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9 深淵の主と理不尽な王者

 深海の魔物、深淵海魔怪(クラーケン)


 船を丸ごと抱き潰す巨躯と、海流さえも操る無数の触手。海に生きる者にとって、それは抗いようのない「自然災害」そのものであった。


 向けられた巨大な単眼は、光を吸い込む虚空の闇を湛えている。


「でかすぎんだろ……」


 誰からともなく漏れた声が、洞窟の壁に虚しく反響した。


「強化したのは岩肌だけだ! 洞窟そのものを押し潰されたら意味ねぇ! やられる前に、やるぞ!」


 魔物相手に躊躇している暇はない。リンは『るるなるペン』を閃かせ、空間に無数の光のリボンを走らせた。ありったけの論理を積み上げ、一點突破の攻撃魔法に特化した、緻密で巨大な魔法数式を組み上げる。


「了解! 撃つよ、マリウスとマリーナは伏せてて!」


 ガイは、リンが空中に刻んだ複雑怪奇な魔方陣を網膜に焼き付けると同時に、その構造を自身の魔力回路へと瞬時に転写した。


 リンの描いた「設計図」をガイの直感が「実体」へと読み替え、膨大な魔力を注ぎ込んで再構築していく。


 中心部に集約された光の聖槍(グングニル)が、激しい咆哮を上げながらクラーケンの胴体を目掛けて放たれた。


 標覚を捉え、貫いたかに見えた光の槍。


 しかし、それは深淵海魔怪(クラーケン)のグニャリとした異常な弾力に飲み込まれ、魔力の残滓すら残さず消滅した。


「こんの、イカ野郎がぁ……ッ!」


 苛立ちを隠さずリンが吠える。ギョロリと、深淵を映す闇が二人を捉えた。


 船を粉砕するほどの触手が、獲物を仕留めるべく猛スピードで迫る。吐き出される漆黒の墨が、身を掠めるたびにジュッと岩盤を溶かした。


「くそ、酸まで吐きやがる!」


「リン!! 後ろ!!」


 舌打ちの間も許さない。リンの製図が追いつかないほどの猛攻。墨を躱した死角を狙い、太い触手がリンを捕らえようと伸びた、その時ーー。


 ゴブッッッッ!!!


 深淵海魔怪(クラーケン)が、文字通り横に吹き飛んだ。


 いかなる攻撃も飲み込んだ弾力に優れた巨体が、一撃で「くの字」に折れ曲がり、数メートル先の壁面に叩きつけられる。


「なぁに遊んでるんだ。まさか、それが本気か?」


 この場にあまりにも不釣り合いな、退屈そうな声が響き渡った。


「レオン!?」


「遅いよ、レオン! 何してたのさ!!」


 驚くリンの隣で、ガイが不満げに頬を膨らませる。


「あぁ? あのくらいは二人で何とかすると思ったんだよ。全然ダメじゃねぇか。お前ら、帰ったら鍛え直しだからな?」


 ケロリとした顔でダメ出しをするレオンに、二人は「うへぇ」と顔を顰めるしかなかった。


 吹き飛ばされた深淵海魔怪(クラーケン)は、自らの身に起きたことが理解できず、目を激しく動かしていた。だが、やがて太い触手を大きく振りかぶると、怒りに任せてレオンの脳天へと叩きつける。


 ドォォン、と重苦しい音が響く。


 しかし、レオンはそれを容易に片手で受け止めていた。ぬめりのある皮膚を意にも介さず、ミチミチと音を立ててその指先を触手へ食い込ませる。


「ここは、お前の場所じゃない。……食い千切られたいわけじゃないだろ、分かるな?」


 金色の目が、獲物を捕らえる獅子のような獰猛な光を放つ。


 それは魔力による攻撃ではない。ただの「殺気」と「格の違い」による、本能への直接的な支配。全身から立ち上る圧倒的な王者の威圧に、深淵海魔怪(クラーケン)はビクリと硬直した。


 本能が、生存の限界を告げる警鐘を鳴らす。


 恐怖に屈服した深淵海魔怪(クラーケン)は、震えながら触手から力を抜いた。……そして、呆気ないほど静かに、音も立てずに海の底へと沈んでいったのである。


 最後に、水面にプクリと気泡が浮かぶ音だけが、静まり返った洞窟に響いた。


「……いいのかよ、逃がして」


「ヤツの身にもなってみろ。自分の住処の上で喧嘩がうるせえなって出てきただけなんだから、『ごめん』って謝るのが筋だろう」


 肩をすくめるレオンに、リンは冷めた視線を送った。


「ボコボコにぶん殴るのは、『ごめんと謝る』じゃねぇよ」


「レオンの中で『帰れ』は『ごめん』なんだ……。すごいね……」


 せめて知っておいてほしい。

 圧倒的な理不尽に身も心も削られたのは、深淵海魔怪(クラーケン)だけではないということを。


 この時、リンとガイは気づかなかったが、岩陰で見守っていたマリウスが小さな声で「……かっこいい!」と呟き、キラキラとした瞳をレオンに向けていたことを、マリーナだけが見ていた。


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