番外編⑶「二人きりの休日――秘密の家デートと、穏やかな一日」
今回の番外編⑶では、地区大会初戦を四対一で勝利した翌日、久しぶりの休日を迎えた千鶴と肇の「二人だけの家デート」を描きました。
高校野球最後の夏が始まり、普段は野球部の練習や試合に追われている肇。
そして教師として授業を担当しながら、吹奏楽部顧問として三十人の部員を支える千鶴。
学校では「東雲先生」と「高橋君」として接する二人だからこそ、誰にも気を遣わず同じ家で過ごせる休日は、とても大切な時間になっています。
千鶴の手料理から始まる朝。
生徒や教師に気づかれないよう注意しながら行う、昼食と夕食のための秘密の買い物。
二人で協力して作る昼食に、午後から楽しむ恋愛映画。
三時には手をつなぎながらデザートを楽しみ、その後は同じテーブルで肇は勉強、千鶴は教師としての仕事へ。
そして一日の締めくくりとなる夕食は、今度は肇が千鶴のために腕を振るいます。
特別な観光地へ行くわけでも、華やかな場所へ出かけるわけでもない。
それでも二人にとっては、何気ない時間を一緒に過ごせることそのものが特別な休日です。
地区大会二回戦を前にした、束の間の穏やかな一日をお楽しみください。
地区大会初戦を四対一で突破した翌日。
久しぶりに練習が休みとなった肇は、いつもより少し遅い時間に目を覚ました。
「……朝?」
カーテンの隙間から柔らかな日差しが差し込んでいる。
時計を見ると、午前八時を少し過ぎていた。
キッチンから包丁の音が聞こえてくる。
肇がリビングへ向かうと、エプロン姿の千鶴が朝食を作っていた。
「おはよう」
「おはよう、肇。よく眠れた?」
「めちゃくちゃ寝た」
「昨日は試合だったものね」
食卓には、焼き魚、卵焼き、味噌汁、ご飯、サラダ。
「豪華だな」
「地区大会初戦突破のお祝いも兼ねてね」
「ありがとう」
二人は向かい合う。
「いただきます」
「いただきます」
肇が卵焼きを一口食べた。
「美味い」
「本当?」
「うん。千鶴の卵焼き好き」
「じゃあ、もう一つ食べる?」
「食べる」
千鶴が自分の皿から一つ移してくれる。
学校では絶対に見せられない二人の日常だった。
食事を終える頃、千鶴が尋ねた。
「今日はどうする?」
「何もしない」
「せっかくのお休みなのに?」
「だから何もしない」
「なるほど」
「家デートにしよう」
千鶴が少し笑った。
「じゃあ今日は、一日ゆっくりしましょうか」
二人はしばらく寄り添って、穏やかな朝の時間を過ごした。
◇◇◇
午前十時。
二人は昼食と夕食の材料を買うため、近くのスーパーへ向かうことにした。
ただし最大の問題がある。
教師と生徒。
二人が一緒に買い物をしているところを学校関係者に見られるわけにはいかない。
「時間ずらす?」
玄関で肇が尋ねる。
「それが一番安全だけど……今日は一緒に買い物するんでしょう?」
「そうしたい」
千鶴は考えた。
「だったら、とにかく学校の人がいたら距離を取ること」
「了解」
「それから学校では絶対に今日の話をしない」
「分かってる」
二人は人目を避けながらスーパーへ向かった。
店内でも必要以上に密着せず、ごく普通に買い物をする。
「昼、何作る?」
「パスタは?」
「いいね」
「じゃあトマトとベーコン」
「夜は?」
千鶴が尋ねる。
肇は少し考えた。
「俺が作る」
「肇が?」
「何その反応」
「失礼。何を作ってくれるの?」
「生姜焼き」
「いいじゃない」
二人で豚肉や野菜を選ぶ。
その時、肇が突然足を止めた。
「千鶴」
「何?」
「向こう」
同じ学校の制服を着た生徒がいた。
二人は瞬時に距離を取った。
千鶴は別の商品を見る。
肇も反対側へ。
生徒は二人に気づかず、そのまま通り過ぎていった。
しばらくして二人は再び合流する。
「危なかった……」
「だから言ったでしょう?」
「秘密の買い物って大変だな」
「本当にね」
それでも二人はどこか楽しそうだった。
◇◇◇
昼。
買ってきた材料をキッチンへ並べる。
昼食は二人の共同料理。
トマトソースのパスタとサラダを作ることになった。
「肇、玉ねぎお願い」
「了解」
「薄めにね」
「分かってる」
「そこ厚い」
「細かいなぁ」
「料理は大事なの」
「先生みたい」
「だから先生です」
二人で笑う。
千鶴がソースを作り、肇がパスタを茹でる。
途中で味見をする。
「どう?」
「美味い」
「本当に?」
「もう一口」
「それ味見じゃなくて普通に食べたいだけでしょう?」
完成した料理をテーブルへ運ぶ。
「いただきます」
「いただきます」
肇がパスタを食べる。
「共同料理、成功」
「そうね」
「また作ろう」
「今度は違うものね」
「いいよ」
何でもない昼食。
けれど二人には、それが特別だった。
◇◇◇
午後一時。
リビングのテレビで有料配信の映画を選ぶ。
「何見る?」
「恋愛映画」
千鶴が即答した。
「千鶴、こういうの好きだよな」
「悪い?」
「全然」
二人でソファに座った。
映画が始まる。
最初は普通に見ていたものの、物語が進むにつれて千鶴はすっかり夢中になっていた。
「絶対この二人、最後に付き合う」
「まだ半分だぞ」
「分かるの」
「教師の勘?」
「恋愛映画の勘」
終盤。
主人公たちがようやく気持ちを伝え合う。
千鶴が小さく息を吐いた。
「良かった……」
「泣いてる?」
「泣いてない」
「目赤い」
「映画です」
エンドロールが流れる。
二人は映画の感想を言い合いながら、しばらくソファで寄り添っていた。
学校では教師と生徒として距離を保つ二人にとって、こうした何気ない時間こそが貴重だった。
◇◇◇
午後三時。
「おやつにしましょう」
千鶴が冷蔵庫から買ってきたデザートを取り出した。
プリンと小さなケーキ。
「どっち?」
「千鶴が選んでいいよ」
「じゃあケーキ」
「俺プリン」
二人で並んで座る。
テーブルの下では、自然に手をつないでいた。
指と指を絡める恋人つなぎ。
「食べにくくない?」
千鶴が笑う。
「じゃあ離す?」
「……そのままでいい」
「だろ?」
片手でスプーンを持ちながらデザートを食べる。
「美味しい」
「プリンも食べる?」
「一口だけ」
「どうぞ」
「じゃあ私のケーキも一口」
「交換な」
午後の穏やかな時間が過ぎていった。
◇◇◇
午後四時。
「そろそろ勉強する」
肇が教科書を持ってくる。
「珍しい」
「俺だって勉強するよ」
「野球だけやって卒業できるわけじゃないものね」
「それ言われると困る」
千鶴も学校から持ち帰った資料をテーブルへ置いた。
「私は仕事するから」
「吹奏楽部?」
「それと授業の準備」
二人で同じテーブルへ座る。
肇は問題集。
千鶴は授業資料。
しばらく無言の時間が続いた。
「千鶴」
「何?」
「これ分からない」
「どれ?」
千鶴が問題を見る。
一瞬で教師の表情になった。
「ここは、その前の問題と考え方が同じよ」
「分からない」
「ちゃんと読んだ?」
「読んだ」
「本当に?」
「……半分」
「もう」
千鶴が説明を始める。
家でも教師。
肇は思わず笑った。
「何がおかしいの?」
「学校と同じだなって」
「勉強を教える時は同じです」
「はい、東雲先生」
「そこだけ学校みたいにしないの」
◇◇◇
午後六時。
今度は肇がキッチンへ立った。
「今日は俺の番」
「本当に一人で大丈夫?」
「大丈夫」
「焦がさないでよ?」
「信用ないな」
生姜焼き。
千切りキャベツ。
味噌汁。
ご飯。
千鶴は手を出さず、リビングから見守る。
「千鶴」
「何?」
「味見」
千鶴がキッチンへ。
「どう?」
一口。
「……美味しい」
「その間なんだよ」
「ちゃんと美味しいわよ」
「よし」
完成した料理を並べる。
「いただきます」
「いただきます」
千鶴が生姜焼きを食べた。
「本当に美味しい」
「良かった」
「また作って」
「いいよ」
「地区大会の後でも」
「じゃあ優勝祝いに作る」
千鶴が笑った。
「まだ早いでしょう?」
「目標だから」
「まず次の試合」
「分かってます」
◇◇◇
夕食後。
二人は一日の疲れを落とし、ゆっくりと入浴の時間を過ごした。
「今日、結局ほとんど家だったな」
「家デートなんだから、それでいいでしょう?」
「楽しかった」
「私も」
映画。
デザート。
勉強。
料理。
特別な場所へ行ったわけではない。
それでも一日中一緒に過ごせた。
「次の試合が終わったら、また休みあるかな」
「勝ち進んだら難しくなるんじゃない?」
「そうだな」
「だったら今日は貴重だったわね」
「うん」
千鶴は微笑んだ。
「まずは二回戦、頑張って」
「任せて」
「無理はしない」
「はい」
「一条先生と前薗君の言うことをちゃんと聞く」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
二人で笑った。
◇◇◇
午後十一時。
一緒の寝室。
照明を落とした後、二人はベッドで寄り添っていた。
「今日、一日早かったな」
「楽しい日は早く感じるものよ」
「明日からまた練習」
「頑張って」
「千鶴も吹奏楽部?」
「ええ。次の応援もあるからね」
「ありがとう」
肇は千鶴をそっと抱きしめた。
千鶴もその背中へ腕を回す。
学校へ行けば、また東雲先生と高橋君に戻る。
けれど今夜だけは違う。
二人だけの家。
誰にも見られない寝室。
「おやすみ、千鶴」
「おやすみ、肇」
二人は互いの温もりを感じながら目を閉じた。
朝は千鶴の手料理。
秘密の買い物。
二人で作った昼食。
午後の恋愛映画。
恋人つなぎをしながら食べたデザート。
勉強と仕事。
そして肇が作った夕食。
派手なデートではない。
けれど二人にとっては、何より大切な休日だった。
明日からは再び、高校野球最後の夏が動き出す。
『二回戦突破』
そして、その先にある地区大会優勝。
甲子園。
全国制覇。
今日一日だけ野球から少し離れて心と身体を休めた肇は、再び最後の夏へ向かっていく。
その一番近くには、これからも千鶴がいた。
【後書き】
番外編⑶「二人きりの休日――秘密の家デートと、穏やかな一日」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は野球から少しだけ離れ、千鶴と肇の日常を中心とした番外編となりました。
朝食を作るのは千鶴。
昼食は二人で協力。
そして夕食は肇が担当。
一日の中だけでも、それぞれの関係性が感じられる家デートになったと思います。
また、昼食と夕食の食材を買いに行ったスーパーでは、同じ学校の生徒と遭遇しそうになる場面もありました。
学校では教師と生徒である以上、二人が一緒に暮らしていることを周囲に知られるわけにはいきません。
家の中では自然に過ごせても、一歩外へ出れば秘密を守るために気をつけなければならない――そんな二人ならではの緊張感も描きました。
そして午後は恋愛映画を楽しみ、三時のおやつでは手をつなぎながらデザートを食べ、その後は同じテーブルでそれぞれのやるべきことへ。
肇が勉強で分からないところを尋ねれば、千鶴は自然と教師の顔に戻ります。
学校だけではなく、家でも時には先生になる千鶴。
そんな時間も二人らしい日常の一つです。
夜には肇が千鶴のために生姜焼きを作り、一日の最後はゆっくりと身体を休めてから、同じ寝室へ。
朝から夜まで一緒に過ごした家デートは、派手ではなくても二人にとって忘れられない休日になりました。
しかし、休息の日が終われば、肇には再び高校野球最後の夏が待っています。
練習ノートに残された次の目標は――
『二回戦突破』
まずは目の前の一勝。
そこから地区大会優勝へ。
そして吹奏楽部三十人、真悠、眞衣、野球部の仲間たち、そして千鶴を甲子園へ連れていくために。
束の間の休日で心と身体を休めた肇は、再び甲子園へ続く道を歩き始めます。




