076. 匂い
「っ……」
隠し扉の中に降りれば、真っ直ぐに続く廊下の両側にいくつもの扉があった。廊下の奥へと歩くにつれて、漂う甘ったるい香りが濃くなってくる。
その香りで、真っ先にルルナの様子がおかしくなった。頭に靄がかかったようにぼぅっとする。頭がぐらりと傾いて、とうとうルルナはバルドの肩から落ちてしまった。
「ルルナ!」
「ルルナちゃん!」
落ちて来たルルナを受け止めて、アエラウェが風魔法でルルナの顔の周りに空気の層を作り出す。香りが消えて少し楽になったのか、苦しそうだったルルナの表情は少し和らいだようだった。薄っすらと目を開けて、廊下の突き当りに指を差す。
「……あそこ、あそこの中から声が聞こえる」
突き当りにある扉に近づく程強くなる甘い香りに、鉄と独特な匂いが段々と濃く混ざってくる。その香りに、ガルクス以外の皆が一様に厳しい顔つきになった。
アエラウェが口元を袖で抑えて呟く。
「――この匂い」
嗅いだことのある匂いとその場面の記憶。これ以上先に行ってはならないと、アエラウェはマリール達に振り返った。
「ルルナとマリーちゃん。それにエレンもここで私と待つわよ」
「いえ、私も……!」
「見ない方がいい」
自分も行くと口を開きかけたマリールを、バルドが止める。その真剣な目にマリールは視線を落とし、小さく頷くしかない。今一緒に行っても、きっと足手まといになる。
「私が先に突入しよう。君達は援護を頼む」
イクスからの指示にトートが頷く。イクスの後に続いて扉に向かおうと足を踏み出した時、アエラウェがトートに声を掛けた。
「トート。貴方も残っていいのよ?」
アエラウェが気遣うようにトートを見る。もしかしたらこの中に、モルガが居るかもしれないのだ。
「――だーかーら! 違うっての。行くよ」
「あ、俺残りたい。無理」
「俺もすっげー行きたくない……」
「トートが行くって言ってるんだから、あんたらも行きなさいよ。男らしくない」
「「へーい」」
要らぬ気遣いだと言うトートとは逆に、ラルムとサルムが行きたくないと手を挙げるが、どうやら棄権させてはくれないようだ。
一番男らしくないアエラウェに言われたくはないと不貞腐れながら、二人はトートと共にイクスの後ろへと並んだ。
バルドは肩からマリールを持ち上げルルナの側へ降ろすと、不安そうに見つめ返す幼い二人の頭を優しく撫でた。
「……いいと言うまで、耳と目を塞いで待っていろ」
マリールとルルナはこくりと頷くと、ぎゅっと目を固く閉じて小さな手で自らの耳を塞ぐ。エレンは二人に身を寄せるように、ぎゅっと抱きしめた。
少しでも聞かせたくない音を遮るように、さらにアエラウェが風の渦を作り出す。マリール達は遮断された空間で、ただ只管時が過ぎるのを待つしかなかった。
それから数十分も経っただろうか。マリールは突如肩を叩かれ、そっと耳を塞いでいた手を離した。気づけば、いつの間にかアエラウェの風魔法は収まっている。
ゆっくりと視線を上げれば、どこか痛そうに顔を歪めたバルドが目の前に立っていた。
「旦那様……? どこか怪我を……?」
刃物を刺されても気付かなそうな筋肉の鎧に、怪我でも負ったのだろうか。マリールはバルドの怪我を確認する為に、その身体に触れようと手を伸ばした。だが、その手はそっと握られ止められてしまう。
「マリール、すまんが薬を頼む。俺達が預かっていた薬では足りなかった」
「っ……!」
「マリーちゃん!!」
悔しさを滲ませるバルドの声を聞くなり、マリールは弾けるように駆け出した。制止するアエラウェの手を振り払い飛び込んだ先に広がる光景は、マリールが想像していたよりも酷い惨状だった。
立ち尽くすマリールの後ろで、エレンとルルナが「ひっ」と、悲鳴を飲み込んだ。
部屋の奥、弧を描くように設置されたいくつもの檻の中には、それぞれ十数名の女子供が入れられている。
その中央にある大きな寝台の上には、女性だけでなく、マリールよりも小さい子供が何人もあらぬところから血を流し、腹を切られ倒れていた。他の者は殆どが背中を切られて細い息を浅く繰り返しているが、中には全く動かず、ぐったりとした者もいる。
寸前まで愉しんで、口封じの為に手を下したであろう男達は、粗方イクスによって切り伏せられ、生き残った者はバルド達によって捕らえられていた。
「――突入した時はもう切られた後だった。残っていたのは、こいつらだけだ」
「こいつら、見たことあるわ……。確かカロルクの冒険者よ」
あまりの陰惨さに呆然とするマリールの直ぐ側で、バルドとアエラウェが何かを話している。だが、その声はまるで遠くで話しているかのようで、はっきりと聞こえてこない。
マリールの目の前がすうっと暗くなっていくのを感じた時、ルルナの泣きそうな叫びが聞こえた。
「マリールちゃん!」
「しっかりしろ、マリール! おまえが居ないと助けられない!!」
気を失いかけたマリールの頬を、バルドがペチリと叩く。霞んでいた視界はぼんやりと戻ってきて、真正面に厳しい表情のバルドが見えた。
きつく手を握られている事に気付き、その手の持ち主を辿る様に視線を移せば、青い顔をしたルルナが涙を溜めてマリールを心配そうに見ている。恐ろしくて泣きたいだろうに、震える唇を噛み締め耐えていた。
マリールはぎゅっと目を閉じて、それから両手で自らの頬を思い切り叩く。
「っ……たぁーい!! 思いっきり叩き過ぎた~!!!」
マリールの雄叫びとも言える自らへの文句に、ぎょっとして周りが振り返る。
マリールは何事も無かったように腰のポーチから背負い鞄をずるりと取り出すと、既に救助活動をしていたホビット達の方へと駆け出した。
「呼吸が止まっていたり、緊急性の高い方はいますか!?」
「マリーちゃん、こっち!」
「こっち頼む!!」
「こっちも!」
バルド達に事前に託していた小瓶の中には、赤と黄色の薬を多く入れていなかった。何人かは薬を飲ませたのか回復している者も居たが、被害者の数が多すぎる。
マリールは背負い鞄から赤・黄・青の薬が入ったそれぞれの瓶と、同じ色のリボンの束を取り出した。薬瓶をどん、と床に置き、赤い薬をエプロンドレスのポケットに詰め込むだけ詰め込んで、リボンの束を掴み立ち上がる。
「今から私が色違いのリボンを結んでいきますので、リボンの色と同じ薬をそれぞれに飲ませてください! 損傷が激しい場合は噛み砕いて直接刷り込んで!!」
「「「わ、わかった!!」」」
「旦那様! 檻壊して!!」
「ああ!」
「アエラウェさんも、お願いします!」
「ええ! ほら、イクスもよ!」
「は、はい!!」
状態を確認しながらも、緊急性の特に高い者には赤い薬を自ら飲ませていく。マリールの指示のままホビット達やエレン、それにルルナも懸命に手伝うが、檻から出され次々と運ばれてくる被害者の数に追いつかず、どうしたらいいのか混乱し始めていた。
――その数およそ八十人。もしかしたらもっと居るかもしれない。
その被害者の数に途方に暮れて動きが止まってしまったエレンとルルナに気付くと、マリールはさらに指示を飛ばした。
「エレンさん! 私とホビットさん達が薬を飲ませます! その方達の回復が確認出来たら、なるべく一箇所に集めてリボンを外してください! 治療済の目印になります! ルルナも手伝ってあげて!!」
「わ、わかりました!」
「う、うん!!」
名指しで指示されたエレンとルルナは、はっと意識を戻し、再び動き出す。その姿を確認し、マリールは軽く息を吐き出してから、まだ診れていない者達に向かった。
被害者に混ざって倒れていた加害者の男。それにも惜しみなく薬を与えようとするマリールに、イクスは目を見開いた。この男は先程突入した際に、自ら切り伏せた男だ。
「待て! 何故、加害者まで助ける必要がある!?」
腕を掴まれ動きを封じられ、マリールは苛立たし気にイクスを見据える。今こうして止められている間にも、助けられない命が出てくるかもしれない。
「――命は命です。それに証言者として残せるでしょう!? いいから運んで!!」
「っあ、ああ……」
小さな少女の気迫に、騎士であるイクスが気圧される。その瞬間に緩んだ拘束を振り払い、マリールは時間が惜しいと再び目の前の救助対象者へ取り掛かった。
その姿を少しの間放心して見詰めていたイクスは、指示通りに再び檻の中から被害者を運び出さなければと、混乱する頭でのろのろと動き出す。
「うちの子、すごいでしょ?」
アエラウェが極上の微笑みを浮かべながら、イクスに片目を瞑る。いつもならそれだけで昇天しそうなイクスだが、顔を強張らせ、ぽつりと呟いた。
「……将軍クラスに叱り飛ばされた気分になりました」
「ぷっ! やだ、そんなに!?」
「それは……すごいな」
将軍クラスは大袈裟だが、それくらいの気迫を感じた。そう素直に頷くイクスにまた笑ってから、アエラウェはマリールを見て呟いた。
「ほんと、すごいわね……」
「――ああ」
懸命に救命活動を続けるマリールの姿に、バルドは眩しいものを見るように目を細めた。
ピピ角牛狩の時に山で見た、取り乱し泣き縋りながらも懸命に命を救おうとしていた姿を思い出す。きっと今だって、ギリギリの精神状態の筈だ。それなのに誰よりも冷静に、しっかりと指示を出し周りを動かしている。
小さなマリールに頼り切りなのは歯痒いが、マリールが今メルクに、この場に居なければ救うことが出来なかった命だ。少しでも早く救助を終えてマリールを休ませてやりたいと、バルドは被害者を運び出す速度を上げた。




