第4話「地区大会開幕――エース高橋肇、最後の夏のマウンドへ」
第4話では、ついに高橋肇たち野球部の「高校野球最後の夏」が開幕しました。
地区大会初戦の相手は県立青葉高校。
エースとしてマウンドに立ち、四番打者として打席にも入る肇にとって、絶対に負けられない最初の一戦です。
その球を受ける正捕手・前薗晃大。
チームをまとめる主将・鈴木和誠。
そして一条昴監督をはじめ、スターティングメンバー、ベンチメンバー、十一人の女子マネージャーたちも、それぞれの役割を背負って大会へ挑みます。
さらにスタンドには、東雲千鶴が率いる吹奏楽部三十人と、肇の双子の妹・真悠。
そしてチアリーディング部に所属するもう一人の妹・眞衣の姿も。
番外編⑵で肇が吹奏楽部三十人に約束した、
「地区大会で優勝して、みんなを甲子園へ連れていく」
という言葉。
その約束を現実へ変えるための第一歩が、いよいよ始まります。
負ければ終わり。
勝てば、最後の夏は続いていく。
高橋肇、高校三年生。
背番号一を背負ったエースの、甲子園へ向かう最初の一戦です。
地区大会初戦当日の朝。
午前五時三十分。
まだ街が完全には目を覚ましていない時間に、肇は静かに目を開けた。
いつもの朝なら千鶴に起こされることも多い。
しかし今日は違った。
目覚まし時計が鳴るより先に目が覚めていた。
「……今日か」
ベッドの上で身体を起こす。
地区大会初戦。
対戦相手は県立青葉高校。
負ければ、その瞬間に高校野球は終わる。
肇にとって、高校三年生最後の夏が今日から始まる。
リビングへ向かうと、すでに明かりがついていた。
「おはよう」
「千鶴?」
キッチンには千鶴がいた。
「早いな」
「あなたに言われたくありません」
「俺は試合だから」
「私だって応援に行くんだから同じでしょう?」
朝食が並んでいた。
「ちゃんと食べられそう?」
「大丈夫」
「緊張してない?」
肇は椅子へ座った。
「……してる」
「やっぱり?」
「昨日よりしてる」
千鶴も向かいに座る。
「無理に緊張を消さなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「それだけ本気ってことでしょう?」
肇は少しだけ笑った。
「教師みたいなこと言うな」
「教師です」
「今は家だろ?」
「それでも教師は教師です」
二人が笑う。
ほんの少しだけ、肇の肩から力が抜けた。
千鶴はそんな肇を見ながら言った。
「一条先生から言われたこと、覚えてる?」
「一試合ずつ」
「そう」
「今日は青葉だけ考える」
「うん」
肇は朝食を口へ運ぶ。
千鶴はそれ以上、野球について何も言わなかった。
試合前の肇に余計な重圧を与えたくなかった。
◇◇◇
午前七時。
学校。
野球部員たちが次々と集まっていた。
監督の一条昴が全員を確認する。
「忘れ物ないな?」
「はい!」
「道具確認!」
「はい!」
十一人の女子マネージャーたちも朝から忙しく動いていた。
三年生のマネージャー長・小宮山美月が名簿を確認する。
「ボール確認しました!」
佐々木梨花が続く。
「救急用品、大丈夫です!」
水野琴音。
「飲み物、全部積み込みました!」
青木菜々美と白石美羽も最終確認を続ける。
二年生の森下結菜、小泉杏奈、坂口莉央。
一年生の山岸ひなた、川島咲良、本田紗季。
全員がそれぞれの仕事を担当していた。
肇がバスへ向かおうとすると、美月が呼び止めた。
「高橋君」
「ん?」
スポーツドリンクを渡される。
「今日は暑くなるから」
「ありがとう」
「それと」
「何?」
「頑張って」
肇は笑った。
「任せろ」
◇◇◇
バスの中。
肇の隣には前薗晃大が座っていた。
正捕手。
高校生活最後の夏を一緒に戦う女房役である。
「肇」
「ん?」
「今日の最初の一球、何投げたい?」
「もう配球始まってんの?」
「当たり前だろ」
晃大が笑う。
「初回の入りが大事だから」
「ストレート」
肇は即答した。
「やっぱり?」
「まず真っ直ぐ」
「了解」
少し前の座席から和誠が振り返った。
「お前ら、朝から野球の話しかしてないな」
「主将は余裕だな」
晃大が返す。
「余裕じゃない」
「緊張してる?」
「めちゃくちゃしてる」
三人が笑った。
「でもさ」
和誠が言った。
「今日勝ったら、あと一つ甲子園に近づく」
肇は窓の外を見る。
「一つずつだろ」
「監督の受け売り?」
「千鶴……」
言いかけて止まった。
晃大が首を傾げる。
「何?」
「いや。一条監督にも言われたから」
危なかった。
学校関係者の前では、絶対に秘密を漏らしてはいけない。
「そうだな」
和誠は気づかなかった。
「まず青葉を倒す」
「おう」
◇◇◇
球場へ到着した。
すでに観客席には多くの生徒や保護者が集まり始めていた。
吹奏楽部三十人も到着する。
顧問の千鶴が全員をまとめていた。
「楽器、忘れてない?」
「はい!」
「楽譜は?」
「大丈夫です!」
真悠も自分の楽器を大切そうに持っている。
「真悠ちゃん」
部員が声を掛ける。
「緊張する?」
「ちょっと」
「演奏するだけなのに?」
「今日は違うもん」
真悠はグラウンドを見る。
兄がそこにいる。
「お兄ちゃんの最後の夏だから」
その反対側から、チアリーディング部も入ってきた。
眞衣が真悠を見つける。
「真悠!」
「眞衣!」
双子が駆け寄った。
「いよいよだね」
「うん」
「絶対勝ってほしい」
「勝つよ」
真悠は言い切った。
「お兄ちゃん、約束したから」
二人はグラウンドを見る。
そこでは肇がキャッチボールを始めていた。
◇◇◇
試合開始前。
ベンチ。
一条監督が選手たちを集める。
「スタメンを確認する」
選手たちの表情が引き締まる。
「一番、ショート、神谷悠斗」
「はい!」
「二番、セカンド、藤堂拓海」
「はい!」
「三番、センター、鈴木和誠」
「はい!」
「四番、ピッチャー、高橋肇」
「はい!」
「五番、キャッチャー、前薗晃大」
「はい!」
「六番、ファースト、宮坂大智」
「はい!」
「七番、サード、桐生翔」
「はい!」
「八番、レフト、長谷川颯太」
「はい!」
「九番、ライト、相馬健吾」
「はい!」
そしてベンチには黒崎蓮、早川慶介、久我直哉、松岡亮平、橘優成、西川陸斗、安西航、倉田陽向、森川駿、大野蒼真。
一条監督は全員を見渡した。
「緊張してる奴」
何人かが小さく手を上げる。
肇も上げた。
「高橋、お前もか?」
「普通に緊張してます」
笑いが起きる。
一条監督も笑った。
「それでいい」
そして表情を変える。
「今日まで何のために練習してきた?」
誰も答えない。
「今日から始まる夏のためだ」
静かに響く声。
「高橋」
「はい」
「最初から百点の投球なんか求めない」
「はい」
「前薗」
「はい」
「高橋が力んでたら、お前が戻してやれ」
「任せてください」
「鈴木」
「はい!」
「何かあったら全員集めろ。お前が主将だ」
「はい!」
一条監督は全員を見る。
「楽しんでこい」
その言葉に、選手たちの表情が変わった。
和誠が中央へ手を出す。
全員が重ねた。
「絶対勝つぞ!」
「おおおおおっ!」
◇◇◇
場内アナウンスが流れる。
『間もなく、第一試合、県立青葉高等学校対――高校の試合を開始いたします』
吹奏楽部が楽器を構えた。
チアリーディング部も準備する。
千鶴はスタンドからグラウンドを見つめていた。
肇がマウンドへ歩いていく。
家で見る肇ではない。
野球部のエース。
背番号一。
そして四番打者。
「肇……」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇◇◇
一回表。
県立青葉高校の攻撃。
肇がマウンドへ上がった。
晃大がホームベース後方で座る。
内野から声が飛ぶ。
「高橋! いけるぞ!」
「打たせてこい!」
「後ろ守ってるぞ!」
肇は帽子のつばに触れる。
大きく息を吐いた。
スタンドを見る。
吹奏楽部。
チアリーディング部。
真悠。
眞衣。
そして千鶴。
すぐに視線をホームへ戻す。
晃大がサインを出した。
ストレート。
肇は小さく頷く。
振りかぶる。
地区大会。
高校野球最後の夏。
その第一球。
腕を振り抜いた。
バシィィン!
「ストライク!」
球審の右手が上がった。
「よっしゃあ!」
ベンチから声が上がる。
スタンドから大きな演奏が始まった。
肇は一瞬だけ笑った。
「いい球!」
晃大が返球する。
「そのまま行こう!」
「おう!」
一番打者。
二球目。
ファウル。
三球目。
低めの変化球。
「ストライク! バッターアウト!」
三振。
「ナイスピッチ!」
二番打者。
初球を打たせる。
ショートゴロ。
神谷が捕球。
一塁へ。
「アウト!」
二死。
三番打者。
青葉高校の強打者だった。
晃大が立ち上がり、マウンドへ向かう。
「無理に勝負しなくていい」
「分かってる」
「低め中心」
「うん」
「お前には俺がいる」
肇が笑った。
「頼むぞ」
「任せろ」
晃大が戻る。
三番打者との勝負。
フルカウントまで粘られた。
六球目。
晃大のサイン。
外角低め。
肇が投げる。
カキンッ!
打球はセンターへ。
「和誠!」
中堅の和誠が前進する。
そして――。
パシッ!
捕った。
「アウト!」
三者凡退。
「よっしゃあ!」
肇は拳を握った。
◇◇◇
一回裏。
攻撃。
一番・神谷が打席へ。
吹奏楽部の演奏が始まる。
真悠も必死に楽器を吹いていた。
眞衣たちチアリーディング部が動きを合わせる。
「かっとばせー! 神谷!」
神谷が粘って四球を選んだ。
「ナイス!」
二番・藤堂。
送りバント。
一死二塁。
三番・和誠。
初球。
カキンッ!
ライト前ヒット。
神谷は三塁で止まる。
一死一、三塁。
そして場内アナウンス。
『四番、ピッチャー、高橋君』
スタンドが沸いた。
「お兄ちゃん!」
眞衣が思わず叫ぶ。
真悠は楽器を構え直す。
千鶴も静かに肇を見つめた。
肇が打席へ入る。
青葉高校の左腕・速水が投げる。
初球。
スライダー。
「ストライク!」
二球目。
外角。
「ボール!」
三球目。
チェンジアップ。
肇は踏みとどまった。
「ボール!」
二ボール一ストライク。
四球目。
内角ストレート。
肇が振り抜く。
カキィィィン!
鋭い打球。
左中間を破った。
「走れ!」
神谷がホームイン。
和誠も三塁を回る。
「回れ!」
和誠もホームへ。
肇は二塁へ滑り込む。
「セーフ!」
二点タイムリーツーベース。
「うおおおおお!」
スタンドが揺れた。
吹奏楽部の演奏。
チアリーディング部の歓声。
野球部のベンチ。
すべてが一つになった。
肇は二塁ベース上で拳を握る。
「よっしゃ!」
千鶴も思わず立ち上がって拍手した。
しかし、特別な応援はできない。
あくまで吹奏楽部顧問。
それでも胸の中では叫んでいた。
――頑張って、肇。
◇◇◇
試合は中盤へ。
青葉高校も簡単には終わらない。
四回表。
連打で一死一、二塁。
この日初めて肇が大きなピンチを迎えた。
「タイム!」
晃大がマウンドへ。
内野手も集まる。
和誠が声を掛ける。
「肇、大丈夫か?」
「大丈夫」
「球、ちょっと高いぞ」
晃大が言う。
「分かってる」
「力入ってる」
「……うん」
晃大が肇の胸を軽く叩いた。
「三振いらない」
肇が顔を上げる。
「打たせろ」
宮坂が笑う。
「ファースト来い!」
藤堂も言う。
「セカンドでもいいぞ!」
桐生。
「サード任せろ!」
神谷。
「ショート全部取る!」
和誠が最後に言った。
「お前一人で試合してんじゃないぞ」
肇は仲間を見る。
一条監督に言われた言葉を思い出す。
――お前には守ってくれる八人がいる。
「分かった」
肇が笑う。
「頼む」
全員が守備位置へ戻った。
次の打者。
初球。
内角ストレート。
詰まらせた。
「ショート!」
神谷が捕る。
二塁へ。
藤堂。
そして一塁。
「アウト!」
「アウト!」
ダブルプレー。
「よっしゃあああ!」
ピンチを無失点で切り抜けた。
◇◇◇
七回表。
スコアは四対一。
肇はまだマウンドにいた。
投球数は百球に近づいている。
一条監督がベンチから見ていた。
黒崎と久我はブルペンで準備している。
「高橋、どうだ?」
イニング前に監督が尋ねる。
「行けます」
「肩は?」
「問題ありません」
「無理してないな?」
「はい」
晃大も言う。
「球威も落ちてません」
一条監督は少し考える。
「この回まで任せる」
「はい!」
「全部背負うな」
「分かってます」
肇はマウンドへ戻った。
最後の打者。
二死。
二ストライク。
吹奏楽部の演奏が響く。
真悠が吹く。
眞衣が応援する。
千鶴が見守る。
晃大がサインを出す。
ストレート。
肇は頷いた。
振りかぶる。
投げた。
バシィィィン!
「ストライク! バッターアウト!」
試合終了。
四対一。
初戦突破。
「よっしゃああああ!」
晃大がマウンドへ走る。
「肇!」
「晃大!」
二人が抱き合った。
和誠たちも集まる。
「勝ったぞ!」
「初戦突破!」
「よっしゃ!」
ベンチから全員が飛び出す。
マネージャーたちも拍手していた。
一条監督だけは少し離れた場所で静かに頷く。
◇◇◇
整列。
「ありがとうございました!」
両校の選手たちが頭を下げる。
その後、肇たちは応援席の前へ並んだ。
吹奏楽部三十人。
チアリーディング部。
生徒。
保護者。
多くの人が拍手している。
主将の和誠が帽子を取る。
「応援ありがとうございました!」
野球部全員が頭を下げた。
「ありがとうございました!」
真悠が兄を見る。
眞衣も笑っている。
肇は二人を見つけ、小さく拳を握って見せた。
そして千鶴。
一瞬だけ視線が重なった。
千鶴も、小さく頷いた。
言葉はいらなかった。
――一つ目。
約束へ、一歩近づいた。
◇◇◇
その夜。
家へ戻った肇はソファへ座った瞬間、全身から力が抜けた。
「疲れた……」
千鶴が飲み物を持ってくる。
「お疲れさま」
「ありがとう」
「初戦突破、おめでとう」
「うん」
肇は嬉しそうに笑った。
「勝った」
「ちゃんと見てたわよ」
「俺のタイムリーも?」
「もちろん」
「投球は?」
「途中、ちょっと心配した」
「四回?」
「そう」
「晃大たちに助けられた」
千鶴は微笑んだ。
「いいことじゃない」
「うん」
肇は今日の試合で分かった。
一人では勝てない。
エースだからといって、すべてを背負う必要はない。
仲間が守ってくれる。
捕手が支えてくれる。
スタンドから応援してくれる人がいる。
「千鶴」
「何?」
「あと何回勝てば甲子園かな」
「もう先を見てるの?」
「ちょっとだけ」
「一条先生に怒られるわよ」
肇が笑う。
「じゃあ次だけ考える」
「それでいいの」
千鶴は肇の練習ノートを持ってきた。
肇が開く。
『甲子園』
『全国制覇』
『初戦突破』
三つ目の文字に、肇は大きな丸をつけた。
そしてその下へ書く。
『二回戦突破』
「また一つ増えたわね」
「一個ずつだから」
「うん」
千鶴は隣で頷いた。
地区大会初戦。
四対一。
勝利。
まだ甲子園は遠い。
しかし、確実に一歩進んだ。
吹奏楽部三十人との約束。
真悠との約束。
眞衣の応援。
野球部の仲間たち。
そして千鶴と交わした約束。
――必ず地区大会で優勝して、甲子園へ連れていく。
高橋肇、高校三年生。
最後の夏は、まだ終わらない。
甲子園への第一歩を踏み出したエースは、次の一勝へ向かっていた。
第4話「地区大会開幕――エース高橋肇、最後の夏のマウンドへ」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ついに始まった地区大会。
初戦・県立青葉高校戦は、四対一で肇たちの高校が勝利し、無事に初戦突破となりました。
しかし、決して肇一人だけで掴んだ勝利ではありません。
マウンドで苦しくなった時、真っ先に駆け寄った正捕手・前薗晃大。
内野手たちに声を掛けながらチームをまとめた主将・鈴木和誠。
「三振はいらない。打たせろ」
その言葉通り、肇の後ろには八人の仲間がいます。
さらにベンチには、いつでも試合へ出られるよう準備を続ける仲間たち。
選手を支える十一人の女子マネージャー。
そしてスタンドから響く吹奏楽部三十人の演奏と、チアリーディング部の応援。
吹奏楽部員として楽器を奏でる真悠と、チアリーディング部員として声援を送る眞衣も、それぞれの場所から兄の最後の夏を支えました。
もちろん、その中には吹奏楽部顧問として見守る千鶴もいます。
学校ではあくまで教師と生徒。
だから千鶴だけが特別な応援を送ることはできません。
それでも肇がマウンドへ立つ姿を見つめながら、胸の中では誰よりもその勝利を願っています。
そして試合後。
肇の練習ノートに書かれていた、
『甲子園』
『全国制覇』
『初戦突破』
その『初戦突破』に、ついに大きな丸がつきました。
さらに新しく書き加えられたのは――
『二回戦突破』
まだ地区大会は始まったばかりです。
甲子園へ続く道は、一試合ずつしか進めません。
千鶴を甲子園へ連れていくために。
吹奏楽部三十人との約束を果たすために。
真悠と眞衣、野球部の仲間たち、マネージャーたちと最後の夏を少しでも長く戦うために。
まず一勝。
そして、次の一勝へ。
高橋肇の高校野球最後の夏は、まだまだ続きます。




