第1話「学校では先生と生徒、家では二人きり――誰にも言えない同棲生活」
第1話では、高校三年生となった高橋肇と、学校一の「高嶺の花」と呼ばれる美人教師・東雲千鶴の秘密の日常が本格的に始まります。
家では一緒に朝食を食べ、何気ない会話を交わす二人。
しかし、一歩学校へ入れば「東雲先生」と「高橋君」。
同じ家で暮らしていることを悟られないよう、二人は教師と生徒として接しなければなりません。
さらに、同じ高校へ入学した肇の双子の妹・眞衣と真悠も登場。
秘密を知っている二人だからこそ、学校では余計なことを口にしないよう気をつけながら、兄と千鶴を見守っています。
吹奏楽部顧問としてトロンボーンを手にする千鶴。
野球部のエース兼四番打者として、最後の夏と甲子園を目指す肇。
それぞれが学校で違う場所に立ちながら、家へ帰れば再び二人だけの日常へ――。
そんな秘密だらけの高校生活最後の一年、その最初の一日をお楽しみください。
朝六時。
東雲千鶴と高橋肇が暮らす家に、スマートフォンのアラーム音が響いた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、まだ静かな部屋を少しずつ明るくしていく。
「……ん……」
先に目を覚ました千鶴は、枕元のスマートフォンへ手を伸ばしてアラームを止めた。
隣では肇がまだ眠っている。
十八歳になり、高校三年生となった肇。
学校では野球部のエースであり、四番打者。高校通算五十五本塁打を記録しているため、校内では知らない者がほとんどいないほど有名だった。
そんな肇が今は無防備な顔で眠っている。
「肇、朝よ」
「……あと五分」
「昨日もそれ言ってたでしょう?」
「じゃあ三分……」
「減らせばいいってものじゃないの」
千鶴は呆れながら笑った。
学校で男子生徒たちから「高嶺の花」と呼ばれている教師とは思えないほど、家での千鶴の表情は柔らかい。
「ほら。今日は朝練あるんでしょう?」
その一言で、肇の目が開いた。
「……朝練」
「そう」
「何時?」
「六時五分」
「まだ大丈夫」
「だからって二度寝しない」
布団へ戻ろうとする肇を千鶴が止める。
「起きなさい、高橋君」
「家で高橋君って呼ぶの禁止」
「あら、そうだった?」
「千鶴」
肇が少し不満そうに名前を呼ぶ。
「分かったわよ、肇」
その声を聞いて、ようやく肇は身体を起こした。
◇◇◇
千鶴が朝食を用意している間に、肇は制服へ着替えた。
食卓にはご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、サラダが並ぶ。
「すご……」
「朝練するんだから、ちゃんと食べなさい」
「毎朝こんなに作らなくてもいいのに」
「野球部のエースが朝ご飯を抜いて倒れたら、私が困るもの」
「先生として?」
肇が尋ねる。
千鶴は一瞬黙った。
「……それだけじゃないけど」
小さな声だった。
肇は思わず笑う。
「何よ?」
「いや」
「何?」
「嬉しいなと思って」
「もう……早く食べなさい」
二人で向かい合って朝食を食べる。
学校では絶対にできない時間だった。
学校へ行けば、二人は教師と生徒。
廊下ですれ違っても特別扱いはしない。
千鶴は「高橋君」と呼び、肇は「東雲先生」と呼ぶ。
それが二人で決めたルールだった。
「今日、吹奏楽部?」
「ええ。コンクールに向けて練習が増えてきたから」
「千鶴もトロンボーン吹く?」
「今日は少しだけね。後輩たちにお手本を見せる予定」
「見に行きたいな」
「駄目」
即答だった。
「なんで?」
「野球部でしょう?」
「休憩中とか」
「高橋君が突然吹奏楽部へ来たら目立つでしょう」
「……確かに」
「あなた、自分が学校でどれだけ有名か分かってないのよ」
高校通算五十五本塁打。
投手としてもエース。
野球部では四番。
他校からも注目される存在になっていた。
「千鶴だって有名じゃん」
「私は普通の教師です」
「学校一の高嶺の花」
「誰から聞いたのよ、それ」
「男子ならみんな知ってる」
千鶴が眉を寄せる。
「嬉しくない呼ばれ方ね」
「俺はちょっと複雑」
「どうして?」
「みんな千鶴のこと綺麗って言うから」
「はいはい」
「本当に」
「学校で変な顔しないでよ?」
「分かってる」
秘密を守る。
それだけは二人とも徹底していた。
◇◇◇
七時前。
二人は時間をずらして家を出た。
同じ家から一緒に登校することはできない。
千鶴が先に学校へ向かい、肇は少し時間を空けてから自転車で学校へ向かう。
校門をくぐった瞬間、二人の関係は切り替わる。
「東雲先生、おはようございます!」
「おはようございます」
千鶴が生徒たちへ挨拶する。
少し離れた場所から肇が歩いてくる。
視線が一瞬だけ重なった。
しかし千鶴はいつもの教師の顔だった。
「高橋君、おはよう」
「おはようございます、東雲先生」
それだけ。
そのまま通り過ぎる。
ところが肇の後ろを歩いていた野球部員が言った。
「やっぱ東雲先生って美人だよな」
「朝から何言ってんだよ」
「いや、だってそうだろ? 学校一って言われてるじゃん」
「知らねえよ」
肇は平静を装った。
「高橋、お前興味ないの?」
「先生だぞ」
「真面目だなぁ、エース」
肇は苦笑する。
もちろん興味がないわけではない。
むしろ誰よりも千鶴を見ている。
だが、それを口にすることだけはできなかった。
◇◇◇
朝練が始まった。
肇がマウンドへ上がる。
キャッチャーがミットを構えた。
「お願いします!」
振りかぶる。
踏み込む。
腕を振り抜く。
バシンッ!
鋭い音がグラウンドへ響いた。
「ナイスボール!」
次の球。
さらに次。
投手としての練習を終えると、今度は打撃練習へ移る。
肇は四番打者として打席へ入った。
カキィィン!
白球が高く舞い上がった。
外野手が見上げる。
そのままフェンスを越えた。
「また入った!」
「高橋、今日何本目だよ!」
肇は黙って次の球を待つ。
甲子園。
高校生活最後の夏。
そこへ行くことが、野球部員としての最大の目標だった。
◇◇◇
昼休み。
肇が廊下を歩いていると、向こうから見覚えのある二人がやってきた。
「お兄ちゃん!」
眞衣だった。
その隣には双子の真悠。
二人とも今年、この高校へ入学した一年生である。
「学校で大声でお兄ちゃんって呼ぶなよ」
「兄なんだからいいじゃん」
「それは別に秘密じゃないだろ」
真悠が笑った。
「今日さ」
眞衣が声を小さくする。
「帰り、そっち行っていい?」
「また?」
「いいでしょ?」
「千鶴さんにも会いたいし」
肇が慌てて周囲を見る。
「名前を出すなって」
「誰も聞いてないよ」
「そういう油断からバレるんだよ」
二人は顔を見合わせる。
「お兄ちゃん、意外と慎重」
「当たり前だ」
その時だった。
廊下の向こうから千鶴が歩いてきた。
眞衣と真悠もすぐ気づく。
だが、ここは学校。
「東雲先生、こんにちは」
眞衣が普通に挨拶した。
「こんにちは、高橋さん」
千鶴も教師として返す。
「真悠さんも、学校には慣れた?」
「はい。だいぶ慣れました」
「それなら良かったわ」
そして肇を見る。
「高橋君」
「はい」
「午後の授業、寝ないようにね」
「寝ませんよ」
「朝練の後だから心配なの」
「大丈夫です」
「ならいいわ」
千鶴はそれだけ言って歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、眞衣が小声で言う。
「すごい」
「何が?」
「完全に先生だった」
真悠も頷く。
「家と全然違う」
「だから言っただろ。学校では余計なこと言うなよ」
「分かってます」
双子が揃って答えた。
◇◇◇
放課後。
野球部の練習が始まった。
同じ頃、音楽室では吹奏楽部が練習していた。
千鶴は顧問として部員たちを見て回る。
「そこ、もう一度合わせましょう」
「はい!」
「金管、少し強すぎるかな。木管とのバランスを意識して」
そしてトロンボーン担当の生徒から質問を受ける。
「先生、この部分が上手くできなくて……」
「貸してみて」
千鶴は久しぶりにトロンボーンを手にした。
高校時代。
由紀子の後輩として吹奏楽部で過ごしていた頃から、ずっと親しんできた楽器だった。
姿勢を整える。
息を吸う。
柔らかな音色が音楽室へ広がった。
部員たちが静かに聞いている。
「こんな感じ。音を無理に押し出すんじゃなくて、息を前へ流すイメージで」
「先生、やっぱり上手い……」
「昔取った杵柄よ」
千鶴が微笑んだ。
その音は、開いていた窓からグラウンドまで微かに届いていた。
守備練習の合間。
肇が校舎を見る。
「高橋! どうした!」
監督の声が飛ぶ。
「すみません!」
すぐ練習へ戻る。
それでも肇には分かった。
今のトロンボーンは千鶴だ。
◇◇◇
夕方。
練習が終わった。
肇が校舎へ戻ると、生徒の姿はかなり少なくなっていた。
廊下の先から千鶴が歩いてくる。
「高橋君」
「東雲先生」
二人は足を止める。
周囲には誰もいない。
それでも距離は保った。
「練習終わったの?」
「はい」
「お疲れさま」
「先生も」
「ありがとう」
肇は少し笑う。
「さっきトロンボーン吹いてました?」
千鶴が驚いた。
「聞こえたの?」
「ちょっとだけ」
「野球に集中しなさい」
「してますよ」
「本当に?」
「ホームラン打ちました」
「練習でしょう?」
「練習でもホームランはホームランです」
千鶴が思わず笑った。
その瞬間だけ、家で見せる表情が戻った。
だが、階段の方から物音がした。
二人の表情が一瞬で変わる。
「それじゃあ、高橋君。気をつけて帰ってください」
「はい。東雲先生もお疲れさまでした」
別々の方向へ歩き出す。
すれ違った教師は何も気づかなかった。
◇◇◇
夜。
「ただいま」
「おかえり」
肇が家へ帰ると、千鶴が夕食を作っていた。
学校で見せていた教師の顔とは違う。
エプロン姿でキッチンに立っている。
「眞衣と真悠は?」
「さっきまでいたわよ」
「もう帰った?」
「お母さんから連絡が来たから帰った」
「なんだ」
「残念?」
「いや、静かでいい」
「後で二人に言っておくわね」
「やめて」
千鶴が笑う。
「手洗ってきて。もうできるから」
「はーい」
しばらくして二人は食卓についた。
「いただきます」
「いただきます」
肇は一口食べる。
「美味しい」
「本当?」
「うん」
「良かった」
学校では言えないことが、家では自然に言える。
「今日さ」
「何?」
「男子がまた千鶴のこと高嶺の花って言ってた」
「まだ気にしてるの?」
「ちょっと」
「私は教師なんだから、生徒に何を言われても気にしないわよ」
「でも美人って言われてた」
「それは……悪口じゃないでしょう?」
「俺が気になる」
千鶴は少し困ったように笑った。
「肇」
「ん?」
「学校では、ちゃんと今まで通りにしてね」
「分かってる」
「高校生活もあと少しなんだから」
肇の表情が少しだけ真剣になる。
「卒業したら?」
千鶴は答えなかった。
「千鶴」
「まずは卒業しなさい」
「そこ?」
「それと甲子園」
肇が笑った。
「行くよ」
「うん」
「絶対行く」
千鶴は静かに頷いた。
「応援してる」
「学校の先生として?」
また同じ質問だった。
千鶴はしばらく肇を見つめる。
そして今度は少しだけ違う答えを返した。
「学校では先生として」
「家では?」
「……あなたを一番近くで応援している人として」
肇は嬉しそうに笑った。
◇◇◇
その夜。
千鶴は吹奏楽部の楽譜を確認し、肇は野球部の練習ノートを書いていた。
同じテーブル。
それぞれ違うことをしている。
それでも同じ場所にいる。
「千鶴」
「何?」
「明日も朝練だから起こして」
「自分で起きなさい」
「一応アラームはかける」
「なら大丈夫でしょう?」
「千鶴に起こされる方が起きられる」
「まったく……」
呆れながらも千鶴は微笑んだ。
「分かったわ」
「ありがとう」
学校では教師と生徒。
家では誰にも見せることのできない穏やかな日常。
二人の関係を知っているのは、それぞれの家族だけ。
学校の生徒も。
野球部の仲間も。
吹奏楽部の部員たちも。
校長も教頭も知らない。
明日の朝になれば、千鶴は再び「東雲先生」になり、肇は「高橋君」に戻る。
そして放課後、それぞれの部活動を終えてこの家へ帰ってくれば、また二人の日常が始まる。
高校生活最後の一年。
誰にも言えない秘密を守りながら、千鶴と肇の同棲生活は静かに動き始めていた。
第1話「学校では先生と生徒、家では二人きり――誰にも言えない同棲生活」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、千鶴と肇がどのように学校と家庭で関係を切り替えているのかを中心に描きました。
朝は同じ家で食卓を囲んでいた二人が、登校すれば「東雲先生」と「高橋君」に戻る。
廊下ですれ違っても特別な態度は取れず、周囲に生徒や教師がいれば、ごく普通の教師と生徒として接するしかありません。
また今回は、肇の双子の妹である眞衣と真悠も学校生活に登場しました。
二人は兄と千鶴の事情を知っていますが、学校では秘密を守る側の人間でもあります。
一方、放課後にはそれぞれの部活動へ。
高校時代にトロンボーンを担当していた千鶴が吹奏楽部の生徒へ演奏を披露し、その音をグラウンドにいる肇が偶然耳にする場面。
そして肇は、投手としてマウンドに立ちながら、四番打者としても甲子園を目指して練習を続けています。
学校では決して見せられない二人の関係。
それでも家へ帰れば、一緒に夕食を食べ、その日の出来事を話しながら過ごすことができます。
「学校では先生として」
「家では、あなたを一番近くで応援している人として」
千鶴にとっても、肇にとっても、高校生活最後の一年は特別な時間になっていきます。
そして二人の周囲には、まだ秘密を知らない校長や教頭、野球部の仲間、吹奏楽部の生徒たちがいます。
誰にも知られてはいけない同棲生活を続けながら、肇は最後の夏、そして甲子園を目指すことができるのか。
二人の学校生活と家での日常は、まだ始まったばかりです。




