第2話「野球部エースと吹奏楽部顧問――交わらないはずの放課後」
第2話では、高校三年生となった肇の「高校野球最後の夏」がいよいよ近づいてきます。
投手としてエースを背負い、打者として四番を任され、高校通算五十五本塁打を記録している肇。
そんな彼が目指しているのは、地区大会優勝、甲子園出場、そして全国制覇です。
一方、千鶴も吹奏楽部顧問として、生徒たちとコンクールへ向けた練習に励んでいます。
野球部のグラウンドと吹奏楽部の音楽室。
学校では活動する場所も立場も違う二人ですが、グラウンドまで届く千鶴のトロンボーンの音、そして音楽室まで聞こえてくる野球部の声が、二人をほんの少しだけつないでいます。
さらに今回は、校長先生と肇の父親が大学時代から先輩・後輩の関係であることも明らかになります。
由紀子と千鶴も高校時代の先輩・後輩。
思っていた以上に学校と家族のつながりが深いからこそ、二人はこれまで以上に秘密を守らなければなりません。
そして肇の練習ノートに書き加えられた二つの言葉。
『甲子園』
『全国制覇』
番外編⑴で千鶴と交わした約束を胸に、肇の最後の夏が少しずつ近づいてきます。
六月に入り、校内にも夏の気配が濃くなっていた。
高校三年生の肇にとって、この夏は高校野球最後の夏になる。
地区大会まで、残された時間は決して長くない。
朝七時。
野球部のグラウンドには、すでに部員たちの声が響いていた。
「高橋、ラスト十球!」
「はい!」
マウンドに立つ肇は、大きく振りかぶった。
踏み込んだ左足が土を捉える。
腕を振り抜いた瞬間――。
バシンッ!
捕手のミットから乾いた音が響いた。
「ナイスボール!」
「もう一球!」
肇はすぐにボールを受け取った。
高校通算五十五本塁打。
四番打者として注目されることも多いが、肇自身が何より誇りに思っているのは、チームのエースとしてマウンドを任されていることだった。
最後の地区大会。
負ければ終わり。
そして肇には、絶対に果たしたい約束がある。
――千鶴を甲子園へ連れていく。
さらに、その甲子園で優勝する。
先日の夜、二人だけで交わした約束だった。
「高橋!」
監督の声が飛んでくる。
「はい!」
「考え事するな! 一球に集中しろ!」
「すみません!」
肇は表情を引き締める。
今は野球だけを見る。
再び振りかぶった。
◇◇◇
朝練が終わり、肇が教室へ向かっていると、後ろから声を掛けられた。
「お兄ちゃん!」
「……学校ではもう少し静かに呼べって」
振り返れば、一年生の眞衣と真悠がいた。
双子だけあって、二人並ぶとよく似ている。
「朝練終わったの?」
眞衣が尋ねる。
「今終わった」
「汗すごいよ」
真悠が笑った。
「そりゃ練習してたからな」
「甲子園行けそう?」
「行けそうじゃない」
肇は即答した。
「行くんだよ」
眞衣と真悠が顔を見合わせた。
「出た」
「お兄ちゃんの野球モード」
「何だよ」
「別に」
眞衣がニヤニヤする。
そして周囲を確認してから、声を小さくした。
「約束したんでしょ?」
「何を?」
「千鶴さんと」
肇の顔色が変わる。
「学校でその名前と話を一緒に出すな」
「小さい声じゃん」
「それでも駄目」
真悠も頷いた。
「これはお兄ちゃんの言う通り。誰が聞いてるか分からないし」
「真悠は分かってるな」
「私だって分かってるもん」
眞衣が頬を膨らませる。
その時だった。
「高橋君」
聞き慣れた声がした。
三人が同時に振り向く。
千鶴だった。
学校の千鶴は、完全に教師の顔をしている。
「東雲先生、おはようございます」
「おはようございます」
肇は普段通りに頭を下げた。
千鶴は眞衣と真悠にも挨拶してから、肇を見る。
「朝練だったの?」
「はい」
「もうすぐホームルームでしょう。早く教室へ行きなさい」
「分かりました」
「それと、高橋君」
「はい?」
「廊下を走らないように」
「まだ走ってませんよ」
「これから走りそうだから言ってるの」
眞衣が吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
「何かおかしい?」
千鶴が尋ねる。
「い、いえ!」
「ならいいけど」
千鶴は何事もなかったように歩いていった。
三人は、その後ろ姿を見送った。
数秒後。
眞衣が小さく呟く。
「すごいよね」
「何が?」
「家との違い」
真悠も頷く。
「家では普通に『肇』なのに、学校では完璧に『高橋君』だもん」
「だから千鶴は教師なんだよ」
「お兄ちゃんも普通だったね」
「当たり前だろ」
肇はそう言いながら、千鶴が消えた廊下の先を一度だけ見た。
◇◇◇
昼休み。
職員室。
千鶴は吹奏楽部のコンクールに関する書類を確認していた。
「東雲先生」
声を掛けてきたのは教頭だった。
「はい」
「吹奏楽部の方はどうですか?」
「順調です。ただ、まだ細かいところは調整が必要ですね」
「今年も期待していますよ」
「ありがとうございます」
そこへ校長もやって来た。
「野球部も地区大会が近いな」
教頭が頷く。
「高橋君ですね。今年はかなり注目されているようです」
千鶴は書類から顔を上げた。
「高校通算五十五本でしたか」
校長が言った。
「そうですね」
千鶴は平静を装って答える。
校長はもちろん知らない。
目の前にいる千鶴と、その高橋肇が同じ家で暮らしていることなど。
「投手としてもいい選手だそうですね」
「野球部の先生が褒めていましたよ」
教頭も続ける。
千鶴は微笑んだ。
「最後まで悔いなく頑張ってほしいですね」
教師としてなら、それ以上のことは言えない。
本当は誰よりも応援している。
甲子園へ連れていく。
そう言ってくれた肇の顔も覚えている。
だが、ここでは胸の中にしまっておかなければならなかった。
すると校長が懐かしそうに言った。
「そういえば、高橋君のお父さんとは大学時代から縁がありましてね」
千鶴が顔を上げる。
「そうなんですか?」
「ええ。先輩後輩の間柄です」
教頭も初耳だったらしく驚く。
「それは知りませんでした」
「世間は狭いものですよ」
校長は笑った。
千鶴も微笑みながら、内心では改めて思った。
肇の家族と学校には、思っている以上にいくつものつながりがある。
だからこそ秘密には細心の注意が必要だった。
◇◇◇
放課後。
野球部のグラウンドと吹奏楽部の音楽室。
まったく違う二つの場所で、肇と千鶴はそれぞれの役割を果たしていた。
「高橋! 打撃入れ!」
「はい!」
肇がヘルメットを被る。
投手としての練習を終えた後は、四番打者としての打撃練習。
バットを構える。
投手が投げた。
カキィィン!
一球目から鋭い打球が左中間へ飛んでいく。
「いいぞ!」
二球目。
カキンッ!
今度はライナー。
そして三球目。
肇は踏み込んだ。
快音とともに白球が高く舞い上がる。
「行った!」
外野手が追うのをやめた。
そのままフェンスの向こうへ消えていく。
「高橋、絶好調だな!」
チームメイトが声を上げる。
しかし肇は浮かれなかった。
地区大会では一打席、一球が勝敗を左右する。
練習で何本打っても、大会で打てなければ意味がない。
「もう一球お願いします!」
肇は再び構えた。
◇◇◇
その頃。
音楽室では吹奏楽部の合奏が行われていた。
「一度止めましょう」
千鶴が手を上げる。
演奏が止まった。
「今の部分、金管が少し前に出すぎています。全員で同じ曲を作っていることを忘れないで」
「はい!」
「トロンボーン、もう少し息を遠くへ飛ばす感じで」
トロンボーン担当の女子生徒が首を傾げる。
「先生、どうしても音が硬くなるんです」
「じゃあ、少し吹いてみましょうか」
千鶴が楽器を受け取った。
高校時代。
由紀子の後輩だった頃から吹いてきたトロンボーン。
千鶴は楽器を構える。
息を吸う。
そして――。
柔らかく、厚みのある音が音楽室に響いた。
部員たちが聞き入る。
「こんな感じ」
「先生、やっぱり上手いです!」
「昔は毎日のように吹いていたからね」
千鶴は笑った。
「先生って高校時代も吹奏楽部だったんですよね?」
「そうよ」
「その頃からトロンボーンですか?」
「ずっとトロンボーン」
「高校生の東雲先生、見てみたい」
部員たちが笑う。
千鶴もつられて笑った。
窓の外からは、野球部の掛け声が聞こえてくる。
千鶴はほんの一瞬だけグラウンドへ目を向けた。
小さく見える背番号。
その中に肇がいる。
だが、すぐ部員たちへ視線を戻した。
「はい。それじゃあ、もう一度最初から」
「はい!」
◇◇◇
午後六時を過ぎた頃。
吹奏楽部の練習が先に終わった。
千鶴が職員室へ戻る途中、グラウンドの横を通る。
野球部はまだ練習していた。
肇がマウンドに立っている。
千鶴は立ち止まらなかった。
教師として、普通に通り過ぎる。
だが耳だけはグラウンドへ向いていた。
「ラスト一球!」
捕手が叫ぶ。
肇が振りかぶった。
バシンッ!
強烈な音。
「ナイスボール!」
千鶴の口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。
誰にも見られないほど一瞬だけ。
そしてそのまま職員室へ戻った。
◇◇◇
午後七時過ぎ。
肇が帰宅すると、玄関には千鶴の靴があった。
「ただいま」
「おかえり」
キッチンから声が返ってくる。
肇は荷物を置くと、リビングへ向かった。
「疲れた……」
ソファへ倒れ込む。
「そのまま寝ないでよ」
「五分だけ」
「朝も五分って言ってたでしょう?」
「今日は本当に五分」
千鶴がキッチンから顔を出す。
「ご飯できてるわよ」
その一言で肇が起き上がった。
「食べる」
「現金ね」
「腹減ってるから」
二人は食卓についた。
「いただきます」
「いただきます」
しばらく食べていると、千鶴が尋ねた。
「今日、ホームラン打ったでしょう?」
肇の箸が止まった。
「なんで知ってるの?」
「聞こえたもの」
「どこから?」
「吹奏楽部の練習中」
「見てた?」
「見てません」
「絶対ちょっと見た」
「見てません」
肇が笑う。
「じゃあ俺も聞いたよ」
「何を?」
「トロンボーン」
今度は千鶴が驚く。
「また聞こえてたの?」
「グラウンドまで聞こえる」
「恥ずかしいわね」
「上手かった」
「ありがとう」
「俺、千鶴が吹いてるところちゃんと見たいな」
「卒業してからなら、いくらでも」
「卒業してからか……」
「今は野球に集中」
「分かってるよ」
千鶴は少しだけ表情を柔らかくした。
「地区大会、近いでしょう?」
「うん」
「緊張してる?」
肇は少し考える。
「してる」
意外な答えだった。
「するのね」
「そりゃするよ。負けたら高校野球終わるから」
千鶴は静かに聞く。
「でも怖くはない」
「どうして?」
「やることはやってるから」
そして肇は千鶴を見る。
「それに約束したし」
「……甲子園?」
「うん」
「覚えてたのね」
「忘れるわけないだろ」
肇は笑った。
「地区大会で優勝して、千鶴を甲子園に連れていく」
「うん」
「それから甲子園でも優勝する」
千鶴はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「じゃあ私は、それまで吹奏楽部を頑張ろうかな」
「お互い最後まで?」
「私は教師だから最後じゃないけど」
「確かに」
二人が笑った。
◇◇◇
その夜。
肇は自分の部屋で練習ノートを開いていた。
今日の投球。
打撃。
身体の状態。
気になったことを一つずつ書いていく。
そこへ千鶴がやって来た。
「まだ書いてるの?」
「もう終わる」
千鶴は隣へ座った。
「真面目ね」
「甲子園行きたいから」
「うん」
「……千鶴」
「何?」
「今日、校長と話した?」
千鶴が驚く。
「どうして?」
「親父が言ってた。校長先生と大学の先輩後輩なんだって」
「今日、偶然その話を聞いたわ」
「やっぱり?」
「ええ」
肇は少し考える。
「余計に気をつけないとな」
千鶴も頷いた。
「そうね」
肇の父親と校長。
由紀子と千鶴。
家族と学校の間には、昔からのつながりがある。
秘密が明らかになれば、多くの人を巻き込むことになる。
「学校では今まで通り」
千鶴が言った。
「分かってる」
「眞衣ちゃんと真悠ちゃんにも、もう一度言っておきましょう」
「今日も注意した」
「何か言ってたの?」
「廊下で千鶴の名前出した」
「もう……」
「小声だったけど」
「二人にも気をつけてもらわないとね」
「うん」
肇は練習ノートを閉じた。
最後のページには、大きく一つだけ書いてある。
『甲子園』
千鶴はそれを見つけた。
「これ……」
「目標」
「優勝、じゃないの?」
肇はペンを持った。
『甲子園』の下へ新しく書き加える。
『全国制覇』
千鶴が目を丸くする。
「これでいい?」
「大きく出たわね」
「約束だから」
肇は迷わなかった。
地区大会優勝。
甲子園出場。
そして全国制覇。
まだ何一つ叶ってはいない。
けれど、その夢へ向かう時間は確実に始まっている。
千鶴はノートに書かれた文字を見つめたあと、静かに微笑んだ。
「頑張って、肇」
「うん」
「でも身体だけは大切に」
「分かってる」
学校では交わらないはずの二人。
吹奏楽部顧問と、野球部のエース。
教師と生徒。
けれど同じ家へ帰れば、互いの夢を誰より近くで応援できる。
夏は、もう目の前だった。
第2話「野球部エースと吹奏楽部顧問――交わらないはずの放課後」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、学校ではそれぞれ別の場所で活動する千鶴と肇を中心に描きました。
野球部のグラウンドでは、エースとしてマウンドに立ち、さらに四番打者としてホームランを放つ肇。
音楽室では、吹奏楽部顧問として部員たちを指導し、自らトロンボーンを手に取って高校時代から培ってきた演奏を披露する千鶴。
直接会話することができなくても、肇には千鶴のトロンボーンの音が聞こえ、千鶴には肇たち野球部の声や打球音が届いています。
また、同じ学校へ通う一年生の双子・眞衣と真悠も、二人の秘密を知る大切な存在です。
ただし、家族だからこそ学校での何気ない一言が秘密につながる可能性もあります。
さらに今回判明したのが、肇の父親と校長先生の大学時代からの関係。
由紀子と千鶴の高校時代からの先輩・後輩という関係も含め、家族と学校は意外なところでつながっています。
そして夜。
練習ノートに書かれていた『甲子園』という目標。
そこへ肇自身が、新たに『全国制覇』と書き加えました。
番外編⑴の夜、千鶴に約束した言葉は決して忘れていません。
地区大会で優勝する。
千鶴を甲子園へ連れていく。
そして最後には、甲子園で全国制覇を果たす。
その約束が現実になるのか――。
高校野球最後の夏は、もうすぐそこまで迫っています。




