集まりじゃねえか!」
「そのゴロツキどもをまとめるのが、てめえの仕事だったんだよ!」
「だったら自分でやれや! 菅井組系の幹部様がよ!」
武志の顔から表情が消えた。
傘の下でしばらく弟を見据えていたが、やがて小さく顎を動かす。
それを合図に、正面の男が再び拳を振るった。
「がっ……!」
今度は腹ではなく、顔面だった。
哲也の頭が大きく跳ね、口元から飛んだ血が濡れた地面に散る。それでも歯を剥き出して暴れようとしたため、両脇の男たちが腕をさらに締め上げた。
クソが。離しやがれ。
このデカブツども、両手さえ自由なら一人残らずぶちのめしてやる。まずは目の前の野郎だ。散々殴ってくれた礼に、その澄ました面を原形がなくなるまで叩き潰してやる。
それから兄貴だ。
いつも偉そうにしやがって。自分は安全なところに突っ立って、他人に殴らせていやがる。
哲也の顔に、血まみれの笑みが浮かんだ。
「てめえもヤクザなら、少しは自分の手を汚したらどうだ?」
「……何だと?」
「弟一人、自分で殴れねえのかよ! 部下にやらせて突っ立ってるだけか? それがヤクザのやることかよ!」
武志は答えなかった。
傘を差したまま弟を見つめ、その顔に浮かぶ笑みが消えないのを確かめると、深く息を吐いた。
「……もういい。てめえには何を言っても無駄らしいな」
武志が片手を上げると、正面の男は拳を下ろした。
「今日限りでブラック・レインから手を引け。二度と組織の仕事に関わるんじゃねえ。上にも俺から話を通しておく」
「ハッ! 上等じゃねえか! あんなクソみてえな連中、こっちから願い下げだ!」
「てめえの尻拭いに、どれだけ金と手間がかかったと思ってやがる」
「知るかよ。文句があるなら、最初から俺に任せなきゃよかったんだ!」
武志は口元を歪めたものの、それ以上は言い返さなかった。
人を脅して金を巻き上げ、薬を売りさばいて食っている連中が、偉そうに筋だの規律だの抜かしやがる。そんなもん、俺の知ったことか。
哲也にとっては、兄の説教も組織の決まりも、ただ鬱陶しいだけだった。
「放してやれ」
両腕の拘束が解かれると、哲也はその場に膝をついた。踏ん張ろうにも腹に力が入らず、片手を地面についたまま荒い呼吸を繰り返す。
武志はそんな弟を見下ろしていたが、やがて傘を持ち直した。
「……血の分けた弟だからよ。俺なりに目をかけてやってたんだがな」
哲也は口元の血を手の甲で拭った。
「……そうかよ。だったら、さっさと失せろや」
武志の顔に、わずかな怒りが戻った。
側近の一人が哲也へ近づこうとしたものの、武志はそれを制し、背を向ける。
「行くぞ」
三人の男たちが後に続いた。
路地の向こうへ遠ざかっていく背中を、哲也は地面に座り込んだまま睨みつけていた。
クソ野郎どもが。
いつか必ず、あの澄ました面をぶちのめしてやる。兄貴だろうが菅井組系の幹部だろうが、関係ねえ。今度会ったときには、二度と俺に偉そうな口を利けねえようにしてやる。
そう考えるだけで、自然と口元が吊り上がった。
だが、立ち上がろうとした途端、腹に激痛が走った。
「ぐっ……クソが……!」
壁に手をつき、どうにか身体を起こす。
殴られた頬は腫れ上がり、口の中も切れていた。肩口の引きつれた上着を直そうとしたが、腕を動かすだけでも脇腹が痛む。
おまけに雨まで降っていやがる。
小雨より少し強い程度の雨が絶え間なく降り注ぎ、哲也の髪やスーツを濡らしていた。
こんな身体じゃ、今すぐ連中を追いかけるわけにもいかねえ。
それがまた腹立たしかった。
「あの……大丈夫ですか?」
不意に、路地の入口から細い声が聞こえた。
哲也が顔を向けると、学生服を着た少年が立っていた。
小柄で痩せた身体に、今風の軽いマッシュショート。黒髪の下に覗く顔立ちは妙に整っていて、遠目には少女と見間違えそうなほど線が細い。
どこかで見た顔だと思ったが、すぐに思い当たった。
同じボロアパートの隣室に住んでいるガキだ。
母親と二人暮らしらしいが、その母親がしょっちゅう男を連れ込むせいで、夜中まで騒がしくて仕方がない。怒鳴り声や物音が聞こえることも珍しくなかった。
こいつ自身も、いつ見かけてもビクビクしてやがる。
近所で同年代の連中に囲まれ、殴られたり蹴られたりしているところを何度か見たことがあった。
そのたびに哲也は苛立っていた。
殴られたら殴り返せばいい。負けたって構わねえ。相手が何人いようが、一人くらい道連れにしてやるつもりで向かっていきゃいいじゃねえか。
それをこいつは、頭を抱えてうずくまるばかり。
見ているだけで胸糞が悪くなる。
「……うせろ」
「えっ……でも、血が……」
少年は怯えた顔で哲也を見つめていた。帰れと言われても、その場から動こうとしない。
何だ、その目は。
そんな負け犬みてえな目で、俺を見てんじゃねえ。
てめえに心配されるほど、俺は落ちぶれちゃいねえんだよ。
「聞こえねえのか! 失せろっつってんだよ!」
「す、すみません……!」
少年は肩を震わせ、慌てて頭を下げると、逃げるように路地を離れていった。
「チッ……」
哲也は血の混じった唾を吐き捨てた。
何もかも気に食わねえ。
兄貴も、あのデカブツどもも、さっきのガキも。こんな日に雨を降らせる空まで、まとめてぶん殴ってやりたい気分だった。
苛立ち紛れに顔を上げた哲也は、そこで初めて異変に気づいた。
「……あ?」
建物の隙間から見える空が、奇妙な黄金色に染まっている。
街灯の明かりでも、夕焼けでもない。厚く垂れ込めた雲の向こうから、空全体がぼんやりと光を放っているようだった。
「なんだよ……夜だってのに、なんでこんなに明るいんだよ」
哲也はしばらく空を睨んでいた。
黄金色の空から降り注ぐ雨は、どこにでもある透明な水だった。勢いを増すことも弱まることもなく、路地の地面を濡らし続けている。
「……気色悪りい」
それ以上考えるのも面倒になり、哲也は壁から身体を離した。
脇腹の痛みに顔を歪めながら、薄汚れたアパートへ向かって歩き出す。
背後では、黄金色の空から降る雨が、路地に残された血を少しずつ洗い流していた。




