番外編⒀「世界一の帰還――千鶴の膝枕と、プロへの決意」
番外編⒀「世界一の帰還――千鶴の膝枕と、プロへの決意」
U-18日本代表が世界一を掴んだ、その翌日。
高橋肇が――富山へ帰ってきます。
甲子園全国制覇から始まり、U-18日本代表候補五十人への選出、正式な十八人入り、そして世界大会優勝。
高校三年生の夏、肇はあまりにも濃密な時間を過ごしてきました。
しかし、富山へ帰ってきた肇が真っ先に会いたかったのは、スカウトでも記者でもありません。
世界大会中、毎日のようにテレビ電話をしていた恋人――東雲千鶴。
「寂しいです」
「会いたいです」
離れていたからこそ、二人は互いの存在の大きさを改めて感じました。
だから帰国後、ようやく叶う約束があります。
千鶴の膝枕。
髪を撫でてもらいながら過ごす、世界一の高校球児とは思えないほど穏やかな時間。
全国一でも、世界一でも。
千鶴の前では、肇はいつもの肇です。
そして今回、もう一つ大切な話があります。
プロ野球。
以前から千鶴にも伝えていた進路について、肇は改めて自分の意思を口にします。
「俺、プロ志望届を出す」
大学進学ではなく、高校卒業後すぐにプロの世界へ。
最速160km。
高校通算70本塁打。
甲子園全国制覇。
甲子園決勝でのサイクルヒット。
U-18世界一。
そして世界大会決勝では、日本人唯一となる二本の本塁打。
そんな肇を、これからプロ野球十二球団のスカウトたちが本格的に追い始めます。
ただ、肇自身も決して強気なだけではありません。
「野球が仕事になる」
その世界へ踏み込む怖さも、千鶴にだけは素直に打ち明けます。
世界一の翌日。
大歓声の球場から、二人だけの静かな日常へ。
そして次なる夢――プロ野球へ。
新しい物語が始まる直前の番外編です。
U-18日本代表として世界一を掴んだ翌日。
高橋肇は、ようやく富山へ帰ってきた。
甲子園全国制覇。
U-18日本代表。
そして世界大会優勝。
短い夏の間に、あまりにも多くの出来事があった。
空港から富山へ戻る移動中も、肇のスマートフォンには通知が止まらなかった。
父親。
由紀子。
真悠。
眞衣。
富山第二高校野球部の仲間たち。
マネージャー。
U-18の仲間。
甲子園で戦った選手。
『世界一おめでとう』
『決勝の二本塁打すごかった!』
『富山に帰ってきたらまた話そう』
たくさんの言葉。
それでも。
肇が一番会いたかった人物は決まっていた。
東雲千鶴。
世界大会中。
毎日のようにテレビ電話をした。
「寂しいです」
「会いたいです」
そう言ってくれた千鶴。
そして肇も。
「俺も会いたい」
「帰ったら膝枕して」
何度も言っていた。
だから。
富山へ戻った肇が最初に向かったのは――千鶴のところだった。
◇◇◇
玄関。
ピンポーン。
少しして。
「はい」
扉が開いた。
千鶴。
肇は一瞬。
何も言えなくなった。
毎日テレビ電話で見ていた。
けれど。
画面の向こうと。
目の前にいるのとでは。
まったく違う。
「……千鶴」
千鶴も。
肇をしばらく見つめていた。
そして。
微笑む。
「お帰りなさい、肇さん」
その一言。
肇は。
ようやく帰ってきたのだと実感した。
「ただいま」
「世界一、おめでとうございます」
「ありがとう」
「本当に帰ってきましたね」
「うん」
「怪我は?」
「大丈夫」
「肩は?」
「大丈夫」
「肘は?」
「問題なし」
「本当ですか?」
肇は笑った。
「帰ってきて最初からそれ?」
「当然です」
「千鶴らしい」
二人は家の中へ。
そして。
リビング。
肇はソファへ座る。
千鶴も隣へ。
数秒。
肇は千鶴を見る。
「千鶴」
「はい?」
「約束」
「何の?」
肇が少しだけ笑う。
「膝枕」
千鶴は。
すぐに意味を理解した。
「覚えていたんですね」
「毎日言ってた」
「そうでした」
千鶴はソファに座り直す。
「どうぞ」
肇は。
ゆっくり身体を横にして。
千鶴の膝へ頭を乗せた。
「……ああ」
「何ですか?」
「帰ってきたって感じする」
千鶴が笑う。
「世界一になった人とは思えませんね」
「ここではただの肇だから」
「そうでしたね」
千鶴は。
肇の髪を優しく撫でる。
一度。
二度。
何度も。
肇は目を閉じた。
世界大会。
決勝。
大観衆。
日の丸。
プレッシャー。
二本塁打。
六回二失点。
世界一。
全部。
遠い出来事のように感じた。
「千鶴」
「はい」
「寂しかった?」
千鶴の手が。
一瞬止まる。
そして。
また髪を撫でる。
「寂しかったですよ」
「本当に?」
「ものすごく」
肇が少し笑う。
「嬉しい」
「私は寂しかったと言っているんですよ?」
「分かってる」
「では笑わないでください」
「だって」
肇は千鶴を見上げる。
「俺に会いたかったってことでしょ?」
千鶴は少し頬を赤くした。
「……そうです」
「俺も会いたかった」
「世界大会中は楽しそうでしたけど」
「野球は楽しかった」
「はい」
「でもホテル戻ると会いたくなった」
千鶴は。
しばらく肇の顔を見る。
「私も同じでした」
「うん」
「試合を見ている時は楽しかったです」
「うん」
「でもテレビ電話が終わると」
「うん」
「急に静かになって」
肇。
「ごめん」
千鶴。
「謝らなくていいんですよ」
そして。
「日本代表だったんですから」
肇は。
少しだけ身体を起こして。
千鶴の隣へ座る。
「世界一取ったよ」
「はい」
「約束守った」
「本当に」
千鶴は微笑んだ。
「全国一の次に世界一」
「うん」
「すごいですね」
「十八人で取った」
千鶴は頷く。
「そこが一番いいと思います」
「俺もそう思う」
◇◇◇
少しして。
千鶴は台所へ。
「何か飲みますか?」
「ジンジャーエール」
「やっぱり」
「何で?」
「予想通りです」
千鶴は飲み物を持ってくる。
二人で。
世界大会についてゆっくり話した。
「決勝の一打席目」
千鶴。
「はい」
「打った瞬間、入ったと思った」
「私もテレビの前で立ち上がりました」
「本当に?」
「真悠さんと眞衣さんからも、すぐ連絡が来ました」
「何て?」
「『お兄やばい!』って」
肇が笑う。
「妹らしい」
「四打席目も」
「二本目」
「また立ち上がりました」
「千鶴が?」
「はい」
「見たかった」
「絶対見せません」
「何で?」
「恥ずかしいです」
二人で笑う。
そして。
千鶴が少し真剣な顔になる。
「でも肇さん」
「何?」
「投手としての方もすごく良かったと思います」
「六回二失点?」
「はい」
「最高154だったけど」
「何度も言っていますが、160kmじゃなくていいんです」
「分かってる」
「本当に?」
「世界大会で分かった」
「なら良かったです」
肇。
「前薗にも」
「はい」
「監督にも」
「はい」
「千鶴にも言われたから」
千鶴。
「三人が同じことを言うなら、聞いてください」
「はい」
◇◇◇
しばらく。
何でもない時間が流れた。
二人でテレビを見る。
世界大会のニュースが流れる。
画面。
『U-18日本代表、世界一』
そして。
決勝での肇の二本の本塁打。
肇。
「うわ……」
千鶴。
「どうしました?」
「自分がテレビに映ってるの恥ずかしい」
「今さらですね」
「嫌なんだって」
「全国ニュースで何度も流れていましたよ」
「見ない」
「私は何回も見ました」
「何で!」
「嬉しかったからです」
肇が止まる。
千鶴は。
少し恥ずかしそうに言う。
「恋人が世界大会で活躍しているんですから」
肇の表情が。
一気に明るくなる。
「もう一回」
「嫌です」
「千鶴!」
「一回だけです」
「世界一より嬉しいかも」
「それは困ります」
◇◇◇
そして。
午後。
肇は。
ずっと千鶴へ話したかったことを思い出した。
「千鶴」
「はい」
「ちゃんと報告しておきたいことがある」
千鶴は。
肇の表情が変わったのを見て。
姿勢を正した。
「何ですか?」
「プロ」
千鶴は黙って聞く。
「甲子園の前にも」
「はい」
「世界大会へ行く前にも話したけど」
「はい」
肇は。
はっきり言った。
「俺、プロ志望届を出す」
千鶴は。
驚かなかった。
もう知っていた。
肇が。
大学へ進学せず。
高校卒業後。
プロ野球の道へ進みたいこと。
それでも。
本人の口から改めて聞く。
意味は大きかった。
「迷いは?」
「ない」
「大学は?」
「行かない」
「プロ一本?」
「うん」
千鶴。
「いつ提出する予定ですか?」
「10月上旬」
「ドラフトの少し前ですね」
「うん」
「一条先生には?」
「前から話してる」
「ご両親は?」
「父さんも母さんも知ってる」
「校長先生にも?」
「正式に出す前にまた話す」
千鶴は。
少しだけ息を吐く。
「本当にプロ野球選手になるんですね」
「まだ指名されるか分からないけど」
千鶴。
「……それは」
少し困ったように笑う。
「今の肇さんが言っても説得力ありません」
「何で?」
千鶴は指を折る。
「甲子園優勝」
「うん」
「高校通算70本塁打」
「うん」
「最速160km」
「うん」
「甲子園決勝サイクルヒット」
「うん」
「U-18日本代表」
「うん」
「世界一」
「うん」
「世界大会決勝で日本人唯一の本塁打を二本」
肇。
「……並べると多いね」
「でしょう?」
「でも」
「はい?」
肇は少し真剣になる。
「プロは別だと思ってる」
千鶴。
「どういう意味ですか?」
「高校で何本打っても」
「うん」
「160投げても」
「うん」
「プロに入ったら一番下からだと思う」
千鶴は。
その言葉を聞いて。
少し安心したように微笑んだ。
「それなら大丈夫ですね」
「何が?」
「肇さん、浮かれてないから」
「浮かれてないよ」
「世界一のメダル持って帰ってきた人なので少し心配でした」
「ひどい」
二人で笑う。
◇◇◇
肇。
「それと」
「まだありますか?」
「スカウト」
千鶴。
「プロの?」
「うん」
「学校に来るんですよね?」
「多分かなり」
「世界大会の前から注目されていましたから」
「決勝の二本で余計に増えたと思う」
「でしょうね」
肇は。
少し考えて言う。
「正直」
「はい」
「怖い」
千鶴。
「スカウトが?」
「うん」
「甲子園より?」
「別の意味で」
「どうして?」
「今までは」
肇はゆっくり話す。
「野球が上手くなりたいから野球してた」
「はい」
「甲子園に行きたい」
「はい」
「全国優勝したい」
「はい」
「日本代表になりたい」
「はい」
「世界一になりたい」
「はい」
「でもこれからは」
肇は。
自分の手を見る。
「野球が仕事になるかもしれない」
千鶴は静かに聞いている。
「打てなかったら」
「はい」
「抑えられなかったら」
「はい」
「結果を出せなかったら」
「はい」
「それで終わる世界」
千鶴。
「怖いですか?」
肇は。
素直に。
「怖い」
と答えた。
千鶴は。
すぐに励ます言葉を言わなかった。
代わりに。
少し近くへ座る。
「でも」
「うん?」
「行きたいんでしょう?」
「行きたい」
「なら」
千鶴は微笑む。
「怖くても行けばいいと思います」
肇は。
千鶴を見る。
「肇さんは」
「うん」
「甲子園の前も緊張していました」
「うん」
「U-18選考の時も怖いと言っていました」
「うん」
「世界大会でも」
「うん」
「でも全部」
「…………」
「怖いから逃げるのではなく、怖いまま進んだでしょう?」
肇は。
少し黙った。
「だから」
千鶴は優しく言う。
「プロも同じでいいんじゃないですか?」
「怖いまま?」
「はい」
「進む?」
「はい」
肇は。
ゆっくり笑った。
「千鶴」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
◇◇◇
夕方。
再び。
肇は千鶴の膝へ頭を乗せていた。
千鶴。
「またですか?」
「今日は久しぶりだから」
「朝もしました」
「世界一のご褒美」
「便利な言葉ですね」
千鶴は。
それでも肇の髪を撫でる。
「千鶴」
「はい」
「ドラフト」
「はい」
「どこの球団でも」
「はい」
「指名されたところで頑張りたい」
千鶴。
「もう決めているんですか?」
「うん」
「希望球団は?」
「特にない」
「本当に?」
「どこでもプロだから」
千鶴。
「二刀流は?」
肇。
「それは球団と話す」
「投手一本と言われたら?」
「考える」
「野手一本なら?」
「それも」
「二刀流なら?」
肇。
「一番やってみたい」
千鶴は頷く。
「肇さんらしいですね」
「でも」
「はい?」
「どれになっても」
肇は。
千鶴を見上げる。
「プロになりたい気持ちは変わらない」
「分かりました」
◇◇◇
そして。
帰る時間。
肇は玄関で靴を履く。
千鶴が見送る。
「明日から学校ですね」
「うん」
「学校では?」
「東雲先生」
「私は?」
「高橋君って呼ぶ」
「はい」
肇。
「今日のことも?」
「秘密です」
「膝枕も?」
「もちろん」
「プロ志望届の話は?」
「それは時期が来れば学校でも公になります」
「そっか」
千鶴。
「でも」
「うん?」
「正式に提出したら」
「うん」
「また私にも教えてください」
「もちろん」
「一番に?」
肇が笑う。
「家族と千鶴」
「前にも同じ答えでしたね」
「変わらないよ」
千鶴は微笑んだ。
「待っています」
肇。
「千鶴」
「はい?」
「ただいま」
千鶴は。
一瞬驚いて。
そして。
とても優しく笑った。
「お帰りなさい、肇さん」
◇◇◇
世界一。
その翌日。
高橋肇は。
富山へ帰ってきた。
そして。
最初に向かったのは。
一番会いたかった人のところ。
東雲千鶴。
膝枕。
何でもない会話。
世界大会の話。
寂しかった時間。
そして。
次なる夢。
プロ野球。
プロ志望届。
十二球団のスカウト。
ドラフト。
甲子園全国制覇。
U-18世界一。
二つの大きな夢を叶えた肇は。
立ち止まらない。
次は。
高校野球から。
プロ野球へ。
高橋肇の名前を巡り。
十二球団が動き始めようとしていた。
番外編⒀「世界一の帰還――千鶴の膝枕と、プロへの決意」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
世界一を決めた翌日。
ついに肇が富山へ帰ってきました。
そして、最初に会いに行った相手は――千鶴。
世界大会中は毎日のようにテレビ電話をしていました。
顔を見ることもできた。
声を聞くこともできた。
「大好き」と伝え合うこともできた。
それでも、実際に会うこととはまったく違います。
だからこそ千鶴の、
「お帰りなさい、肇さん」
そして肇の、
「ただいま」
という、ごく普通の言葉に大きな意味がありました。
さらに世界大会中から何度も肇がお願いしていた――膝枕。
世界一のメダルを持って帰ってきても、千鶴の前では一人の高校生であり、一人の恋人です。
「ここではただの肇だから」
その言葉の通り、久しぶりに千鶴の膝で横になり、髪を撫でてもらう時間は、肇にとって世界大会の緊張から解放される大切なひとときになりました。
そして今回、肇は改めて自分の進路について千鶴へ伝えました。
「俺、プロ志望届を出す」
迷いはありません。
大学には進学せず――プロへ。
もちろん、これまでにも千鶴や家族、一条監督にはプロを目指す意思を伝えていました。
しかしU-18世界大会を終えた今、改めて本人の口から伝えたことで、その決意はいよいよ現実のものになろうとしています。
ただし、肇はプロの世界を甘く考えているわけではありません。
高校通算70本塁打。
最速160km。
甲子園全国制覇。
U-18世界一。
これだけの実績を残していても、
「プロに入ったら一番下からだと思う」
そう考えています。
そして初めて千鶴へ打ち明けた――「怖い」という本音。
これまで野球は夢を追いかけるものでした。
しかしプロになれば、野球そのものが仕事になります。
結果を求められる世界。
だからこそ千鶴が伝えた、
「怖くても行けばいいと思います」
という言葉が、肇の背中を押すことになりました。
さらに肇は、投手一本、野手一本、そして二刀流という可能性についても考え始めています。
本人が最も挑戦してみたいのは二刀流。
しかし最終的には、これから各球団のスカウトや一条監督とも話しながら、自分の将来を考えていくことになります。
世界一になって帰ってきた翌日。
千鶴の膝枕で過ごした穏やかな時間は、同時に肇が高校野球のその先へ踏み出すための時間にもなりました。
そして――。
次回、第41話から第45話。
「プロ野球スカウト本格始動編」
第41話「世界一の高校生を見に――十二球団の視線が富山へ」
U-18世界一となった高橋肇が、私立富山第二高等学校へ本格的に帰還。
しかし、そこで待っているのはいつもの学校生活だけではありません。
プロ野球十二球団。
スカウト。
スカウト部門責任者。
学校側では校長と一条昴監督が対応し、ブルペン投球、打撃練習、守備、走塁――。
いよいよ「高校球児・高橋肇」を、「ドラフト候補・高橋肇」として見る人々が富山へ集まり始めます。
全国一の次は世界一。
そして次なる夢は――プロ野球。
高橋肇の運命を大きく動かす秋が、始まります。




