番外編⑴「二人だけの夜――甲子園へ連れていくという約束」
今回の番外編⑴では、学校では決して見せることのできない、千鶴と肇の二人きりの夜を描きました。
学校では「東雲先生」と「高橋君」。
しかし家へ帰れば、二人は同じ時間を過ごし、学校では話せないこともゆっくりと語り合うことができます。
そして今回、肇が千鶴へ伝えた大きな約束。
「高校野球最後の夏、必ず地区大会で優勝して千鶴を甲子園へ連れていく。そして甲子園でも優勝する」
高校通算五十五本塁打を記録し、投手としてエース、打者として四番を背負う肇にとって、高校生活最後の夏はこれまで以上に特別なものとなります。
一方の千鶴も、ただ結果だけを求めるのではなく、肇が怪我をせず最後まで野球を続けられることを願っています。
二人だけの家で交わされた約束が、これから迎える最後の夏へどうつながっていくのか。
本編とは少し違う、二人の距離がより近く感じられる番外編です。
野球部の練習を終えた肇が家へ帰ったのは、すっかり日が暮れてからだった。
「ただいま」
「おかえり、肇」
玄関まで迎えに来た千鶴の顔を見た瞬間、肇の緊張がほどける。
学校では東雲先生と高橋君。
だが、この家では違う。
「今日も遅かったわね」
「最後の夏だから。監督も気合い入ってる」
「肇もでしょう?」
「もちろん」
夕食を終えると、肇は練習着を洗濯機へ入れた。
千鶴はその背中を見ながら尋ねる。
「身体、疲れてない?」
「疲れてるけど……まだ大丈夫」
「無理しないこと。地区大会の前に故障したら意味がないでしょう?」
「分かってる」
肇は振り返った。
「千鶴」
「何?」
「俺、今年は本気で甲子園まで行くから」
「……うん」
千鶴は優しく頷いた。
その言葉の続きは、後でゆっくり聞くことになる。
◇◇◇
夜。
二人は風呂場へ向かった。
湯気に包まれた浴室で、最初は互いにどこを見ればいいのか分からず、妙によそよそしくなった。
普段は一つ屋根の下で暮らしていても、こうして一緒に入浴するのは初めてだった。
「……なんか恥ずかしいな」
肇が視線を逸らす。
「私だって恥ずかしいわよ」
千鶴も同じだった。
教師として堂々としている学校での姿からは想像できないほど、頬を赤くしている。
「見ないでよ」
「千鶴だって見てるじゃん」
「見てない」
「今、見てた」
「もう……」
二人とも思わず笑った。
恥ずかしさは消えない。
それでも、同じ湯船に浸かる頃には少しずつ緊張も和らいでいった。
「気持ちいい……」
「練習の後だから余計に」
「ちゃんと疲れ取ってね」
「うん」
千鶴が肇の肩にそっと寄り添う。
肇も千鶴を抱き寄せた。
初めは恥ずかしがっていた二人だったが、今は互いの温もりを確かめるように抱き合っている。
しばらくして肇が口を開いた。
「千鶴」
「ん?」
「約束していい?」
「何を?」
肇の表情が変わる。
野球について話す時の真剣な顔だった。
「高校野球、最後の夏……絶対に地区大会で優勝する」
千鶴は黙って聞いていた。
「そして千鶴を甲子園へ連れていく」
「肇……」
「地区大会を勝ち抜いて終わりじゃない」
肇は千鶴を真っ直ぐ見つめた。
「甲子園でも勝つ」
「簡単なことじゃないわよ?」
「分かってる」
全国から強豪校が集まる舞台。
投手としても、四番打者としても、今までとは比較にならない相手と戦うことになる。
それでも肇は迷わなかった。
「俺、甲子園で優勝する」
千鶴の目がわずかに潤んだ。
「……そんな大きな約束、簡単にしちゃ駄目でしょう」
「簡単に言ってないよ」
「でも……」
「千鶴に見ていてほしい」
その一言に千鶴は何も返せなくなった。
やがて、微笑む。
「分かった」
「うん」
「甲子園、連れていって」
「絶対」
「優勝するところも見せて」
「約束する」
千鶴は肇をそっと抱きしめた。
「応援してるから」
「ありがとう」
二人はしばらく、そのまま抱き合っていた。
◇◇◇
風呂から上がり、二人は寝室へ向かった。
ベッドに腰掛けた千鶴が髪を乾かしていると、肇は隣からその姿を眺めていた。
「何?」
「いや」
「また見てる」
「学校の東雲先生とは全然違うなって」
「当たり前でしょう」
千鶴はドライヤーを止めた。
「学校でこんな姿を見せるわけないじゃない」
「学校では高嶺の花だもんな」
「またそれ?」
「でも俺は家の千鶴の方が好き」
千鶴の頬が赤くなる。
「そういうことを急に言わないの」
「本当だから」
「……ありがとう」
二人はベッドに並んだ。
少し前まで風呂場で交わしていた約束が、まだ二人の胸に残っていた。
「肇」
「ん?」
「さっきの約束」
「甲子園?」
「そう」
千鶴は肇の手を握った。
「約束を守ろうとして無茶するのだけは駄目よ」
「分かってる」
「肘とか肩とか、少しでも変だったらちゃんと言うこと」
「はい、東雲先生」
「今は先生じゃありません」
「じゃあ千鶴」
「うん」
「俺が甲子園に行ったら、ちゃんと応援席にいて」
「もちろん」
「見つけるから」
「何万人いると思ってるの?」
「千鶴なら分かる」
「どうして?」
「ずっと見てきたから」
一瞬、静かになった。
高校一年生の春。
告白したあの日から、肇の気持ちは変わっていない。
千鶴はそんな肇を見つめ、そっと寄り添った。
「……頑張ってね」
「うん」
「甲子園、楽しみにしてる」
「任せて」
二人は抱き合った。
今夜交わした約束は、ただの勢いではない。
地区大会優勝。
甲子園出場。
そして全国制覇。
高校生活最後の夏を懸けた、肇の決意だった。
「おやすみ、肇」
「おやすみ、千鶴」
照明が消える。
暗くなった部屋の中でも、二人の手は離れなかった。
学校では誰にも言えない関係。
けれど、この家の中で交わした約束だけは本物だった。
――必ず、千鶴を甲子園へ連れていく。
そして、甲子園で優勝する。
その約束を胸に、肇の高校野球最後の夏が、少しずつ近づいていた。
番外編⑴「二人だけの夜――甲子園へ連れていくという約束」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、学校生活から離れた千鶴と肇の二人だけの時間、そして高校野球最後の夏へ向けた肇の決意を中心に描きました。
一緒に暮らしていても、学校では教師と生徒として振る舞わなければならない二人。
だからこそ、誰にも見られることのない家で過ごす時間は、二人にとって特別なものになっています。
そして何より重要なのが、風呂場で肇が千鶴へ伝えた約束でした。
地区大会を勝ち抜き、甲子園へ出場する。
さらに、その甲子園でも優勝する。
それは簡単に叶えられる目標ではありません。
千鶴もそれを分かっているからこそ、肇に無理だけはしてほしくないと伝えました。
「甲子園へ連れていって」
「優勝するところも見せて」
そうして交わされた二人だけの約束。
これから肇にとって、高校野球最後の夏が始まります。
エースとしてマウンドに立ち、四番打者として打席へ向かう肇。
そして吹奏楽部顧問でありながら、一番近くで肇を応援する千鶴。
果たして肇は地区大会を勝ち抜き、約束通り千鶴を甲子園へ連れていくことができるのか。
二人だけが知る約束を胸に、物語は高校生活最後の夏へ向かっていきます。




