第23話「試合のない一日――地方球場での調整と、電話越しに交わす二人の約束」
第23話では、甲子園初戦を十二対三で突破した翌日。
高橋肇たちには試合がなく、甲子園近くの地方球場で軽いウォーミングアップと調整練習を行います。
前日の横浜高校戦では、肇が一試合四本塁打。
高校通算六十四本塁打。
さらに一回、三回、五回には160kmのストレートを記録しました。
しかし一条昴監督が何度も言うように、それはすでに終わった試合。
次の二回戦は、また〇対〇から始まります。
そんな中、甲子園では別の高校による一回戦が次々と開催。
大阪桐蔭高校対広陵高校。
仙台育英高校対中京大中京高校。
智辯学園高校対花咲徳栄高校。
全国の強豪校同士による試合結果を、二人のマネージャーが地方球場へ逐一報告してくれます。
他校の試合からも、
「甲子園では最後まで何が起きるか分からない」
ということを学んでいく肇たち。
そして昼休み。
昼食を終えた肇がどうしても声を聞きたいと思った相手は――東雲千鶴。
前薗晃大と鈴木和誠から止められそうになりますが、二人の関係を知っている一条監督は、相手の名前を明かすことなく五分だけ電話を許可します。
学校では絶対に言えない、
「大好き」
「愛してる」
という言葉。
会えないからこそ、電話越しに確かめ合う二人の気持ち。
甲子園二回戦を前にした、試合のない一日です。
甲子園初戦。
神奈川県代表・横浜高校を十二対三で破った翌日。
高橋肇たちに試合はなかった。
次の二回戦まで、一日空く。
だからといって、完全な休養日になるわけではない。
午前八時過ぎ。
野球部七十人とマネージャー十一人を乗せたバスは、甲子園球場ではなく、甲子園から少し離れた地方球場へ向かっていた。
この日はそこで軽いウォーミングアップと守備、打撃、投手陣の調整だけを行う予定だった。
昨日。
十二対三。
高橋肇は一試合四本塁打。
高校通算本塁打数を六十本から六十四本へ伸ばした。
さらに投手としても一回、三回、五回に160kmを記録。
甲子園初戦から強烈な印象を残した。
しかし一条昴監督からは、試合終了直後に、
「四本塁打も160キロも忘れろ」
と言われている。
だから今日。
肇も、いつもと変わらずバスの座席でグラブを確認していた。
隣には前薗晃大。
「肇」
「何?」
「肩どう?」
「普通」
「張りは?」
「少しだけ」
前薗の表情が変わる。
「少し?」
「普通の張り」
「監督に言った?」
「言った」
「本当に?」
「何で疑うんだよ」
「前のお前なら隠すから」
「地区大会で学んだって」
前薗は少し安心した。
「ならいい」
その前の席から、主将・鈴木和誠が振り返る。
「今日は投げ込みするなよ」
「監督にも言われてる」
「打撃もほどほど」
「それは知らない」
「そこもほどほどにしろよ」
「バッティングは肩関係ないだろ」
前薗が即座に言う。
「腰と手首と疲労は関係ある」
「お前、最近千鶴みた――」
肇は途中で言葉を止めた。
「……何?」
前薗が首を傾げる。
「何でもない」
危なかった。
学校では誰も知らない。
東雲千鶴が自分の恋人であることを。
前薗も。
鈴木も。
野球部のほとんどの仲間も。
知っているのは一条監督などごく一部だけだ。
和誠が笑う。
「何か変だぞ」
「寝不足」
前薗がすぐ反応。
「監督ー!」
「やめろ!」
車内に笑いが起きた。
◇◇◇
その頃。
甲子園球場では、すでに別の学校同士による一回戦が始まっていた。
この日の第一試合。
大阪府代表・大阪桐蔭高校。
対するは広島県代表・広陵高校。
全国でも知られる強豪同士の対戦。
第二試合。
宮城県代表・仙台育英高校。
対するは愛知県代表・中京大中京高校。
そして第三試合。
奈良県代表・智辯学園高校。
対するは埼玉県代表・花咲徳栄高校。
どのカードも、甲子園らしい強豪校同士の一戦だった。
高橋たちの学校にとって、今日の試合に直接関係する相手ではない。
それでも。
全国大会。
どの学校と、どこで当たる可能性があるか分からない。
だから一条監督は言っていた。
「甲子園では、自分たちの試合がない日も大会を見ろ」
「他校がどう戦うか」
「終盤でどう動くか」
「投手をどう継投するか」
「全部勉強になる」
そして、その役割の一部を担っているのが――。
マネージャーたちだった。
◇◇◇
地方球場へ到着。
「集合!」
一条監督の声。
七十人が一列に並ぶ。
「今日は調整日だ」
「はい!」
「昨日の試合で身体に負担がある選手は、無理をするな」
「はい!」
「特に高橋」
また名指し。
「はい」
「今日はブルペンなし」
「はい」
「キャッチボールも軽め」
「はい」
「打撃は?」
肇が聞く。
一条監督が少し考える。
「二十球」
「少なっ!」
「高橋」
「はい」
「四本打った翌日に百球打つ必要がどこにある」
周囲から笑い。
前薗が言う。
「監督正解」
「晃大は黙ってろ」
一条監督が続ける。
「甲子園は連戦になる」
「はい」
「練習で疲れて試合で動けません、では話にならない」
「はい!」
「休む勇気も持て」
「はい!」
「ではアップ開始!」
七十人が動き出した。
軽いランニング。
ストレッチ。
ダッシュ。
キャッチボール。
いつもの練習より負荷は軽い。
それでも全員の表情は真剣だった。
◇◇◇
「高橋先輩!」
二年生・久我直哉がボールを持ってくる。
「何?」
「キャッチボールお願いします」
「いいよ」
二人が少し距離を取る。
軽く投げる。
パシッ。
久我が投げ返す。
パシッ。
「先輩」
「ん?」
「昨日の160、どういう感覚だったんですか?」
肇は少し考える。
「普通」
「絶対嘘です」
「本当に」
「力入れたんじゃないんですか?」
「最初の160はむしろそんなに力入れてない」
久我が驚く。
「それで160?」
「俺も数字見てびっくりした」
「じゃあ本気出したら?」
「知らない」
「162とか?」
「出す必要ないだろ」
久我が少し笑う。
「前の先輩なら、絶対試してません?」
肇が止まる。
「……確かに」
「ですよね」
「俺、成長したな」
「自分で言います?」
二人が笑う。
少し離れたところで一条監督が見ている。
「高橋!」
「はい!」
「距離広げるなよ!」
「分かってます!」
久我が笑う。
「監視されてますね」
「信用なさすぎる」
◇◇◇
しばらくして。
一人のマネージャーがグラウンドへ走ってきた。
二年生マネージャー・森下結菜。
手にはスマートフォンと記録用ノート。
「監督!」
「どうした?」
「甲子園第一試合、終わりました!」
練習していた選手たちも自然と反応する。
一条監督が尋ねる。
「結果は?」
「大阪桐蔭高校が広陵高校に七対四で勝利です」
「七対四」
「はい。六回まで四対四でしたが、七回に大阪桐蔭が三点を取りました」
一条監督が言う。
「投手継投は?」
結菜はノートを見る。
「大阪桐蔭は先発が六回まで、その後二人継投です。広陵は七回途中まで先発でした」
「失策は?」
「大阪桐蔭が一つ。広陵が二つです」
一条監督が全員を見る。
「聞いたか?」
「はい!」
「四対四から終盤で三点」
「はい」
「甲子園では一つの守備、一つの四球で試合が動く」
「はい!」
一条は結菜へ。
「ありがとう。次も頼む」
「はい!」
結菜は再びベンチ脇へ。
そこにはもう一人。
一年生マネージャー・山岸ひなた。
今日、二人が交代で第一試合から第三試合までの情報をまとめ、逐一グラウンドへ持ってくる役割を任されていた。
肇が和誠へ言う。
「大阪桐蔭勝ったか」
「強いな」
「広陵も強い」
「甲子園だな」
「うん」
全国の強豪が次々と勝ち上がっていく。
その中で、自分たちも一校として残っている。
その事実が重かった。
◇◇◇
午前十一時前。
打撃練習。
一条監督から言われた通り、肇は二十球だけ。
一球目。
カァン!
右中間。
二球目。
ファウル。
三球目。
センター前。
四球目。
見逃し。
前薗が捕手役を務めている。
「昨日より身体重い?」
「少し」
「やっぱり」
「でも振れる」
「だから二十球で終われ」
「分かってる」
十球目。
カキィン!
打球はフェンス際へ。
「入らない!」
肇が悔しそう。
「昨日四本打っただろ」
「今日は今日」
前薗が笑う。
「その考え方、監督に怒られそう」
「次」
十五球目。
強烈なライナー。
十八球目。
右方向への安打性。
十九球目。
ファウル。
二十球目。
肇は最後だけ少し深く構えた。
カキィィン!
大きな打球。
左中間。
そのままフェンスを越えた。
「よし」
肇がバットを置く。
一条監督が遠くから言う。
「終わり!」
「分かってます!」
「追加するなよ!」
「しません!」
前薗が驚く。
「本当に?」
「俺、そんな信用ない?」
「ない」
「即答するな」
◇◇◇
昼前。
今度は山岸ひなたが走ってきた。
「監督!」
「二試合目か?」
「はい!」
選手たちも集合する。
「仙台育英高校対中京大中京高校は、六対五で仙台育英高校が勝ちました!」
「一点差」
和誠が呟く。
ひなたが続ける。
「九回表まで中京大中京が五対四でリードしていましたが、九回裏に仙台育英が二点取ってサヨナラです」
肇が少し反応する。
「サヨナラ……」
地区大会決勝。
自分たちも同じだった。
八対八。
九回裏。
最後に自分が打った。
一条監督は言う。
「九回まで勝負は終わらない」
「はい!」
「一点リードしていても」
「はい!」
「一点負けていても」
「はい!」
「最後のアウトまで何があるか分からない」
「はい!」
そして。
「決勝で経験したな」
肇たち三年生が頷く。
「はい!」
一条監督は満足そうに頷いた。
◇◇◇
正午。
午前の調整が終了。
「昼食!」
選手たちは地方球場の施設内へ。
弁当が配られる。
肇。
前薗。
和誠。
黒崎。
早川。
久我。
ほかの部員たちも、それぞれ食事を始める。
「いただきます!」
肇も食べ始めた。
肉。
魚。
野菜。
ご飯。
体調管理を考えた食事。
前薗が肇の弁当を見る。
「野菜残すなよ」
「残さないよ」
「監督に言われるから」
「お前、最近本当に父親みたいだぞ」
和誠が笑う。
「女房役だろ?」
前薗が即座に。
「野球の意味でな」
「分かってるよ」
肇が笑った。
だが。
「女房役」という言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ千鶴の顔が浮かんだ。
昨夜から会えていない。
いや。
甲子園へ来てから、学校の関係者として遠くから姿を見るだけ。
二人きりで話していない。
試合中も教師と生徒。
ホテルも別。
応援組は別の宿泊先。
そして――。
昼食を食べ終えた肇は、スマートフォンを見た。
時刻。
十二時三十五分。
「……今なら」
小さく呟く。
立ち上がった。
前薗がすぐ反応。
「どこ行く?」
「電話」
「誰に?」
「ちょっと」
和誠も見る。
「今から午後のミーティングだぞ」
「まだ時間ある」
「五分だけだぞ?」
「分かってる」
前薗が少し怪しそうに見る。
「昨日も誰かと連絡してたよな」
肇は一瞬だけ黙る。
「家族」
完全な嘘ではない。
真悠や眞衣、両親とも連絡している。
しかし今回電話したい相手は――千鶴。
肇が少し離れた場所へ行こうとした、その時。
「高橋」
一条監督。
「はい」
「どこ行く?」
「電話です」
「誰に?」
肇は答えられない。
周囲に部員がいる。
「……ちょっと」
前薗が言う。
「監督、もうすぐミーティングですよね?」
和誠も。
「俺たちも止めたんですけど」
肇が不満そう。
「五分だって」
一条監督は肇の顔を見る。
数秒。
そして何かを察した。
一条監督は知っている。
東雲千鶴と高橋肇の関係。
校長。
教頭。
一条監督。
家族。
ごく一部だけが知る秘密。
「五分」
一条監督が言った。
「え?」
「五分なら行ってこい」
前薗と和誠が驚く。
「監督いいんですか?」
「午後練習前に戻るならな」
肇は一条監督を見る。
目が合う。
一条監督がほんの少しだけ頷いた。
誰に電話するかは言わない。
だが理解している。
肇も小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
一条監督が付け加える。
「高橋」
「はい」
「五分だぞ」
「はい!」
◇◇◇
同じ頃。
甲子園から少し離れたホテル。
応援組も滞在していた。
吹奏楽部。
チアリーディング部。
そして学校から応援へ来ている生徒たち。
午前中。
真悠たち吹奏楽部三十人は、ホテル側から借りた練習スペースで合奏していた。
「もう一度お願いします!」
千鶴が前へ立つ。
「はい!」
甲子園では次の試合も大観衆が予想される。
音量。
テンポ。
応援の切り替え。
曲順。
全部確認する。
真悠も楽器を構える。
「高橋君の応援曲、入りをもう少し揃えましょう」
「はい!」
千鶴が言う。
その言葉。
学校では自然。
高橋君。
けれど心の中では――。
肇。
昨日。
160km。
四本塁打。
本当に驚いた。
そして同じくらい、身体が心配だった。
午前の練習が終了。
「十二時から昼休憩です」
「はい!」
部員たちが解散。
真悠が千鶴へ言う。
「先生」
「何ですか?」
「お兄ちゃん、今日は試合ないですよね?」
「はい」
「地方球場で調整と聞いています」
「無茶してないかな」
千鶴が少し笑う。
「一条先生がいますから」
真悠も笑う。
「それなら大丈夫か」
二人とも同じ心配をしている。
そこへ眞衣もチアリーディング部の仲間と合流。
「真悠!」
「眞衣」
「お昼一緒に食べる?」
「うん」
眞衣が千鶴を見る。
「東雲先生も?」
「先生方と食事します」
「そっか」
学校の生徒たちが大勢いる。
だからここでは、三人も教師と生徒。
いつものように振る舞う。
千鶴がホテルの廊下を歩いていた時だった。
スマートフォンが振動した。
画面。
『肇』
千鶴の足が止まった。
「……」
周囲を見る。
誰もいない場所へ少し移動する。
そして電話へ出た。
「もしもし?」
◇◇◇
「千鶴」
電話越し。
聞き慣れた声。
千鶴の表情が一気に柔らかくなる。
「肇」
「久しぶり」
「昨日会ったでしょう?」
「遠くから」
「確かに」
「二人で話してない」
千鶴が少し笑う。
「練習は?」
「午前終わった」
「肩は?」
最初にそれ。
肇が笑う。
「やっぱり聞くと思った」
「160kmを三回も出した人に聞くのは当然です」
「少し張ってる」
千鶴の声が変わる。
「大丈夫なの?」
「監督にもトレーナーにも言った」
「本当に?」
「本当」
「今日は?」
「ブルペンなし」
「よかった」
「打撃二十球だけ」
「二十球“も”では?」
「監督より厳しいじゃん」
千鶴が笑う。
「心配ですから」
数秒。
お互い、何も言わない。
でも電話越しに声を聞くだけで安心する。
肇が言った。
「千鶴」
「はい」
「会いたい」
千鶴が少し黙る。
「私も」
「ホテル別だし」
「学校の団体ですからね」
「甲子園でも話せないし」
「今は仕方ありません」
「だから電話した」
千鶴は優しく答えた。
「嬉しいです」
肇も少し笑った。
「俺も」
そして。
「千鶴」
「何ですか?」
「大好きだよ」
千鶴の頬が少し赤くなる。
誰もいない場所とはいえ、ホテルの中。
それでも小さな声で。
「私も大好き」
「それと」
千鶴はもう分かっている。
「何ですか?」
「愛してるよ」
「……」
出発前夜。
同じ言葉を交わした。
学校では言えない。
甲子園でも言えない。
でも今だけ。
電話の向こうだけ。
千鶴も答えた。
「私も愛しています」
肇は少し黙る。
「何で黙るんですか?」
「嬉しい」
「自分から言わせたのに?」
「千鶴から言ってもらうのは別」
千鶴が笑った。
「仕方ない人ですね」
「うん」
◇◇◇
その頃。
少し離れた場所。
一条監督が時計を見る。
残り二分ほど。
前薗と和誠がいる。
「監督」
前薗が聞く。
「誰に電話してるか知ってるんですか?」
一条監督は平然と答える。
「知らん」
和誠が見る。
「でも許可早くなかったです?」
「高橋にもプライベートくらいある」
「まあ……」
「甲子園中だからって家族や知人に電話するなとは言わない」
前薗は少し納得する。
「でもあいつ、顔が違ったんだよな」
一条監督が反応しないようにする。
「どんな?」
「電話する前、ちょっと嬉しそうだった」
和誠も。
「分かる」
一条監督は苦笑する。
「お前ら、人の電話を詮索するな」
「はい」
二人はそれ以上聞かなかった。
一条だけは知っている。
電話の相手がおそらく東雲千鶴だということを。
しかし、それを口にすることはない。
◇◇◇
電話。
「千鶴」
「はい」
「次の二回戦」
「はい」
「頑張ってくるから」
「はい」
「応援してね」
千鶴は少し笑った。
「そんなこと、言われなくても応援します」
「吹奏楽部顧問として?」
肇が少し意地悪く聞く。
千鶴も分かっている。
「それも」
「それ以外は?」
数秒。
そして。
「あなたの大切な人としても」
肇が笑った。
「それ聞きたかった」
「分かって聞いたでしょう?」
「うん」
「本当に……」
千鶴も笑った。
「肇」
「何?」
「一つだけ」
「うん」
「160kmを出すことを目標にしないでください」
肇の表情が真剣になる。
「分かってる」
「球速よりアウト」
「うん」
「ホームランより勝つこと」
「うん」
「四本打とうとしない」
「それは昨日も狙ってない」
「本当に?」
「本当だって」
千鶴が笑う。
「じゃあ」
少し優しい声。
「二回戦も、仲間と一緒に勝ってきてください」
「うん」
「待っています」
「千鶴」
「はい」
「大好き」
「私も」
「愛してる」
少し間。
「私も愛しています」
肇は時計を見る。
五分。
「そろそろ戻る」
「はい」
「またね」
「練習頑張って」
「うん」
「無茶しないこと」
「はい」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
電話が切れた。
◇◇◇
千鶴はしばらく画面を見ていた。
顔が少し赤い。
その時。
「東雲先生?」
背後から声。
千鶴が驚く。
振り返る。
吹奏楽部員の一人。
「はい?」
「大丈夫ですか? 顔赤いですけど」
「え?」
「暑いですか?」
千鶴はすぐ教師の表情へ戻る。
「少し暑かっただけです」
「ホテルの中、涼しいですよ?」
「……電話で少し話し込んでしまって」
「ご家族ですか?」
「まあ……そんなところです」
完全な嘘ではないような、そうではないような答え。
千鶴はスマートフォンをしまった。
「午後も練習しますから、しっかり昼食を食べてくださいね」
「はい!」
部員が去る。
千鶴は小さく息を吐いた。
「危なかった……」
そして。
小さく笑う。
「頑張って、肇」
◇◇◇
地方球場。
肇が戻る。
前薗が時計を見る。
「四分五十秒」
肇が驚く。
「測ってたの?」
「監督が五分って言ったから」
和誠が肇の顔を見る。
「機嫌よくなった?」
「普通」
「絶対普通じゃない」
「何で?」
「電話前より笑ってる」
肇は顔を触る。
「そう?」
前薗が言う。
「誰だった?」
「秘密」
「彼女?」
その一言。
肇の動きが一瞬止まる。
和誠も冗談半分で、
「まさかな」
と笑う。
肇は自然を装う。
「想像に任せる」
「いるの!?」
前薗が驚く。
「言ってない」
「今の反応絶対いるだろ!」
「午後練習始まるぞ」
「逃げた!」
一条監督が遠くから叫ぶ。
「前薗! 鈴木! 高橋!」
「はい!」
「遊んでないで集合!」
「はい!」
三人が走る。
その途中。
一条監督と肇の目が一瞬合った。
一条監督は何も聞かなかった。
ただ、
「五分以内だったな」
「はい」
「ならいい」
それだけ。
肇も。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げた。
◇◇◇
午後一時過ぎ。
再び練習。
その頃、甲子園では第三試合が進んでいた。
守備練習中。
「監督!」
森下結菜が走ってくる。
「第三試合、終わりました!」
「結果」
「智辯学園高校が花咲徳栄高校に八対六で勝利です!」
選手たちが反応する。
「八対六」
「打撃戦か」
結菜が続ける。
「五回終了時点では花咲徳栄が五対三でリードしていました。でも六回と七回で智辯学園が五点を取りました」
一条監督が言う。
「また逆転」
「はい」
「今日三試合」
全員を見る。
「全部、終盤まで流れが動いている」
「はい!」
「甲子園では先制したから勝ちじゃない」
「はい!」
「三点リードしても」
「はい!」
「五点取っても」
「はい!」
「最後まで集中する!」
「はい!」
肇も強く頷いた。
一回戦。
十二対三。
大差で勝った。
だが。
次もそうなる保証はない。
一条監督がいつも言う。
試合は〇対〇から。
「高橋」
「はい」
「昨日四本打ったな」
「はい」
「次の試合で打てる保証は?」
「ありません」
「そういうことだ」
「はい」
「だから今日やることをやれ」
「はい!」
◇◇◇
練習後半。
投手陣は軽いフォーム確認。
黒崎蓮。
早川慶介。
久我直哉。
今日は肇が投げない分、三人が順番にブルペンへ。
肇は少し離れた場所から見る。
久我のストレート。
黒崎の変化球。
早川の制球。
「いいな」
前薗が隣に来る。
「何が?」
「投手陣」
「うん」
「二回戦、俺が投げなくてもいいかも」
前薗が驚く。
「高橋がそんなこと言うようになるとは」
「俺も驚いてる」
「でも先発したい?」
「もちろん」
「どっちだよ」
二人が笑う。
肇は続ける。
「でも」
「うん」
「誰が投げても勝てるなら、それが一番いい」
前薗は少しだけ真剣な顔になる。
「地区大会の頃と変わったな」
「そう?」
「うん」
「千鶴にも言われたから」
口に出してから。
「あ」
前薗が見る。
「千鶴?」
肇の頭が一瞬真っ白になる。
「……」
「誰?」
肇は咄嗟に。
「母さんの知り合い」
「名前で呼ぶくらい仲いいの?」
「家族ぐるみだから」
以前から使っている説明。
母・由紀子と千鶴は高校時代の先輩後輩。
これは事実。
前薗は深く追及しなかった。
「へえ」
肇は内心で息を吐いた。
危ない。
電話をした直後だから油断していた。
◇◇◇
午後四時。
練習終了。
「集合!」
七十人。
十一人のマネージャー。
一条監督が全員を見る。
「今日は軽い調整だった」
「はい」
「明日はまた二回戦へ向けた確認をする」
「はい!」
「今日、甲子園で行われた三試合」
選手たちを見る。
「大阪桐蔭対広陵」
「仙台育英対中京大中京」
「智辯学園対花咲徳栄」
「どの試合からも学べるものがあった」
「はい!」
「特に」
指を立てる。
「試合は最後まで分からない」
「はい!」
「俺たちは昨日十二対三で勝った」
「はい」
「だから何だ?」
沈黙。
肇が答える。
「次は〇対〇です」
一条監督が頷く。
「その通り」
「はい!」
「次の相手がどこだろうと」
「はい!」
「一回戦の結果は持ち越せない」
「はい!」
「二回戦も一から戦う!」
「はい!」
「絶対勝つぞ!」
「おおおおおおっ!」
大きな声が地方球場へ響いた。
◇◇◇
ホテルへ戻るバス。
肇は窓側。
スマートフォンを見る。
千鶴との通話履歴。
五分弱。
短い。
でも十分だった。
『大好き』
『愛してる』
電話越しでも言えた。
学校では言えない。
甲子園でも言えない。
だからこそ、その数分間が特別だった。
前薗が隣から聞く。
「また電話?」
「してない」
「さっきの相手?」
「秘密」
「やっぱり怪しい」
「寝ろよ」
「まだ夕方だぞ」
肇が笑う。
窓の外を見る。
次の試合。
二回戦。
相手が誰であろうと。
必ず勝つ。
そのために。
今日。
休む。
調整する。
仲間を見る。
そして大切な人の声を聞いた。
肇は目を閉じた。
千鶴の最後の言葉が耳に残っている。
『二回戦も、仲間と一緒に勝ってきてください』
「うん」
小さく呟いた。
「何?」
前薗が聞く。
「何でもない」
甲子園一回戦突破。
高校通算六十四本塁打。
160km。
そんな数字のすべてを一度置いて。
高橋肇たちは次の一戦だけを見始めていた。
高校最後の夏。
全国制覇まで――。
まだ、最初の一勝を手にしただけだった。
第23話「試合のない一日――地方球場での調整と、電話越しに交わす二人の約束」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は甲子園での試合そのものではなく、初戦と二回戦の間にある調整日を描きました。
初戦では十二対三。
神奈川県代表・横浜高校を相手に大差で勝利。
さらに肇は一試合四本塁打、高校通算六十四本塁打。
投手としても三度の160kmを記録しました。
しかし、甲子園はまだ始まったばかり。
だから一条監督は、肇へ無理をさせません。
ブルペン投球は禁止。
キャッチボールも軽め。
打撃練習も二十球まで。
以前の肇なら、
「まだできます」
「もっと投げられます」
と言っていたところでしょう。
ところが今回は、周囲に止められながらもしっかり身体を休めることを受け入れています。
高校最後の夏を長く戦うためには、
「練習すること」
だけではなく、
「休むこと」
も必要です。
そして今回重要だったのが、二人のマネージャーによる甲子園一回戦の速報。
第一試合。
大阪桐蔭高校対広陵高校は七対四。
第二試合。
仙台育英高校対中京大中京高校は六対五のサヨナラ。
第三試合。
智辯学園高校対花咲徳栄高校は八対六。
どの試合も簡単には決まらず、終盤まで流れが大きく変わりました。
それを見た一条監督が改めて伝えたのは、
「試合は最後まで分からない」
ということ。
肇たちは前日の初戦を十二対三で勝っています。
けれど、その九点差を二回戦へ持ち越すことはできません。
四本塁打も。
160kmも。
高校通算六十四本塁打も。
次の試合が始まれば、すべて〇対〇。
今回の調整日は、そのことを改めて全員が確認する一日でもありました。
そしてもう一つ。
今回の中心となったのが――肇と千鶴の電話です。
甲子園へ来てから、二人はほとんど二人きりで話せていません。
肇は野球部。
千鶴は吹奏楽部顧問。
宿泊先も別。
甲子園で顔を合わせても、学校関係者や生徒が周囲にいるため、
「東雲先生」
「高橋君」
という教師と生徒でいなければなりません。
だから昼食後。
どうしても千鶴の声を聞きたくなった肇。
前薗と鈴木には電話の相手を明かせません。
しかし一条監督だけは、二人の関係を知っています。
そこで、
「五分なら行ってこい」
と許可。
もちろん誰に電話するかは、前薗や鈴木には伝えません。
そして電話越し。
「大好きだよ」
「私も大好き」
「愛してるよ」
「私も愛しています」
学校では絶対に交わせない言葉を、ほんの数分だけ二人で交わしました。
さらに肇から、
「二回戦、頑張ってくるから応援してね」
と伝えられた千鶴。
それに対して、
「吹奏楽部顧問として」
だけではなく、
「あなたの大切な人としても」
応援すると答えました。
ただし千鶴が最後に伝えたことも大切です。
「160kmを出すことを目標にしない」
「球速よりアウト」
「ホームランより勝つこと」
甲子園で注目されればされるほど、数字や記録へ意識が向きやすくなります。
けれど二人が望んでいるのは、記録更新だけではありません。
仲間と一緒に勝つこと。
高校最後の夏を、一試合でも長く続けること。
そして――全国の頂点へ立つこと。
電話を終えた肇は、午後の練習へ。
千鶴も吹奏楽部三十人の練習へ戻りました。
離れた場所にいても、二人が目指している場所は同じです。
甲子園初戦突破。
全国制覇へ向けて手にしたのは、まだ一勝。
次はいよいよ――二回戦。
高橋肇たちは、再び〇対〇から始まる一戦へ向かっていきます。




