あたしが紅色の黒猫
紅い。紅い。紅い。紅い。紅い。
血は、紅い。紅い。紅い。紅い。
掌は、紅い。紅い。紅い。紅い。
染まってる。紅い。紅い。血で。
狂った殺戮者があたし。
紅色の殺戮者があたし。
狂う裏現実者があたし。
紅色に染まるコートを羽織る。仕込んだナイフの重さの分だけ感じた。今まで浴びた返り血の重さは、微塵も感じない。
殺戮した人間の重さなんて、あたしの肩にはかかってない。あたしは初めから背負ってなんかいないんだ。
ブーツにもナイフを、カルドを腰に、腕に短剣を仕込む。
準備完了で部屋を出る。
「準備できました」
そう言ってソファの肘掛けに腰を下ろす。既に準備が出来た一同がいた。
「じゃあ行こうか」
真っ白な服を着た白瑠さんが立ち上がって笑いかける。
翌日の夜に動いた。
すぐに動くには準備が出来てない為、今夜動くことになったのだ。
タヌキが幸樹さんに話したあたしを殺そうとした理由は、店で騒いでいたからだった。
あまりにも殺人鬼をバカにした口振りが頭にきたと。
紅色の黒猫を貶したことに反応したことは間違いない。
そして、たまたまあたしが捨てた盗聴機で確信した。
―――――タヌキは黒だ。
「不機嫌ですね、椿さん」
藍さんのバンで移動中に幸樹さんがあたしに話し掛けた。
「まさか。不機嫌ではありません」
あたしは刺々しく返す。少なくともご機嫌ではないのは確かだ。白瑠さんと違ってニコニコする余裕はない。寧ろ一人関係ない人間を引き裂きたい気分だ。
「ずーっと、落ち着かなかったもんねえ?」
ひゃひゃ、と笑いかける白瑠さん。あたしはちらっとだけ見て足元に視線を戻す。
髪をいじったり足組みを変えたりする。落ち着けない。
腕組をして息を吐けば幸樹さんにクスと笑われた。
「落ち着きのない小娘だな」
扉の隅に座っているラトアさんがそう独り言のように洩らす。
「いい加減、名前で呼んでくださいよ。ラトアさん」
「紅色の黒猫」
「それは二つ名です。お忘れですか? あたしの名前は椿です」
そう言えば名乗るなんて久しぶりだ、とぼんやり思った。
「椿、か。花の名前だな」
「はい」
「……。何故隣にくる?」
「なんとなく」
なんとなく、ラトアさんの隣に座ってみた。
「ちゃんと話してなかったので。ラトアさん、歳いくつですか?」
「何故話さなければならない」
「待つ間の暇潰しです。それにあたし、吸血鬼に興味があるので」
暇潰しだけど、吸血鬼に話を聞きたかったのは本当だ。
「吸血鬼に興味だと?」とラトアさんは鼻で笑い退けた。
「お前は入りたてだったな。ふん、吸血鬼になりたいとでも思ってたのか?」
「ええ、まぁ。映画で吸血鬼のアクションを観て超憧れてたんですよ。でも人間は吸血鬼になれないんでしょう?」
当然だ、と言う前に「どの映画だ?」とそっちの話題の方に食い付いたラトアさん。
何故か吸血鬼映画の話で盛り上がった。
「あのヒロインはかっこいいですよね」
「アクションヒロインの中でずば抜けてかっこいいな」
「吸血鬼だっていう点がまたかっこよくてあたし好きなんですよー」
「あの映画は吸血鬼をよく描いている。大抵はアダルトばかりだからな」
「ですよねー。しかも日本じゃあヒットしないのもあたし気に食わない」
意見が合っちゃった。
運転中の藍さんまで会話に入って、これが済んだら映画観賞会をやろうという話になった。
そうこうしてるうちに、例の漫画喫茶に到着。
「じゃあ合図のきっかり十秒後に五分間電気を切るからねー」
「了解です」
「よし、じゃあお決まりのアレをやりますか!」
「いつからお決まりになったんです……?」
張り切って白瑠さんが右手を差し出す。これをやるのは二度目だ。
「今回はチーム紅色の黒猫ですね」
「これやる度に改名するんですか?」
「ふん、幼稚だな」
「えー、楽しいじゃん。ぐふふ」
「ひゃひゃ、チーム紅色の黒猫! 無事生還を誓って、さあっ!」
それぞれの右手を重ねてバッと放す。これをやった時は危うくあたしは死にかけたが大丈夫だろうか。
大丈夫だろうな。今回は一人行動ではない。右に吸血鬼、左に頭蓋破壊屋がついているのだから。
タヌキがまた殺し屋を雇っている可能性があるが、恐らく数が多いだけで実力は恐るほどではないと推測している。
あたしの勝ちは、一目瞭然なのだ。
どんなに偽者が殺し屋を揃えたところで、あたしが味方につけている殺し屋には勝てない。
バンを降りたのはあたしと白瑠さん、ラトアさん、幸樹さんだ。
幸樹さんは電気を切る係。
あたしと白瑠さんとラトアさんは突撃係。
万が一の為に死なないラトアさんが盾になってくれるとかならないとか。ラトアさんはこれ以上ないくらいに嫌な顔をしていた。
それはそうだ。いくら死ななくとも痛覚はあるのだから、蜂の巣にされたらたまったもんじゃない。
罠がないかと警戒をしながら階段を上がり、二階の漫画喫茶に入ろうとした。
先頭に立つのはラトアさん。
自動ドアが開いた瞬間に、ラトアさんじゃなくてもわかる。血のにおいが鼻にきた。
「んーひゃあ……こりゃ駄作だねぇ」
死体が転がるそこに白瑠さんは無警戒に迷いなく入っていく。
動かないあたしに「生きている人間はいない」とラトアさんは言った。
直ぐ様あたしは中に踏み込んで死体を確認した。
数は十数人。その中に、真田がいた。覚えてる顔見知りは彼女だけだ。
生気のない目は恐怖に見開いている。彼女だけが、乱暴な手口で殺されていた。
パックリと開かれた首の切り傷は何度も何度も切りつけられて出来たものだ。剥き出しになった骨にも傷ついているのがわかる。そして何で切りつけたのか、わかった。デザインカッターの刃が、骨に食い込んで残されている。
この手口。これは。
「暴力」
駄作だねと言った白瑠さんがそうあたしが見下ろす死体のそばにしゃがんで言った。
「とんだまねっこだねぇ。真似が下手すぎる。真似ようとしてるのかも謎だね。ひゃひゃ、ばっかみたぁい」
白瑠さんは、笑いつつも細めた眼だけは笑っていなかった。貶している。
「ふん。自分は特別だ、と戯言を喚く癇癪を起こした子供だな」
一通り店内を見回したラトアさんも貶すように鼻で笑う。
「あーそうそう。この人ならわたしのことを理解してくれるに違いない! なんて戯言な幻想を抱く感じ? あー気持ち悪ぅ、んひゃひゃひゃ。全く、勘違いもほどほどにしてほしいよねぇ。会ってもいないくせに勝手に同じ人間だ! って決め付けて同じことが出来るって思い込んで……あーあ、だめだなぁこぉれぇはぁ」
「華麗さも鮮やかさも美学の欠片もない」
「ちゅーとはんぱな破壊行為。人形でも切り裂いてろよって話だぜ」
「全くだ」
「こんなんでつばちゃんに成りきってんだぜ? 評判悪くなっちゃうよぉ、ねぇ? つばちゃん」
二人の話はわかるようでわからない。いきなり話を振られても、あたしは別に評判を気にしているわけではない。
少し死体を見ただけで犯人を分析した。なんだっけ? ドラマでみたな。ふろふぁいりんぐ?
「偽者は脆い。簡単に恐怖で支配できる。……少々厄介だがな」
「厄介? そんなことないよ。相手はドが何百個もつく素人だもん」
「この現状をどう捉えます? 逃走したんでしょうか?」
脆いや厄介や素人の云々の前に身柄を確保しなくてはならない。
「どうせ綺麗に処理するよう業者に頼んだっしょ」
「幸。聴こえたか? 標的は逃走。そう遠くに行っていないだろう」
〔ラトア、追えますか?〕
「追える。行くぞ、椿」
白瑠さんが立ち上がったあと、ラトアさんが通信機で幸樹さんと連絡して初めて名前を呼び先を歩いた。
喫茶を出て、バンに乗り込む。
「どう追うんです?」
「ラトアの鼻ですよ」
既に戻ってきた幸樹さんが答えた。気付けばラトアさんの姿は何処にもなく、通信機から声が聴こえてくる。ラトアさんが向かう方角にバンを走らせた。
ラトアさんは屋上から屋上に飛び回っているのだろうか。見てみたかった。
「ん……? この方角は……」
「んひゃ? なんかあんの?」
「いえ……ただ、駅だと思って」
昨日歩いた道だからすぐにわかった。
まさか電車で逃走したわけではないだろう。まだ時間がそんなに経っていないなら、終電はとうに過ぎているから電車ではないだろ、と思ったがラトアさんが停まったのは線路の上だった。
「この辺にいる」
フェンスにしゃがんで乗っかるラトアさんはそう答える。
「この辺?」
「この付近ににおいが在る。よくここをさ迷うのか、或いは隠れ家があるのか、あちこちにある。新しい血のにおいもするから、この近くに間違いなく居る」
なんともアバウト。犬みたいに突き止めるにはにおいが多すぎるそうだ。
「じゃあ手分けして探そうか。つーちゃん、行こう」
「どうしてあたしが白瑠さんと一緒にフェンスを乗り越えなくてはいけないんでしょうか」
手を掴まれそのままフェンスにつれていかれそうになる。
「だってつーちゃん、一人になったらまた不意打ち喰らっちゃうでしょ?」
「毎回不意打ちを喰らってません」
そう言い張っても決定事項らしく、フェンスを登る羽目となった。
「じゃあお嬢。瀕死の怪我を追わないように」と藍さんが笑いかける。
藍さんは非戦闘員なのでバンから降りないだろう。
「椿さん」
フェンス越しに幸樹さんに呼び止められた。
「死にかけたら許しませんからね?」
「……わかってますよ」
病院食チックはもうこりごり。
「お気をつけて」と優しく微笑みられた。
「そちらも」とあたしは返す。
幸樹さんは藍さんと一緒に駅前を探すらしい。
あたしと白瑠さん、それからラトアさんと一緒に閑散とした車庫を調べることになった。
駅、か。
なんともムカつく場所に逃げてくれたものだ。
でも。あたしの死に場所には。いい場所だろう。
そう一瞬だけ思った。
「白瑠さん」
「なぁに?」
「あたしのまねっこと、白瑠さんのまねっこ刑事は違うんですか?」
「違うねぇ」
真っ暗な電車を覗いて中を確認しながら、あたしは訊いてみた。白瑠さんはあっさりと答える。
そう言えば、真っ暗な電車を見るのは初めてだ。
「まねっこ刑事は俺の手口を真似ようと必死だった。頭蓋骨粉砕っていう芸当がね。でも今回の偽者の猫は手口を真似ようとしてない。真似ようとしてるのは手口じゃなくて『紅色の黒猫』っていう存在だ。その存在になりたくて殺しをやっただけ。君が銀行強盗したなら銀行強盗をしただろうね」
「…………そうゆーもんですか?」
「そうゆーもんだよ」と白瑠さんはいつもの調子で笑う。
「でもそれは白瑠さんでも同じじゃないんですか?貴方が銀行強盗をやれば銀行強盗をしたんじゃあ……」
「えー? それじゃあ俺、頭蓋破壊屋じゃないじゃん」
「……。ああ、わかった。手口ですね。頭蓋骨破壊が芸当すぎてまねっこ刑事は貴方を愛した。それであたしの偽者は、あたしが何をしてもそれを真似る。あたしというか『紅色の黒猫』に似ていると思い込んでいるから」
ちょっと遅れて理解する。憧れを抱いている部分が違う。
あたしが何をやらかしても偽者はあたしに憧れを抱いた。それがなんであれ、あたしのつまり『紅色の黒猫』の存在に惹かれた時点で。
「似ていると言うより、鏡と思ってるだろうね。鏡の向こう側の自分」
「…………うえ」
「気持ち悪いでしょう」
ひゃひゃひゃひゃ。肩を震わせて白瑠さんは笑う。
「でも偽者とつーちゃんは同じじゃなきゃ似てない。微塵もね。だって偽者は人形相手に切り刻んでるのがお似合いだもーん」
愉快そうに、でも不愉快そうに、機嫌よく、でも不機嫌に、白瑠さんはニコニコと笑いかけた。
「偽者は馬鹿だね。喚き方を間違ってる不器用な人間。そんな人間を甘やかす人間も相当馬鹿だ。そう思うだろ?」
「…………喚いてるんですか」
「喚いてるんだよ。『誰かわたしをみてー!』ってね。愉快だったろうねぇ、騒がれて、注目されて、優越に浸って幸せな気分に浸ってただろう。――――一時だけ」
ニヤリと意地悪な笑みを洩らした。今度は可笑しそうに笑う。
「でも直ぐに藍が否定の情報を流した。ネット社会はこわいこわい、んっひゃひゃ。頭にきただろうねえ。つーちゃんの貶す口調はもっと効いた。だから殺し屋が襲ってきたんだ」
脆い。否定されればすぐに逆上するような、そんな人間。だから厄介。
追い込めた。そうゆうことか。
「何故殺し屋だったんでしょう?」
「さぁー? 駅で殺戮じゃなきゃ『紅色の黒猫じゃない』とでも思ったのか、或いは甘やかす人間のお節介じゃないのかなぁ。どちらにせよ、もう制御できなくて破壊行為に及んだってことだね。あれは恨みがあって切り刻んだんだよ」
あたしはもう口を閉じた。
全く至極不愉快だ。
逆上での破壊行為。逆恨みのなにものでもない。
そんな人間があたしの鏡?
そんなわけあるか。あたしは鏡に映る自分に見とれる趣味なんてない。
「つぅーばぁーちゃあん」
一人不快になっていれば白瑠さんが顔を近付けてきた。
「俺達は、そんな偽者とは違うよ」
そう笑いかけてあたしの頭を撫でる白瑠さん。
違う。
狂った殺人者だけど同じじゃない。違う。
――――何が? 何処が?
感情も理由も美学も動機も、まるごと無いも同然だ。
殺人は殺人なのだから。
「通信機。つけてること忘れてないか?」
電車の屋根からラトアさんが声をかけてきた。ちっ、ラトアさんが暗闇から着地するのを見逃したぜ。
そう言えば通信機はただ漏れだっけ。別に聞かれちゃまずい話ではないので聞かれてもいいのだが。
「二つ隣の車両の扉が開いている」
その言葉が意味しているのは、“そこにいる”と言うことだ。
「電車好きなんでしょうか」
「さーあ? つーちゃんが好きだと思ってるんじゃん?」
地上に降りたラトアさんの案内で、その電車に向かう。
「タヌキを見つけました」
通信機から報告が入る。
「殺しますか?」
「……任せます」
「そちらは殺さないように」
「わかってますよ」
昔のよしみで殺しにくいんじゃないかと思ったが、殺し屋なのだから殺せるだろう。それに殺さない手段もある。それは彼に任せよう。
殺さないように、と注意されて肩を竦める。
怪我を負うな、殺すな、って丁度よくできないっつーの。あたしは極端なんだ。
ラトアさんの言う通り、二つ隣の電車の扉が開いていた。
ただあたしは白瑠さんに目を向ける。鼻からわかっていたのかそのつもりだったのか。あたしをドアに押し込んでくれた。
連絡する、と言いかけたが通信機の存在を思い出して言うのをやめる。
何も言わずに白瑠さんは笑顔で手を振った。
ラトアさんはただ突っ立てあたしを見送る。
あたしは何も言わずに、真っ暗な車内を歩いた。
街灯で僅かに視える中で、眼が慣れて真っ直ぐ先を見つめる。灯りのない電車とは珍しくていい。新鮮だなぁ、と暢気なことを思う。
揺れる音なんてなく、足音だけが沈黙の車両に響く。
広告は暗くてよく見えない。読む気なんてないから問題ない。
暗闇が、血と入れ替わって視える。思い出す。血塗れの車内。
死体が転がり、血溜まりが広がる。
ガタンゴトン。揺れを思い出す。
息を吸っても、血のにおいはしない。
ガタン、ゴトン。その音を揺れを思い出して、昨日のことを思い出した。
抱き締めた背中の感触は思い出せる?
それは無理だ。曖昧でなんだったかなんて、どんなんだったかなんてわからない。
たった一瞬だった。
もう一秒。ううん、もう三秒ぐらい、一分ぐらい、すがり付いて抱き締めたかった。そうしていたかったんだ。
境界線のあっち側。
優しくていい人、篠塚さん。
安堵に包まれたくて、あの手に撫でられたくて、でも所詮は裏と表。
届かない。壁がある。あたしはそちら側の人間なんかじゃない。
優しさは要らない。安堵なんて要らない。暖かさは、天国から地獄に落とす材料でしかないんだ。
ただ、冷酷に何も求めず何も感じずに何にも靡かずにいればいい。
期待なんて打ち砕かれるだけ。
希望なんて光を失うだけ。
何も、望んではいけない。
裏切られる。
「…………」
漸く、見つけた。
偽者の殺戮猫は、ど真ん中に横たわっていた。
丸まって、猫のように眠るように目を閉じている。
「みーつけた」
そう声を掛ければ、偽者は目を開いてぬくっとゆっくりした動作で起き上がった。
不機嫌に睨む目付きで、あたしを見上げる。
「……何の用ですか」
今にも噛みつきそうな口調で――――猫山さんは吐き捨てた。
「自分を棚上げにしますが、おいたが過ぎましたね。猫山さん」
あたしは冷めた口調で言う。
「車内で殺戮後に自分のバイト先で自慢気に言い振り回して、楽しかったですかぁ?」
感情を込めず淡々と、座席に腰を降ろして続けて言う。
「あたしに貶されて、悔しかったですかぁ?」
「…………」
「生きて戻ってきて、さぞ驚いたでしょう? あたしは貴女が殺しにくることを期待してたんですよ」
わざとらしく、溜め息をついた。
「貴女は自首をします」
それを口にした瞬間に、猫山さんは動いた。立ち上がるのと同時に長包丁を振り上げて襲いかかる。
あたしは横に飛んで避けた。
長包丁は深々に突き刺さる。
「人間以下のカース」
「うあああっ!!」
面白いくらい逆上する。
座席から長包丁を引き抜いてあたしを引き裂こうと向かってきた。
真っ直ぐ過ぎて避けるのが容易い。これは笑える。ふっとあたしは笑った。
「なんで電車で大量殺人をやったんですか? 偽猫さん」
「うがああ!」
「なんで店の人間を殺したんですか? 偽者さん」
「偽者じゃないっ!!!」
「偽者じゃない?」
嘲笑いながら車内を飛び跳ねて長包丁を避ける。
「じゃあ、アンタ、誰よ?」
座席の上でポールを軸にぐるり回って、見下す。
「我は紅色の黒猫!!」
怒鳴るように名乗りをあげて彼女は長包丁を振った。跳ねてあたしはそれを避けてから腰からカルドを引き抜き、振り下ろす。
ガキィン。
刃物の刃がぶつかり合い弾く。
「違う。貴女は偽者。知ってる? 貴女がやってるのは――――下手な猫写し」
「うっ、あああああああああああああああ!!!!」
咆哮。
無邪気で無垢な顔なんて跡形もなく、歪んだ表情で彼女はあたしに切りつけようとした。その全ての攻撃をあたしは弾いて受け流す。
猫被りと笑顔の見分けができないなんて、あたしも視力が落ちたものだ。
盗聴機が拾った音はきっちりと藍さんが録音していた。猫山さんにつけた、盗聴機。
――――…あの女を殺して。
そう猫山さんはタヌキに言った。接客をしている声とは似つかない声で、あたしを殺せと頼んだ。
「なんでまだ生きているの? 殺して。殺してよ。あの服が欲しい。欲しい」
「……できないんだ。昔の誼の妹だから……敵にするには少し骨が折れる奴なんだ。だから、できない。彼女だけは許してあげて」
「貴方に殺せないならわたしが殺す。許さない。わたしを笑ったのよ。嘲笑ったの。貶したのよ。紅色の黒猫を。殺してやる。恐怖で震わせてやる」
全く、顔に似合わないことを言いやがる。
タヌキと猫山さんがどんな関係かはわからないが、どうやら白瑠さんの言う甘やかす人間がタヌキだ。
だからタヌキは、あたしと幸樹さんを殺すと言った。
甘やかすとろくな人間にならない。
「わたしが紅色の黒猫だ! わたしだ!! 紅色の黒猫がわたしだ! 紅色の黒猫がわたしで私が紅色の黒猫なんだ!!!」
「――――…ちっ。うぜーよ」
あたしは苛ついて思わず舌打ちをした。切りつけては殺しかねないので蹴り飛ばす。
女の子の体は容易く吹き飛び転がる。
耳元では幸樹さんが銃撃でも受けているのか煩い。だから通信機を外してポケットにしまう。それでもこちらの会話は聴こえるだろう。
「あの刑事もキモくてウザくてしかたなかったけど、アンタもウザイ。意味がわからない。どこに憧れを抱く? ただ殺してるだけだぜ? 人間を一方的にね。それがかっこいいと言うの?アンタさぁ、頭大丈夫? 精神科に行けよ」
「うるさい…………煩い、煩い煩い煩い煩い煩い煩い!! てめえなんかに理解できるか!!」
「したかねーよ。てめえみてぇなキモいやつ」
冷たく吐き捨ててやれば、彼女はカッと赤面した。
「今までどんな人生を送ろうが、あたしはお前に同情も共感もしないよ。きっと。どんなに真似事をしたって、あたしってね、自分が大嫌いだから、胸糞悪い」
そんな彼女ににっこりと笑顔で告げる。
猫山さんは飛び掛かりあたしの心臓目掛けて包丁を振り上げた。それを叩き落として捩じ伏せ、もう一度蹴り飛ばす。
「げほっ……! う、ぐっ…!」
「本当なら殺してやりたいんだけどね。でもあたしの名前を勝手に広めた代償は受けてもらわなくちゃいけない」
「あ……!?」
「特別にプレゼントしましょう。表で好きなだけ、自分が電車を血塗れにしたって言えばいい」
「!!」
まだ床に腹を抱えて丸まっている猫山さんにカルドを振り下ろせば、転がって避けた。
「くっくっくっ……。監獄の中で、ね」
体勢を直した彼女に踏み込んでバグ・ナウを振り上げる。間一髪猫山さんは避けて下がった。セミロングの髪の毛が束で斬れる。
「多分上手くすれば精神病棟に閉じ込められるだけで済むよ。まぁ、保証はしてあげませんけど」
クスクス笑って、走り出す猫山さんを追う。
振り回すバグ・ナウはポールをも切り裂く。カルドでつり革を斬って荒らす。
その音が、逃げる猫山さんの恐怖を増幅することを知っている。
猫山さんの逃げ足が遅すぎてあまり長くは走らずに済んだ。直ぐに追い付いて、あたしは彼女の膝を蹴り飛ばした。
「ちょっとくらい対抗したらどうなんです? 猫からもういたぶられる鼠に成り下がりました?」
仰向けに派手に倒れた猫山さんの腹に足を乗せて踏んづける。
「ぁああっ!」
あたしの足を振り払って猫山さんは立ち上がって長包丁を振り回した。がむしゃらに滅茶苦茶に、まるで蜘蛛の巣に引っかかった昆虫みたいに暴れる。
あー、つまんない。
バグ・ナウを長包丁に引っ掻けて取り上げて闇の方に放り投げる。凶器はそれしか持っていなかったらしい。終わりだな。
カルドの柄で溝を叩き、二段蹴りを喰らわせる。そのまま倒れることを許さずに、頭を掴みポールに叩き付けた。
呻き声を洩らして猫山さんは崩れ落ちる。
「不愉快。アンタさ、何様? ちゃんと自己分析しなさいよ。あの人はあたしに似てる! だからあたしはあの人になれる! ――――…なんてバカな戯言を思ってる? 気色悪い。似てるだの同じだの、勝手にほざくな」
「……あなた……何言ってんの!?」
「まだわかんないの?」
呆れて溜め息を溢す。
あー、もう疲れた。
もう二人を呼ぼうかと思った矢先に、パッリーン。
窓ガラスが割られた。
四人の男達が襲撃。裏現実者――――タヌキが雇った殺し屋か。
「!」
あたしに出来た隙をついて猫山さんは左足にしがみついてバランスを崩そうとした。あたしは左足の膝で猫山さんを蹴って車内に侵入した男三人女一人の殺し屋から一旦距離を取る。
「――――随分と、過保護な、狸だこと」
ギリリリリリ、とバグ・ナウで床を引っ掻く。
もしかしたらタヌキの元にも殺し屋がいて幸樹さんは苦戦しているかもしれない。通信機をつけ直したいがそんな暇はくれないようだ。
「――――ははっ! はははっ! 死ね! 死んじゃえ!! きゃははははははっ!!」
勝った気でいる猫山さんは高らかに笑う。味方がたった四人駆け付けただけでどうして勝った気でいるのだろうか。
「何が可笑しいの? 偽者さん。あたしはタヌキさんに仕向けられた殺し屋を五人返り討ちにしたんだけど」
「はっ! あいつらと比べるな。おれだってあいつらを一人で血祭りにできる」
猫山さんに言ったつもりが返事をしたのは一人の男。下品な笑みをにやにやと浮かべている。
「ふぅん……? 腕に自信あるの? お兄さん達」
しゃがんだ体勢であたしは見上げた。二十から三十代だろう。
「プロの殺し屋よ。チームジェット9と言えばわかるでしょう、お嬢ちゃん」
女が見下しながら言った。
「さぁ? 聞いたことありませんね。あたしは成り立てで、裏現実のルールさえイマイチ知らないんですよ。わかりやすいように、頭蓋破壊屋より強いか弱いかを答えてくれると嬉しいです」
立ち上がって背伸びをする。そんな隙だらけのあたしに飛び掛からず、殺し屋達は失笑した。
「そんなこと訊いてどうする?」
「師匠より弱ければなんとかなると言うことで、殺戮します」
「はぁ? 師匠? 頭蓋破壊屋の弟子とでも抜かすのかよ! そうだとしても! 頭蓋破壊屋だって殺せるぜ!」
「へえ、そりゃすごい。是非殺ってるものなら殺ってくださいよ、その辺にいますので」
「下手な冗談を言うお嬢ちゃんね」
「冗談は嫌いです。でも頭蓋破壊屋を殺せるっていう冗談は面白かったから、貴方は殺さないでいてあげます」
あたしは、頭蓋破壊屋のように、笑みを浮かべた。
「その他三人は、殺戮してあげる」
屋内ならあたしの得意フィールド。車内ならなおさら。だってここは。
最初に殺戮した場所だ。
あたしはスタートダッシュで女殺し屋の懐に入り、首を跳ねた。
その勢いを殺さず身体を捻ってバグ・ナウを女の斜め後ろにいた男の首を引き裂くため振り下ろす。座席に足をついて、飛び上がり、その足を下品な笑みを浮かべていた男の顔に叩き付けて蹴り飛ばし、着々と同時に最後の一人の喉元をバグ・ナウで引き裂いた。
血飛沫と返り血が酷く、べったりと顔から血をまたもや被ってしまったので、手で拭う。
「ぁ……あ……?」
「……な、なな……何者だよ!?」
生存している二人から余裕は消え失せて困惑と恐怖の色を隠しもせずあたしを見上げた。
「――――――――…紅色の黒猫」
あたしは無感情にその名前で名乗る。
「別に覚えなくてもいいですよ?」
それから無邪気を装ってにっこりと笑ってみせた。
「べ……紅色の黒猫……!? あのっ!?」
倒れたままの男は起き上がるのを忘れて後退りをする。
「そ、その女ならアンタの好きにしろ! お、おれは命がほしい! 見逃してくれ!!」
そして無様にも猫山さんを、売った。
「別に貴方に言われなくても好きにしますよ。それに、あたしはもう貴方を見逃してあげました。命乞いをする相手を間違えてます」
カルドを振って血を振り払ってから鞘に収める。
がしり、と男の顔を闇から出てきた白瑠さんが鷲掴みにした。
「んひゃひゃひゃあ。君が俺を殺せるってほぉんぅとぉ?」にやにや、と白瑠さんは可笑しそうに笑う。
「ぶぁーあ、頭蓋破壊屋でぇす」
そう名乗って、男が命乞いを、悲鳴を上げるよりも先に、頭蓋骨を破壊した。
邪魔は排除。
「通信機を持つ意味あるのか。ちゃんと聴いておけ。幸の方はカタがついた」
音もなく座席に腰を降ろしたラトアさんが言う。幸樹さんはもうタヌキを負かした、か。それではこちらは仕上げにはいるとするか。
「そんな、あなたが…………嗚呼、何てことなの……紅色の黒猫が…………わたしに会いに来てくれた!」
恐怖のあまり壊れてしまったのか、うっとりした顔で猫山さんはあたしを見上げた。歓喜の声を上げる彼女は鳥肌が立つほど気色が悪い。
そう言えば、白瑠さんのファンのイカれた刑事もこうだった気がする。
「素敵……なんて美しいの……!」
…………気持ち悪い。
「なんであたしなんかになりたがる?」とあたしは質問をする。
「わかるように答えてくれる?」
「そんな、理由なんてない! わたしはあなたであなたはわたしなんだから!」
その答えにあたしが顔を歪めるより前に白瑠さんが腹を抱えて笑い転げた。
図星だったのか。
勝手な妄想に取りつかれやがったイカれ女。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い
「……さっきの話をまるきり聞いてなかったみたいね。――――――…んなわけねえだろっ!!!!」
長い溜め息をついてから、あたしは怒鳴り声を轟かせた。驚いて白瑠さんの笑いがピタリと止まる。
「胸糞悪いって言ってんだよ。気持ち悪い! ゾッとする! 勝手に妄想してんじゃねえよ、脳味噌微塵切りにしてやろうか? 微塵切りにしても憎悪が消えそうにない。はっきりと現実を教えてやる。タヌキはどうせ何も言わないんだろ。お前のことを、あたしは理解してなんかいない!!」
猫山は眼を見開いたまま停止してあたしの罵声を聞く。ちゃんと脳味噌に届くようにあたしは見据えて吐き捨てる。
「お前が憧れてんのはあたしなんかじゃない! 勝手に造り上げた幻想の『紅色の黒猫』だ! 幻想に恋して勝手に踊ってんだよ!」
「ちがっ……!」
「違う! じゃあお前はあたしの何を知ってるんだ!?」
震えて首を横に振る猫山さんに責め立てるように問い詰めた。
「車内の殺戮を見た? 被害者なんて見たことないでしょう。アンタは架空の人間に幻想を抱いて憧れて猿真似してばかやってるだけなんだよ」
「そんっ、違うっ! 知ってる! わたしは知ってる! あなたはっあなたは! 殺戮が楽しくてしょうがない!! わたしが裏現実に入ったのと同時で! 頭蓋破壊屋に並ぶ神の域の存在! 冷酷で、誰も信用してない! 誰にも靡かないで周りを狂わせてそれが楽しくてしょうがない人なんだよね!? 自分を理解しない人間も何もかもが嫌いで殺したい! そうでしょ!?」
震えながら今にも脚にすがりそうな彼女は悲鳴のように言った。それに対してあたしは冷たく見下して告げる。
「それがアンタの幻想だ」
見た目だけで中身を決め付けられるのに、会いもしないでそう決め付けられるなんてたまったもんじゃない。
「知ったかぶって、理解ぶってんじゃねーよ。イカれ女」
しゃがんで、視線を合わせて、淡々と云う。自分を棚にあげて。
「誰かを理解できる人間なんて存在しない、あたしはそう思ってる。アンタ、何一人になってんの? 自分に興味を惹かせる方法、間違って、独りぼっちになってるわよ。理解者がほしいの? あたしはならないわよ。なれないよ。あたし、貴女のこと大嫌い。頭にきてるの。おわかり?」
返答なんてない。
「タヌキは? アンタの理解者なの?」
「………………」
「訊いてんだよ」
答えろ。絶望した顔の彼女の首を掴む。
「……あんなの……ただの手足……ただの道具……! 理解者は貴女だけ!!」
「ふぅん。アンタのこと微塵も好きになれないわ。気色悪」
あたしはパッと放す。触りたくもない。
「もういいや。事情は勝手に推測しておくわ。すぐに忘却しておくけど」
あたしは立ち上がって背伸びをする。もう完全に飽きてきた。つまらない。
面白い要素は何一つ見当たらない。存在しない。
「じゃあ、あとはラトアさんに任せますね」
「……何か言っているぞ」
座席に座ったままのラトアさんは猫山さんに目を向けていた。耳をすませば、確かに何か言っている。
再びしゃがんで「何です?」と問う。
「殺して」
生気のない、何もかも諦めた声で、そう囁いた。
「貴女に殺されて死にたい」
とんだファンだ。
あたしは溜め息よりも先に、にっこりと笑った。
「いやだ」
頭蓋破壊屋のような、猫のように目を細めて、楽しそうなフリをして、笑う。
そして思いっきり、否定を込めて強く答えてやった。
「殺し、楽しくないもん」
立ち上がり、もう二度と彼女に目を向けない。
「じゃあお願いします、ラトアさん」
「…………もう、十分に恐怖を植え付けたようだがな」
「まさか」
あたしは肩を竦めて、ラトアさんの横を通り過ぎる。
身代わりとして警察につけ出す為に、恐怖で支配するんだ。マインドコントロール。恐怖で隙だらけの脳内に望み通り自分は紅色の黒猫だと植え付けてやる。全ては自分がやったと、言わせるのだ。
裏の歴史を生きてきた、闇を生きてきた吸血鬼だからこそ、簡単に出来る。とか。
簡単に言えば、催眠術だ。
人間ではできない、吸血鬼だから出来る。芸当だと、幸樹さんは言っていた。
「幸樹さんとこに行きますね」
欠伸を洩らしてあたしは一人電車から降りる。
ラトアさんから居場所を訊いて向かう。白瑠さんは口を閉じたままだった。
幸樹さんの元に着けば、まだタヌキは生きていた。
隠れ家であろう部屋は弾丸の穴や斬り込みで滅茶苦茶。死体は一つだけ。
「頼む!! あの子を殺さないでくれ!! 妹がいるならわかるだろ!? あの子は……妹みたいな存在なんだ! 頼む!! 見逃してくれ!」
立ち尽くす幸樹さんの脚に無様にもすがり付いてそう頼み込んでいた。
「……哀れですね、タヌキさん」
「……紅色の……黒猫……」
声を掛ければ、二人は振り返った。幸樹さんからもうあたしが本物だと聞いたのだろう。そもそも、名付け親は幸樹さんだ。
「そんな無様になってまで守る価値のない人間です」
「オレには大事な子なんだ!」
「ふっ……。彼女、貴方のこと、手足だと道具だと言ったんですよ? 貴方が想ってても、彼女はなんとも思ってない。愛しても、愛されません。今後も、ずっと」
あたしはしゃがんで目線を合わせて、にっこりと微笑んだ。
そうしてもう一度云う。
「アンタ、哀れだ」
尽くしても、想いが届かない。尽くす相手を間違えてる。大事にする相手を間違えてる。愛する相手を間違えてる。
「彼女は貴方の何もかもをダメにしてます。想いも愛も。なんで甘やかしちゃったんです?」
別に、答えは必要としていない。
「さて。妹を失ったところですし……選択肢を選ばせてあげましょう。殺されないか殺されるか。あたしに関わらず生きることを約束するなら見逃しましょう。どうします?」
生か死か、本人に問う。
本人──タヌキは、俯いたまま囁くように答えた。
「殺してくれ」
だから、と付け加える。
「あの子は見逃してくれ」
全く、と溜め息を溢した。
「それはできません。全く、哀れな人だ。無駄にしてんじゃないよ、優しさを愛を命を。もうちょっと、まともで、自分の存在を有り難く思っている人を大事にしなさいよ」
ばからしくて笑えない。
あたしはカルドを掴んでもう一度問う。
「死にますか? 生きますか?」
「――――殺してくれ」
答えは、変えなかった。
ぐしゅっ、と見覚えがあるナイフがタヌキの喉元に突き刺さる。
幸樹さんが、殺した。
一思いに? 要望に応えて?
どうだかわからないが、幸樹さんはタヌキを殺した。
「あちらも終わったことですし……帰りましょうか、椿さん」
しゃがんだままのあたしを抱き締めるようにして立たせて、幸樹さんは穏やかに言った。どうやら催眠術も済んだらしい。
幸樹さんがタヌキから聞いた事情。
あたしが電車を血塗れにする少し前に、猫山さんは家族を皆殺しにしたそうだ。皆殺しにして、そのあと、助けを求めたのが通っていた漫画喫茶の店長であるタヌキ。タヌキは助けることにして、死体を処理した。
それを機にタヌキは彼女を裏現実に誘い、面倒をみることになったと言う。
裏現実を知り、そのあと直ぐにあたしのニュースを見た猫山さんは、強く惹かれた様子だったそうだ。
紅色の黒猫という名を知り、火がついたように騒いでいた、と。最初はかっこいいのだの、凄いだの、を言うだけだった。
しかし、ある日。血塗れになって帰ってきた彼女はこう言った。
「我は紅色の黒猫なり」と。
タヌキが処理を頼むより早くに彼女がやらかした血塗れ電車は発見されて、ニュースに大々的に放送されることになった。
もしも処理が間に合っていたならば、あたしは動かなかっただろう。ネットで言い触らしているだけなら、あたしは眼中にもいれなかった。
この胸糞悪い気分で終わりを迎えることもなかったはずだ。
あたしと彼女は似てる?
そんなわけない。
あたしは家族を殺してないし、殺戮後に誰かに助けを求めなかった。
白瑠さんが現れても、あたしは助けは乞うことはしなかった。
彼から手を差し伸べたのだ。
だから。
違う。
この件は終りだ。
気分悪いまま幕を閉じる。
すっきりも、しないまま終わり。胸糞悪い。
そんな気分は長続きしなかった。
猫山さんを警察署に置き去りにして帰ってきた翌日に、あたしは拷問を受けていたから。
「さて。先ずはどうしてキスをしたか理由をお訊きしましょう」
にっこり、目の前にいる幸樹さんが優しく威圧感を突き付けて言う。
顔が俯いてしまうのは当然。
あたしはリビングの椅子に座らされて、幸樹さんと藍さんに囲まれていた。
ラトアさんは朝なので熟睡中。畜生。せっかく仲良くなってまともな味方が出来たと思ったのに。
白瑠さんは、テレビの前のコーヒーテーブルにすがり付いている。むっすりした顔。
「ぶー…………」と口を尖らせていた。
「えーと…………ほら。秀介くんと裏現実者を殺した日。あの時にストーキングしないという約束を……守ったら……してやると……」
「あー、なるほど。なんですか? 椿さん、貴女は手段のためなら身を削るのも構わない。そうなんですね?」
「…………あの場合……それが最善だと思ったんですよ……。ほらっ! 幸樹さんだって秀介くんが家に突撃するのは困るでしょ?」
「あっれー、確かお嬢。シュウ、って親しげに呼んでなかったぁ?」
「藍さんは黙ってください! 今幸樹さんと話してるんです!!」
二人から尋問。
拘束され無理矢理聞き出されるよりましだが、しんどい。
何故か秀介との会話は録音されていてそれを何回も再生して言葉の意味を一々訊いてきた。勘弁してくれ。
あたしは年頃の女の子なんだ!
でも交際するつもりはない!
だからといって遊んでるわけじゃない!
数時間にもわたる拷問の末、幸樹さんからある約束を交わされた。
「手段のために自分の身体を売るのはもう二度としないでください。コスプレも、キスも、当然寝るのもいけませんよ」
誓ってください、と幸樹さんは小指を立てて差し出す。
指切り? 子供扱いしてるのかな……。
指切りをすればこの拷問から解放されるなら、とあたしは右手の小指を絡ませた。
そうすれば微笑んだ幸樹さんはあたしの頭を撫でる。
大きくて包容力がある優しげな手がくしゃりと撫でた。
そう言えば、あたしって。
今、あたたかい場所にいたんだった。
あまりにも当たり前で忘れていた。
当然だ。当たり前が消えた時の喪失感は、酷いくらい大きい。
当たり前の、あたたかい場所。
あたしはこれでも――――この家に帰ってきて安堵してる。
きっと――――ここで生活して、幸せを感じているはずだ。
でもいつかは、ここも、無くなる。
だからあたしは。
だから。
覚悟してる。
最初から、失くすと覚悟している。
――――してる、フリをしているだけ。
それは知らないフリ。
きっと酷いくらい強烈な痛みなんだと思う。
でも。
失う時はきっと。
きっと。
あたしが死ぬ時だ。
――――――――――――ガタン、ゴトン。
目を閉じて、揺れを感じて、音を聴く。
ガダンガダン、ゴトン。
静かで穏やかな一時だけ、眠る。
テレビは今、『“レッドトレイン”犯人逮捕』のニュースばかりが流れている。思惑通り、偽者に罪を擦り付けることに成功した。
犯人は自分がやったと供述をしている。そう言うようにラトアさんが細工したから当然だ。誘拐されたと思われてるあたしのことは、殺したと言わせている。
篠塚さんが――――何も言わないなら、きっと死んだことになるだろう。
あたしを目撃した彼は、何をしてるのか。戻ってあたしを捜したのかな。誰かに見たと言ったのかな。あたしは生きている、と言い張るだろうか。
あたしは、それを知ることはないだろう。
知ろうともしないだろう。
もう。あたしは。
表では存在しない人間だ。
裏だけの人間。
あの人と同じ。
世界に似ている人間は、きっといるはずだ。人間は似たり寄ったり。分類すれば少ない。
でも、同類はあの人だけだと思う。同類の中で限りなく近いのは、あの人だけ。
あの人と偽者は、全然似てない。
似てるところがまるきりない。何一つない。そう思う。
だからあたしは。
あの人の、手を取ったんだろう。
ガダンガダン。
殺戮の電車なんて、ただのイカれた殺人事件じゃないか。唯一の目撃者であるあの人は、一体。
何を――――感じたのだろう。
イカれた殺戮者が目撃したイカれた殺戮。
一方的に殺人。首を裂いて息の根を止めて悲鳴を掻き斬って飛沫を撒き散らして真っ赤に染め上げた車内。
真っ赤な真っ赤な真っ赤な真っ赤な紅色に紅色に紅色に紅色に紅色の紅色の電車。
ガタン――――ゴトン。
――――――――ごとっ。
血塗れの死体が落ちる音がした。真っ赤な電車。死体が乗車してる。血溜まり。
あたしはハッとして目を開いたが、死体なんてない。血だって一滴もない。
それは当然だ。
何度も何度も、電車を乗り換えて、やっと誰もいない車両に乗れて静かな時間を堪能している。
だから、死体なんてない。
ガタン、ゴトン。
でもどうしてだろう。
どうして、あの時と同じ、気分なんだろうか。
死体はない。血塗れではない。なのにどうして殺戮したあとと同じ状況だと錯覚するのだろう。
揺れる。揺れる揺れる。
緩やかな揺れる振動。
子守唄のような音。
ぼんやりすれば、見える紅。
それを見つめることにした。
大好きな紅色を見つめる。
ただ黙って。
何を考えることもなく。
見つめた。
あの人が――――。
――――あの時と同じように。
あの笑い声を――――。
――――あの笑みを。
このあたしに向けるまで。
「うひゃあ、ひゃひゃっ」
無邪気で楽しげな笑い声が、沈黙をぶち壊した。
end