番外編⒁❶「担任教師と野球部監督――誰にも言えない恋人と、プロへの道」
番外編⒁❶「担任教師と野球部監督――誰にも言えない恋人と、プロへの道」
U-18日本代表として世界一を掴み、富山第二高校へ戻ってきた高橋肇。
しかし、世界大会が終わったからといって、肇を取り巻く慌ただしさが終わったわけではありません。
むしろ――ここからが、新しい始まり。
プロ野球十二球団のスカウトたちが富山第二高校を訪れ、最速160km、高校通算70本塁打という数字だけではなく、投球、打撃、守備、練習態度、性格まで細かく確認し始めています。
そんな中。
放課後の職員室で顔を合わせたのは――東雲千鶴と、一条昴監督。
学校では一人の教師として肇を見守る千鶴。
野球部監督として、高校一年生の頃から肇を育ててきた一条。
そして一条監督は、千鶴と肇の本当の関係を知る数少ない人物の一人でもあります。
だからこそ、他の教師には話せないことも二人の間では話すことができます。
U-18世界大会での肇の変化。
十二球団からの評価。
投手として進むのか。
打者として進むのか。
それとも――二刀流なのか。
さらに千鶴が抱えている、恋人としての本当の気持ち。
「心配しますよ」
世界一になったことを誰より喜びながらも、肩や肘、これから待っているプロの世界を心配する千鶴。
教師として。
恋人として。
そして一条監督は監督として。
立場は違っても、二人が願っていることは同じです。
高橋肇が、自分で選んだ道を歩いていけること。
今回は、そんな二人が職員室で静かに語り合う番外編です。
放課後。
私立富山第二高等学校の職員室には、まだ多くの教師たちが残っていた。
パソコンへ向かう教師。
翌日の授業準備をする教師。
生徒から提出されたプリントを確認する教師。
そして――。
東雲千鶴も、自分の席で書類を整理していた。
「…………」
けれど。
今日は何度か、窓の外へ視線が向いてしまう。
職員室から直接グラウンド全体が見えるわけではない。
それでも千鶴には分かっていた。
今日も。
プロ野球球団のスカウトが来ている。
目的はもちろん――高橋肇。
「東雲先生」
「……はい?」
突然声を掛けられ、千鶴は振り返った。
「どうしました?」
そこにいたのは。
野球部監督――一条昴だった。
「ああ、すみません。少しお話いいですか?」
「私にですか?」
「はい」
一条は一度、周囲を見る。
当然ながら。
ここでは二人の会話を聞こうと思えば聞ける教師もいる。
「高橋のことで」
その名前を聞いた瞬間。
千鶴の表情がほんの少し変わった。
ただ。
すぐに教師の顔へ戻る。
「分かりました」
二人は職員室の端。
他の教師たちから少し離れた場所へ移動した。
◇◇◇
「今日も来ています」
一条が小声で言った。
千鶴には、それだけで意味が分かった。
「プロ野球のスカウトですか?」
「はい」
「今日は何球団です?」
「複数です」
「……やっぱり」
一条が少し笑う。
「驚きませんね」
「甲子園であれだけ活躍して、U-18で世界一になって帰ってきたんですから」
「それだけじゃありませんよ」
「え?」
「決勝で二本打っていますから」
千鶴は思わず微笑んだ。
「……見ていました」
「テレビで?」
「もちろんです」
「二本目は私も驚きました」
「私もです」
千鶴は思い出す。
世界大会決勝。
一打席目。
先制3ラン本塁打。
そして四打席目。
二本目の本塁打。
しかも決勝戦で本塁打を記録した日本人選手は肇だけだった。
千鶴はテレビの前で思わず立ち上がった。
「東雲先生」
「はい?」
「かなり嬉しそうですね」
「えっ?」
千鶴は慌てて表情を戻す。
「担任……ですから」
一条が千鶴を見る。
「それだけですか?」
「…………」
一条は知っている。
高橋肇と東雲千鶴。
二人が恋人同士であることを。
校長。
教頭。
一条監督。
肇の父親。
母親の由紀子。
双子の妹である真悠と眞衣。
知っているのは、ごく限られた人物だけ。
だから一条も学校では絶対に口外しない。
「ここでは教師として答えます」
千鶴は小さな声で言った。
「はい」
「高橋君が活躍してくれたことは、教師としてとても嬉しいです」
「では」
一条も声を落とす。
「ここじゃなかったら?」
千鶴は一条を見る。
「一条先生」
「すみません」
「もう……」
一条が少し笑う。
「でも安心しました」
「何がです?」
「東雲先生も、普通に心配するんだなと思って」
千鶴は。
少しだけ黙った。
「……心配しますよ」
今度の声は。
教師としてのものではなかった。
◇◇◇
「世界大会中」
千鶴が話し始める。
「毎試合見ていました」
一条。
「知っています」
「どうして?」
「高橋から聞きました」
「肇さん……」
名前が出た瞬間。
千鶴は口元を押さえる。
一条。
「今、肇さんって」
「聞かなかったことにしてください」
「分かりました」
「学校では高橋君です」
「もちろん」
千鶴は少し頬を赤くしながら話を続ける。
「世界大会中は毎日のようにテレビ電話をしていました」
「そうだったんですか」
「はい」
「高橋、普通に元気だったでしょう?」
「元気すぎました」
一条は笑う。
「でしょうね」
「試合で投げた日でも、ずっと試合の説明をするんです」
「想像できます」
「『あの球どうだった?』『今日のスライダーすごくなかった?』『ホームラン見た?』って」
一条が笑いを堪える。
「完全に高橋ですね」
「そうなんです」
千鶴も笑う。
「でも」
表情が変わる。
「本当は心配でした」
「肩ですか?」
「肩も肘もです」
一条は静かに頷いた。
「甲子園からほとんど休みがありませんでしたから」
「はい」
「全国大会が終わって」
「はい」
「すぐU-18」
「はい」
「しかも投手だけではなく四番打者」
「……だから」
千鶴は小さく息を吐く。
「テレビ電話で何度も、無理をしないでと言いました」
一条。
「私も言いました」
「前薗君も言っていたそうです」
「三人がかりですね」
「それくらいでちょうどいいんです」
「否定できません」
二人は笑った。
◇◇◇
一条は職員室の窓へ目を向ける。
「ただ」
「はい?」
「高橋、U-18で変わりましたよ」
千鶴。
「私もそう思います」
「分かります?」
「はい」
一条は少し意外そうだった。
「どこが?」
「160kmにこだわらなくなりました」
一条は目を細める。
「同じところを見ていますね」
「以前なら球速表示をすごく気にしていました」
「ええ」
「でも世界大会の途中から」
千鶴は思い出しながら話す。
「『今日は154だったけど抑えられた』って嬉しそうに話すようになりました」
一条。
「投手として大きいですよ」
「やっぱり?」
「160kmを投げられる能力は武器です」
「はい」
「でも160kmを投げなければ抑えられない投手では困る」
千鶴は真剣に聞く。
「プロなら特に?」
「もちろん」
一条は続ける。
「プロへ行けば160kmでも打たれます」
「…………」
「だから速球だけじゃない」
「カーブやスライダー?」
「シュートも。制球も。緩急も。打者との駆け引きも」
千鶴。
「前薗君との相性も良いですよね」
「非常にいいです」
「プロでは別々になる可能性がありますね」
その一言で。
二人が少し黙る。
高校三年間。
肇の球を受け続けてきた前薗。
しかし。
ドラフトで二人が同じ球団へ入れる保証などない。
「そこも」
一条が言った。
「高橋が乗り越えなければならないところでしょうね」
◇◇◇
少しして。
千鶴が尋ねた。
「一条先生」
「はい」
「スカウトの方は……高橋君をどう評価しているんですか?」
「気になります?」
「教師として」
一条が笑う。
千鶴。
「……それだけではありませんけど」
「正直ですね」
「一条先生は知っていますから」
「そうですね」
一条は少し考えた。
「かなり高いです」
「やっぱり」
「ただ」
「はい?」
「面白いくらい評価が分かれています」
「どういうことです?」
「投手として欲しい球団」
「はい」
「野手として欲しい球団」
「はい」
「そして」
千鶴には分かった。
「二刀流?」
「そうです」
千鶴は驚かなかった。
肇本人から聞いている。
できるなら。
プロでも投手と打者の両方へ挑戦したい。
「一条先生は、どう思っています?」
「難しい質問ですね」
「監督として」
一条は腕を組む。
「私なら」
少し考える。
「最初は両方やらせたい」
千鶴。
「二刀流ですか?」
「はい」
「どうして?」
「今の段階でどちらかを捨てさせる理由がないからです」
「なるほど……」
「160kmを投げる」
「はい」
「70本塁打を打つ」
「はい」
「甲子園決勝でサイクルヒット」
「はい」
「U-18決勝で二本塁打」
「……改めて聞くと」
千鶴は苦笑する。
「すごいですね」
「恋人でしょう?」
「一条先生!」
思わず少し声が大きくなる。
近くの教師が振り返った。
「どうしました?」
千鶴は即座に。
「い、いえ。高橋君の進路について少し驚いただけです」
「そうですか」
教師は再び仕事へ戻る。
千鶴は。
一条をじっと見る。
「気をつけてください」
「すみません」
「本当に秘密なんですから」
「分かっています」
「卒業するまでは絶対に」
「もちろんです」
一条の表情も真剣になる。
「私から漏らすことはありません」
千鶴は小さく頷いた。
「お願いします」
◇◇◇
一条が話題を戻す。
「ただ、プロで二刀流を続けるのは簡単ではありません」
「身体への負担?」
「それが一番です」
「……やっぱり」
「高校野球とは試合数が違います」
「はい」
「移動もある」
「はい」
「登板間隔も考えなければならない」
「はい」
「打者として毎日試合に出ながら投手として調整するなら、球団全体で管理する必要があります」
千鶴は。
その話を聞くほど。
少し心配そうな表情になっていく。
一条は気づいた。
「東雲先生」
「はい」
「心配ですか?」
「……はい」
「ですよね」
「本人には」
千鶴は少し笑う。
「できるなら挑戦したい、と言われました」
「高橋らしい」
「私もそう思いました」
「止めますか?」
千鶴は。
すぐには答えなかった。
そして。
「止めません」
一条が見る。
「心配です」
「はい」
「怪我もしてほしくありません」
「はい」
「無理もしてほしくありません」
「はい」
「でも」
千鶴は。
はっきり言った。
「肇さんが自分で選んだ夢なら、応援します」
また。
肇さん。
しかし今度は一条も何も言わなかった。
ここには二人しか聞こえない。
「それが一番でしょうね」
「はい」
「私も監督として」
一条は言う。
「最後まで高橋自身に選ばせるつもりです」
◇◇◇
そこへ。
一条のスマートフォンが震えた。
「失礼」
確認する。
一条の表情が少し変わる。
千鶴。
「どうしました?」
「またです」
「まさか」
「スカウトからです」
千鶴。
「今日だけで何件目ですか?」
「もう数えていません」
「そんなに?」
「U-18決勝が大きかったですね」
「二本塁打?」
「それもあります」
一条はスマートフォンをしまう。
「投手として世界相手に結果を出して」
「はい」
「同じ決勝で二本打った」
「はい」
「しかも高校通算70本塁打」
「はい」
「最速160km」
「はい」
「甲子園優勝」
「……全部一人なんですよね」
「そうです」
千鶴は。
どこか不思議そうに笑う。
「家では普通なんですけどね」
一条。
「家?」
「…………」
しまった。
千鶴が固まる。
一条は。
何となく察する。
「一緒に過ごしているんですか?」
「その……」
「答えなくてもいいです」
「助かります」
一条は笑う。
「学校では見せない顔があるんでしょうね」
千鶴も小さく笑う。
「ありますよ」
「例えば?」
「秘密です」
「ですよね」
◇◇◇
少しして。
一条が真剣な顔になる。
「東雲先生」
「はい」
「一つだけ」
「何でしょう?」
「これから、高橋は今まで以上に注目されます」
千鶴の表情も変わる。
「はい」
「スカウトだけではありません」
「記者?」
「テレビ、新聞、ネット。ドラフトが近づけばもっと増えます」
「…………」
「学校内でも高橋を見る目が変わるかもしれない」
千鶴は。
その意味を理解した。
二人の秘密。
今まで以上に。
慎重にならなければならない。
「分かっています」
「卒業まで」
「はい」
「あと少しです」
「はい」
一条。
「学校では、今まで通りで」
千鶴。
「もちろんです」
「東雲先生と高橋君」
「それ以外にはなりません」
「なら大丈夫です」
千鶴は。
少しだけ寂しそうに笑った。
「卒業までですから」
一条はその言葉を聞く。
「その後は?」
千鶴。
「…………」
「聞かない方がいいですか?」
「いえ」
千鶴は。
少し考えて。
微笑んだ。
「肇さんが、何か考えているみたいです」
「高橋が?」
「はい」
「聞いてないんですか?」
「『次の夢も叶える』としか」
一条は。
少しだけ笑った。
「なるほど」
「何か知っています?」
「知りませんよ」
「本当に?」
「本当に」
千鶴。
「怪しいです」
「高橋本人に聞いてください」
「聞いても教えてくれません」
「じゃあ待つしかないですね」
「……そうします」
もちろん。
千鶴には。
何となく分かっていた。
プロ。
高校卒業。
その先。
肇が自分との未来を考えていることを。
◇◇◇
夕方。
職員室の教師たちも。
一人。
また一人と帰り始めた。
一条もグラウンドへ戻ろうとする。
「では、私は野球部へ戻ります」
「はい」
「東雲先生」
「はい?」
「高橋のこと」
一条は少しだけ微笑む。
「これからも支えてやってください」
千鶴は。
教師として答えるべきなのか。
恋人として答えるべきなのか。
少し迷った。
そして。
両方の気持ちを込めて。
「もちろんです」
と答えた。
一条。
「学校では?」
千鶴。
「教師として」
「それ以外では?」
千鶴は少し頬を赤くする。
「……恋人として」
一条は頷いた。
「それなら安心です」
「一条先生も」
「はい?」
「監督として、最後までお願いします」
「もちろんです」
二人は。
小さく頭を下げ合った。
一条が職員室を出ていく。
千鶴は。
自分の席へ戻った。
窓の向こう。
遠くから。
野球部員たちの声が聞こえてくる。
「お願いします!」
「高橋! 次!」
「はい!」
その声。
千鶴には。
すぐ分かった。
肇。
千鶴は。
誰にも見られないように。
ほんの少しだけ微笑む。
甲子園全国制覇。
U-18世界一。
そして。
次はプロ野球。
自分の恋人が。
どんどん遠い世界へ進んでいくように感じることもある。
それでも。
テレビ電話で。
肇は言った。
「次の夢も叶える」
そして富山へ帰ってきて。
改めて言った。
「俺、プロ志望届を出す」
なら。
千鶴ができることは一つ。
学校では教師として。
二人きりの時は恋人として。
高橋肇が自分で選んだ道を――。
最後まで見守ることだった。
番外編⒁❶「担任教師と野球部監督――誰にも言えない恋人と、プロへの道」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は高橋肇本人ではなく――。
東雲千鶴。
そして一条昴監督。
二人の教師から見た「高橋肇」を中心に描きました。
一条監督は、野球選手としての肇を高校一年生の頃から見てきた人物。
一方の千鶴は、学校では教師として、そして誰にも知られない場所では恋人として肇を見守ってきました。
二人に共通しているのは、肇の才能を認めながらも、それ以上に身体のことを心配しているところです。
甲子園。
U-18日本代表。
世界大会。
短期間で多くの試合を戦ってきた肇。
160kmを投げられるからといって、毎回160kmを投げればいいわけではありません。
そんな中、U-18を経験したことで肇自身にも変化がありました。
150km台前半から中盤でも抑える。
カーブ。
スライダー。
シュート。
制球。
緩急。
そして打者との駆け引き。
千鶴がテレビ電話を通じて感じていた変化と、一条監督が野球人として感じていた変化が一致した場面でもありました。
そして、いよいよ現実味を帯びてきたプロ野球。
投手として獲得したい球団。
野手として評価する球団。
二刀流に挑戦させたい球団。
十二球団でも、高橋肇に対する考え方は一つではありません。
千鶴自身も、二刀流による身体への負担を心配しています。
それでも――。
「肇さんが自分で選んだ夢なら、応援します」
これが千鶴の答えでした。
そして今回、一条監督からもう一つ重要な話がありました。
これからドラフトが近づけば、スカウトだけではなく、新聞、テレビ、ネット、記者など、肇を取り巻く視線はさらに増えていきます。
だからこそ。
卒業するまでは――。
「東雲先生」と「高橋君」。
学校では教師と生徒。
その関係を最後まで守り続けます。
けれど職員室で最後に一条監督から、
「これからも支えてやってください」
と言われた千鶴は、二つの立場から答えました。
学校では――教師として。
二人きりなら――恋人として。
「もちろんです」
そして肇が千鶴へ伝えている、
「次の夢も叶える」
という言葉。
甲子園全国制覇。
U-18世界一。
プロ野球。
さらに、その先にある二人の未来。
まだ千鶴は、その言葉のすべてを知りません。
高校卒業の日まで、あと少し。
その前に――高橋肇には、人生を大きく左右するドラフト会議が待っています。
番外編⒁は、まだ続きます。




